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翌日、実希子は仕事が終わると一旦帰宅して喪服に着替え、職場から直行する徹と落ち合うため岩倉台駅へと向かった。通夜は自宅ではなく、駅付近の斎場で行われる。
今は都内で暮らしているが、岩倉台駅までは一時間もかからずに行けるのだから、けして遠いというわけではない。けれども外出好きの母と会うのはいつも外だから、実家があるとはいえ、岩倉台に来るのはずいぶんと久しぶりだった。
駅前のロータリーの風景も様変わりしていた。ビルの壁面はくすみ、どこか寂れた雰囲気を醸し出している。道行く人の年齢層が高い。一度に同世代が移住してきたせいで、実希子や徹のように若い世代は街を出ると一気に街の高齢化が進んだのだろう。かつての新興住宅地に新しさは失われていた。
「お待たせ」
改札口を抜ける人波の中から徹が現れた。普段から着ているダークカラーのスーツに、ネクタイだけ弔事用のものに付け替えている。
「歩きでいいよな?」
「うん」
駅からバスも出ているが、歩いても十分足らずの距離だ。かつてバス通り沿いにはいくつかの店舗があるだけで空き地も多かったのだが、今は隙間なく建物が並んでいる。道は変わっていないはずなのに、暮れゆく街並みと相まって迷いそうになる。
斎場ではスタッフによって手際よく案内され、順路に沿って進むうちにあっさり焼香が済んでしまった。祭壇で遺影をじっくり見ることさえなかった。
焼香の順番が回ってきた際にちらりと遺影を見上げたが、懐かしさは湧いてこなかった。幼いころの面影があるのかどうかさえ判然としない。かといって見知らぬ顔というわけでもなく、記憶の上辺を掠めていくようなもどかしさだけが残った。
部屋の出口で配給のように香典返しを受け取り、先に焼香を済ませた徹と共に廊下を進むと、ざわめきに満ちた部屋に辿り着いた。長テーブルに寿司桶やビール瓶、ソフトドリンクのペットボトルなどが並ぶ通夜ぶるまいの席だ。飲食をしているのは身内が多いのだろうか、年配者の姿が目立つ。女性たちは故人とは関係なさそうな世間話に花を咲かせ、男性たちは酔っているのかがさつな笑い声を上げている。
供養のためには立ち寄るべきなのだろうが、どうにも居心地が悪そうだ。素通りを提案するために徹の腕に手をかけたところで、こちらに向かって手を上げる人が目に入った。徹と同時に「あ」と声をあげる。岩本健二だった。
健二のもとへ向かう徹についていく。
「健二も来てたのか。久しぶりだな」
「十年……いや、二十年振りくらいか? いやあ、わかるもんだな」
「すっかりオジサンの風貌なのにな」
「うるせえよ。お互い様だろうが。……で、こちらは、奥さん?」
健二が実希子に手を向けた。徹と顔を見合わせ、しばし見つめ合った後、同時に吹き出した。だが、すぐにここがどのような場なのか思い出し、慌てて笑いを収める。
「奥さんって、おまえ、それ本気で言ってるの? いや、まあ、そうなる予定ではあるけど」
「予定?」
「あ、いや、それはいいんだ。彼女は実希子だよ。瀬尾実希子。覚えているだろ?」
「実希子? え、あのみきちゃんか!」
健二の頭の中でどうにか過去と現在の姿が繋がったらしい。実希子は口元に小さく笑みを浮かべた。
「健二くん、久しぶり」
「おう、久しぶり。うんうん、言われてみれば面影がある……ような、ないような」
「えー。私、そんなに変わった?」
「ああ。全然わからなかったよ」
「オバサンになったとか言ったら怒るよ」
「言わない言わない……しかし、それに比べ……って言い方をするのもどうかと思うけど、郁美の遺影、見たか? ずいぶん老けてたな」
「ああ。実は俺もそう思った」
すかさず徹が同意したが、実希子は曖昧に頷くに留めた。
遺影に面影を見つけられなかったのはそのせいだったのだろうか。いつ撮った写真なのかわからないが、たしかにあれが最近の写真であったなら老けていると言わざるを得ない。ただそれは無気力そうな表情のせいではないかと思う。顔立ちの美醜の問題ではなく、好感の持てる顔ではなかった。あれよりほかにいい写真がなかったのだとしたら、郁美は満たされない毎日を過ごしていたのかもしれない。
喪章をつけた葬儀社のスタッフらしき男性が近づいてきて腰をかがめた。
「なにかお飲み物をお持ちしますか?」
徹と健二が互いに「おまえは?」と尋ねては首を振った。実希子も無言で首を振ると、徹が「ありがとうございます。結構です」と答えた。スタッフが立ち去るのを待って、健二が顎で出口を示した。
「……そろそろ行くか」
たまたま時間が重ならないだけなのか、斎場で同世代の弔問客を見かけていない。いるのは、明らかに郁美本人の知人ではなく、両親の関係者ばかりだった。
建物を出ても誰も別れの挨拶を口にしない。どこか腰を落ち着ける店でもないかと辺りを見渡してみるが、地元の飲み屋くらいしか見当たらない。けれども男性二人は場所にこだわりはないらしく、斎場に隣接したコインパーキングの隅で語り始めた。通りに面しているのに、少し奥まっているせいか、車の走行音は控えめにしか聞こえない。
連絡先の交換を終えると、健二が斎場を見やって言った。
「そういえば、絵里は来てないのかな?」
徹が首を振る。
「そういや見てないな。実希子は?」
「私も見てない。見かけても顔がわかる自信はないけど。とりあえず同年代の人はいなかった気がする。私たちより先に来ていた健二くんが見ていないなら、絵里ちゃんは来てないのかもしれないね」
子供のころは毎日一緒にいた五人だが、いまや散り散りだ。実希子、徹、健二、絵里、そして郁美。絵里は郁美の訃報を知らないのかもしれない。知っていたところで通夜に来るとも限らない。もう二十年近く交流を断っているのだから。
けれども健二はそうは思わなかったようだ。
「俺たちはずっと会わずにいたけど、親同士は変わらず近所なんだし、こういうことは連絡しているんじゃないのかな。俺も親から知らされたし」
「そうね。私もお母さんから聞いた」
「あれ? そういえば、徹はよく知っていたな。おまえんとこの親、どっかに引っ越しただろ?」
「ああ、伊豆な。父親が早期定年退職して、温泉付きの家で半自給自足みたいな生活をしているよ」
「だよな。でもって、おまえは東京だろ? それならどうして……って、え、おまえら、もしかして……? でも奥さんじゃないって……あ、でも、え、じゃあ『予定』って……そういうことか!」
健二は実希子と徹に向かって人差し指を行ったり来たりさせて、一人で納得している。笑ってその指先を見ていると、視界の隅をなにかが走り抜けた。
またあの影だ。
いや、もっと大きい。ネズミだろうか。
影を追って首を巡らせたが、すでに影は夜の闇に溶け込んでいた。代わりに、喪服姿の男性がこちらへやってくるのが見えた。
車道は赤信号なのか、車の走行音が途切れ、カツカツと小刻みに音が響く。小さな懐中電灯の強い明かりが、アスファルトを左右に揺れながら近づいてくる。男性は慎重な足取りだ。
カツ、カツ、カツ……
近づいてくる音は、左右に振られる白杖が地面を打つ音だった。徹と健二も音に気づき、彼の姿を認めたようだ。
「あれ? あいつ……」
徹が呟いた。