5−3
まじないを取り仕切る郁美だけは立ち合っていたわけで、手順の中で願いごとを囁くように述べる必要があった。囁き声は通常の発声と異なるため、異界と通じやすくなるのだという。だから当然、脇に立つ郁美の耳にはその内容が届く。郁美はノートに記した。それをどうにかしようとしたわけでもあるまい。純粋に覚書だったのだと思う。
「そうですね。実希子ちゃんだけは純粋に願いごとをするつもりだったんですよね。結局怖くなったみたいですけど」
実希子はそのことについては触れず、「みんな誰かにいなくなってほしかったのね」と呟いた。
「いなくなってほしいと願ったのは絵里ちゃんだけでしょう。高圧的な父親を恐れ、疎んでいた。徹くんはたぶんお兄さんのささやかな不幸を願っただけじゃないですかね。犬の糞を踏むとかそんな。健二くんに至っては自分の性癖を満たすための機会を求めた……」
「たしかに、みんながそんなことを考えていたっていうのは驚いたけど、もっと信じられないのは、それが叶ってしまったことよ」
「叶った? まさか」
「圭吾くんだって知っているでしょ? 絵里ちゃんのお父さんは失踪したし、徹のお兄さん……修くんは受験に失敗してあんなことに」
「それとこれは」
「それに、健二くんの願いごと……」
「ああ……『もっと大きな生き物を傷つけたい』でしたっけ?」
「そう。それってもしかして」
「ちょっと待ってください。もしかして、先日の事故のことを言っています? 息子さんを撥ねてしまったことを」
「だって、そうとしか考えられないでしょう?」
「考えられなくないですよ」あまりの発想に返答がおかしくなる。
「だって、小学生くらいの男の子なら、ちょっと残酷な面もありますって。まだよくわかっていないんですよ。それに、今さら叶うなんて期間があきすぎじゃないですか?」
なぜ健二をかばうのか自分でもわからなかったが、もしかしたら、そんな大それたことに姉が加担していたと思いたくないのかもしれない。
「期間なんてあるのかしら? 賞味期限や有効期限が? 呪いに?」
「呪いじゃなくて、おまじないでしょ?」
些細なことを修正してしまう。実希子は「残念だけど」とでも言いそうなため息をついた。
「修くんが亡くなったのだって、あれからずいぶん後のことよ。願ったのは私たちが六年生の時だから、当時、修くんは中三。大学受験の失敗どころか、高校受験もまだだったわ」
実希子はあの出来事を『亡くなった』としか言わない。自殺。縊死。そんな言葉は生々しすぎるから。
「でもそんなことを言ったら、実希子ちゃんの願いは」
と言いかけて、はたと気づく。そうだ、実希子が願おうとしていたのはおそらく修との結婚。少女らしい夢。しかし、実希子は願わなかったし、願っていたとしても叶うはずはなかった。
相対する願いがあった場合、どのように優先順位がつけられるのだろう。そんな疑問が浮かぶが、いつの間にかまじないが成立している前提で思考していることに気付いて震えた。
なぜ、こんな話になっている? 思い出せ。こんな話をしたかったわけじゃない。
はっ、はっ、はっ、と足元を荒い息が通り過ぎ、数歩後からアスファルトを擦るスニーカーの音が追いかける。犬の散歩をする人が通り過ぎたらしい。
迷いかけた道から知っている道へたどり着いた気分になった。なんだかわからないが、言うべきことを言わなければ引きずられる気がした。
「僕はね、本当は姉が生きている間にみんなに謝ってほしかったんですよ。みんなにしてみれば悪意はなかったかもしれないし、過去のことかもしれない。でも姉は小学生時代から抜け出せずにここまで来たんです。進学しても就職しても人と交われない。交わってはいけないと刷り込まれてた。みんなが謝ってくれたら、少しは変わったかもしれません。だけど、もう遅い。だから、せめて今からでも悔いてくれるならと思ったんです。それで、唯一姉を苦しめず、呪いにも加担しなかった実希子ちゃんに真実を記したノートを託したんです。徹くんと付き合っていると聞いていたし、みんなに反省をうながしてくれるんじゃないかと期待して」
日が暮れてくる。圭吾の目は光が多すぎれば白一色になるし、光が少なすぎれば黒一色に染まる。目の前の赤い服だけがどうにかこの空間に一人ではないことを感じさせてくれた。その赤に向かって語り続ける。
「みんななにを勘違いしているのか知りませんが、呪いどころかおまじないだって姉にはできませんよ。幼いながらに弟の目がよくなるようにと願っていただけの普通の人間です。少女らしくおまじないにすがるしかなかった普通の人間です。ドワーフとかいう男のことだって姉の創作でしょう。みなさんはまんまと姉に乗せられたんですよ」
「ドワーフはやっぱりいないのね? 私だけが覚えていないのかと……」
「ええ、いませんよ。覚えていないんじゃなくて、実希子ちゃんは本当に見たことがないんですよ。いない人が見えるはずがない。ほら、いつだったか、絵里ちゃんがうちの親に知らせてくれたことがあったでしょう。姉がホームレスの男になにかされているかもしれないって。あのとき大人たちは調べたんですよ。でもそんな人物はいなかった。たしかに防空壕跡はあったけど、生活の跡はなかった。当然です。中に入れないように鉄製の柵がはめ込んであったんですから。ドワーフがいるなんて言っていたのはあなた方だけです。子供のころの空想世界を実際の思い出と勘違いしているんでしょう。ただの記憶違いです。珍しいことじゃないと思いますが?」
「……ほんとう?」
か細い声だった。もしかしたら泣いているのかもしれない。
「どうしました? なにか、あったんですか?」
なぜそのことに思い至らなかったのだろう。なにか心細くなるようなことがあったのだ。ありもしない呪いが叶ってしまったと信じるくらいのなにかが。
「……たいか」
「たいか?」
「えっと、支払いっていうか、代償っていうか」
「ああ、対価」
「うん。ノートに書いてあったでしょ、『対価』って」
「うーん。どうだろう? よく覚えてないですね」
書いてないとは言い切れないが、記憶に残っていないということは、特に意味のある部分ではなかったのだろう。
「それがどうかしました?」
「最後に書かれていたのがそれだったの」
そうだっただろうか。だとしても、それがなんだというのだろう。
「圭吾くんは等価交換ってわかる?」
なにを言いたのかわからないが、話の流れとして経済的な意味合いではないだろう。それ以外となると、特に思いつかない。
「いえ、ちょっとわからないですね」
「人魚姫って話があるでしょ?」
「アンデルセンの」
「そう。あのお話では、人魚姫が海の魔女に頼んで人間にしてもらうの」
「ええ、そうですね」
「その代わりに声を失う」
「ああ、なるほど。まあ、それが等価かどうかは怪しいものですが」
「うん。でも、なにかを得るためにはなにかを差し出すって魔女との取引の原則だと思うのね。あ、郁美ちゃんを魔女って言っているわけじゃなくて」
「大丈夫です。言いたいことはわかります。願いが叶ったら代償を払わなければならないって……あ。もしかして、絵里ちゃんの怪我はお父さんが失踪したことの代償だと? そんな、まさか」
まさか、とは言ったものの、笑い飛ばす意味で出てきた言葉ではなかった。信じたくない、あるわけないと言ってくれ、という意味の『まさか』だった。
対価。代償。その考えは腑に落ちた。
「絵里ちゃんね、ここの階段から落ちる時に黒い子猫を見たと言ったの。雑木林から出てきたって。落ちた後もずっと絵里ちゃんのことを見下ろしていたって」
「それって……」
「うん。あの時の猫だって言うの」
「まさか」
それこそまさかだ。いったい何年前の話だというのだ。そんな長寿な猫がいるなんて聞いたことがない。しかも子猫のままだなんて。いや、それ以前に、呪具として使われたんじゃないのか。みんなで切り裂いて――
「絵里ちゃんは猫の名前も覚えていた。〈影〉って」
「影……」
「それを聞いて――」
雑木林がごうと鳴った。
実希子が小さく悲鳴を上げる。
突風が吹き抜けただけだった。
「……びっくりした」
「ですね。僕も思わず息を止めてしまいました」
二人でくすくす笑い合うと、少しだけ緊張がほぐれた。
ほぐれて気づく。緊張していたのだ。ただ、立ち話をしているだけなのに。
白杖を握る手が汗ばんでいた。階段の上で白杖を取り落としては大変だ。圭吾は一旦左手に持ち替えて、右手の汗を服で拭った。
「でもやっぱりそれは関係ないですよ。だって、ほかの二人は……」
いや、待てよ。健二は願いが叶ったばかりだ。あの事故を叶ったとするならばだが。すると対価の支払いはまだ先なのかもしれない。だが、徹はどうだ? 願いとは大きな誤差があるとはいえ、すでに叶っているのではないか。とすると。
「……徹くんになにかあったんですか?」




