5−2
「圭吾くん?」
声掛けと同時に正面から顔を覗き込む仕草をしたが、圭吾にその目鼻立ちまでは判別できない。とっさのことに声を出せずにいると「実希子です」と名乗った。
「ああ、実希子ちゃんか。まさかこんなところで会うとは思いませんでしたよ」
「絵里ちゃんがね、入院してるの。それでお見舞いに」と言いながら隣の椅子に腰かけた。「あ、でも知ってるよね。おばさんと話していたものね」
「はい。話だけは聞いています。骨折、でしたっけ?」
「うん。そう。それでね、さっき絵里ちゃんと話していて思い出せないことがあったの。ねえ、圭吾くんはドワーフって知ってる?」
「えっと、ファンタジーに出てくる?」
「あ、うん、そうなんだけど、そうじゃなくて。子供のころね、ドワーフってあだ名のおじさんだかおじいさんがいたんだって。でも、私は覚えてなくて……。圭吾くんは知ってる?」
「いや……僕は実希子ちゃんたちと遊んだことはあまりなかったし……」
と、言いかけて待てよ、と思った。そのあだ名って――
「そうだよねぇ。……ごめんね、急に変な話をして」
立ち上がろうとする実希子に慌てて声をかけた。
「知ってるかもしれない!」
「え?」
「知ってるというか……正確には、姉のノートで読みました」
「ノート? 私が持っている郁美ちゃんのノートのこと?」
実希子は浮かした腰を椅子に戻した。
「はい。でも、あれはてっきり姉の空想の部分だと思ったんですが」
「空想?」
「やっぱりまだ読んでないですか?」
「うん。なんだか、その……怖くて」
実希子の口調から、死んだ人の書いたものなんて気持ち悪い、と聞こえた気がしたが、今は気にせず言葉を続けた。
「あのノートって、思いついたままに書かれているみたいで、現実と空想がごちゃ混ぜなんですよ。……あれ? でもおかしいな。やっぱりドワーフって空想のはずなんじゃ……」
一度、郁美が不審者に接触されたとのことで警察に通報されたことがある。絵里が目撃したのではなかったか。そうだ、ホームレスの男に抱き寄せられた郁美が泣いていたとか。
しかし、それは郁美のノートによると別の話になる。学校で孤立していることをドワーフに相談していたのだ。クラスメイトが、占いやまじないなどの情報が欲しい時にしか話してくれないと。まれに関係のない会話をすることもあったが、そんな時は絵里が話を遮ると。そんな話、魔女である郁美が楽しいわけないでしょ、と。それが悲しいと。絵里は良かれと思って言ってくれたのに、それに感謝できない自分にも悲しいと。そう言って泣いた。ドワーフは「郁美は悪くない。絵里の優しさを受け入れようとする優しい子だ」と慰めてくれたという。
ドワーフは郁美の空想なのだから、泣いて慰められているシーンも現実ではないはずだ。考えにくいが、仮に郁美がその空想を絵里に話したことで、絵里があたかも目撃したかのような錯覚に陥ることはあるかもしれない。だとしてもだ。それなら、そのシーンの意味するところが誤解されることはない。
どうなっているのかさっぱりわからない。
「ノートを読んでみてください」
「でも……」
この女はこの期に及んでまだ幼馴染みの雑記帳を気持ち悪いというのだろうか。胸の内にとげとげしいものが生えてくる。
「実希子ちゃんが読んだ後なら返してくれていいですよ」
「ほんと?」
身を乗り出したらしく、耳元で声がした。
「はい。その代わり、本当に読んでくださいね。一回でいいですから」
「うん。読むよ。いつ、どうやって返せばいい?」
互いに連絡先を知らないことに気付く。かといって、このように訊くということは、圭吾に自分の連絡先を告げるつもりはないのだろう。圭吾も、今後付き合うこともない人に連絡先を教えるのは多少の抵抗がある。
「では、先に会う日を決めましょう。そうですね……一週間後……いや、確実に読み終わったころにしましょう。二週間後に岩倉台の雑木林の前はどうですか?」
実希子がどこに住んでいるか知らないが、岩倉台まで来てもらうのは悪い気もした。せめて駅前の店でも指定できればいいのだが、いかんせん、この目では、人混みで待ち合わせをするのは骨が折れる。幸い、実希子は気にする様子もなく、提案を受け入れてくれた。
「わかったわ。じゃあ、二週間後に」
*
今日がその約束の日だ。
バス停に降り立つと、木々のざわめきが聞こえた。雑木林を抜ける風が鳴らす音だ。実希子は反対側の階段辺りにいるはずだった。圭吾は白杖の先を滑らせて足元を確認した。かさりと乾いた音がする。枯葉が積もる季節になったらしい。
この辺りはバス通りでも交通量は多くない。住宅街へ道を折れれば、ほとんど車は来ない。
静かだ。この街はいつだって静かだ。かつて空襲があったころも、静かに暮らす人たちがいたはずだ。ひと山まるまる新興住宅地であるこの地域には、古くからの土地所有者はいない。
小学校では〈いわくらだいのいまとむかし〉という冊子が配られ、地域の成り立ちを学ぶ郷土史の授業のようなものがあった。どこの小学校でも似たようなことをしていたようで、別の小学校では地域のお年寄りから戦争中の話をしてもらったと聞いたことがある。
ここでは教える方も教わる方も過去の記憶などない。残された古い地図や防空壕跡などを見て、当時を知るしかなかった。
小学校の裏にも防空壕跡があり、そこを見学した。粘土質の地層は子供の背丈ほどにくり抜かれたトンネルになっていて、光の届かない奥の方でぴちょん、ぴちょん、と水が垂れる音がしていた。安全のため入り口には鉄の柵がはめ込まれており、子供たちは錆びた細い棒を握り締めて暗闇を覗き込んだ。穴は行き止まりだったはずだが、吹き込んだ風が折り返してくるのか、ひんやりと冷たい空気が苔の匂いを乗せて漂ってきた。
あのころの岩倉台には雑木林や防空壕跡はいくつもあったが、中学や高校でなんの気なしに話すと、周りはそろってそんなものはなかったと言った。よく聞けば、空き地や原っぱならあったという。岩倉台にはそういう開けた空間はなかった。岩倉台にあるのは物陰。なにかが潜んでいそうな目の届かない部分。
そんな場所があったから秘密基地なんてものも作れたのだろう。原っぱの真ん中にある基地など秘密でもなんでもない。
階段に続く道の角に赤い布らしきものが風に揺れているのが見えた。白くかすんだ視界の中で、圭吾が認識できるのは色濃いものだけだ。それでも輪郭はぼやけていて、なにかがあるということしかわからない。
「こんにちは」
赤いものから実希子の声がした。秋らしい色合いの服装をしているのだろう。
「こんにちは。ずいぶん早くないですか?」
よその町から来るのに待たせては悪いと思い、圭吾は早めに来たつもりだった。
「うん。気になることがあって早く来たの」
「それって、ノートに関係あることですか?」
「そうなの。どこから話したらいいかしら……」
実希子が言い淀んだまま口を閉ざしたので、圭吾は先を促すつもりで問いかける。
「ノートは読みました?」
「読んだわ」
「それで?」
「なんていうか……信じられなくて」
「実希子ちゃんが信じようが信じまいが、姉が苦しんでいたのは確かなんです」
「あ、うん。それはわかるっていうか、読んでみて、やっぱりって思った」
「わかる? 気づいていたってことですか? 姉が仲間外れにされていたって?」
「もちろん、みんなに悪気はなかったと思うけど、郁美ちゃんが魔女って呼ばれることや特殊能力を持っている人みたいに扱われるのを嫌がっていたのはなんかわかったかな」
「わかっていて、実希子ちゃんはなにもしなかったんですか?」
「私がなにをすればよかったっていうの?」
反論ではなく、純粋な疑問のような口調だった。圭吾はそれには答えず、ひとつ息をついた後に、話を促した。
「信じられないっていうのは?」
「みんなが願った内容よ。だって、あんな呪いみたいなこと」
たった一度、幼馴染みたちのために行ったまじない。その時の様子も記されていた。箇条書きの作業記録みたいな記述。一人ずつ行ったため、互いの望みを知ることはなかったのだろう。ただ一人を除いては。




