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祈願成就  作者: 霜月透子
五、坪内圭吾
19/22

5−1

 岩倉台総合病院の裏手にある喫茶店は空いていた。NPOの運営する喫茶店で、障害のある若い子が従業員として働いている。コーヒー、紅茶とパウンドケーキくらいしか置いていない店だが、圭吾は以前からよく利用していた。料金は街中のカフェの半額程度だし、病院の長い待ち時間を潰すためにちょうどいいのだ。


 けれども今日は受診が終わり、会計も済んでいる。いつもならまっすぐ帰宅するのだが、今日は待ち合わせをしているため時間調整のためにこの喫茶店に来た。


 ホットティーとパウンドケーキを注文したのだが、アイスコーヒーが来てパウンドケーキはついてなかった。こういうところがこの店が空いている原因なのだろう。だが、圭吾はオーダーが変化するそんなところが嫌いではなかった。メニューを選ぶ際は欲しいものを自分自身に問いかけるのだが、待っていたものと違うものが現れた時の方が楽しくなってしまうのだった。


 グラスを倒さないように慎重に手を伸ばし、左手を添える。右手でストローを握って氷をカラカラと鳴らした。脇にはガムシロップとミルクのポーションが置かれているはずだ。ミルクを入れたいが、圭吾にはどちらがどちらだかわからない。ブラックのまま冷えたコーヒーを飲んだ。


 幼いころから目が悪かった。眼鏡をかければ問題なく過ごせたが、お決まりのメガネザルというあだ名で呼ばれるのがいやであまりかけていなかった。


 本格的に悪化したのは高校生になってからだった。眼球がえぐられるような痛みが続き、自ら病院に行って病名を知った。その際にカルテを見た医師が首を傾げた。今までどこにも通院していないの? 本当に? 小学生のころにはもう診断がおりていたらしい。進行し、ときには失明にも至る病気で、定期的な診察が必要だった。

 しかし、当時、母は医師が告げた『ときには失明にも至る』の部分ばかりが印象に残り、帰りに駅前で勧誘された宗教にあっさり入信した。


 父親は育児を母に任せきりだったから、母の言う「圭吾の目なら治るから」という言葉を信じていたのだろう。母が念仏のようなものを唱えているのは知っていたはずだが、信仰によって治癒するという意味だとは思いもしなかったに違いない。

 郁美は子供ながらに母の言動を理解していたようで、弟の助けになりたい一心でまじないに手を出したのだと、圭吾は後になって知った。


 そのころは、処方された点眼薬を使用して状態が安定し、視力も変化がなかったため、圭吾自身、それほど深刻にとらえていなかった。病状説明で最悪の事態を想定するのは当然のことだと思ったし、それは病院側の責任とか義務とかの問題で、実際はそれほど頻発する事例ではないという印象を受けた。とはいえ、自分の意思で通院できる年齢であったから、「今回も安定していますね」という安心感を得るために定期健診は受けていた。


 ずっと安定していたのだから、初診以降に母が圭吾を通院させていたとしても結果は同じだっただろうと思っている。もし違う結果が待っていたとしても、今さら確かめようもない。


 安定していると言われている時でも郁美は親身になって心配してくれた。高校生の時に痛みが出た際も、母は半狂乱になり念仏を唱える時間が増えただけだったが、郁美は眼科への受診を強く勧めた。郁美の後押しがなければあのまま耐えていたかもしれない。

 母と違い、姉はまじないを補助的な力、もしくは不安を少しでも建設的な行動に転換したかっただけなのだと思う。


 社会人になり、眼病は思わしくない変化をきたした。服薬や手術をすることもあった。

 そんな時も母は相変わらずで、支えてくれたのは郁美だけだった。事情を知っている親類や知人は、圭吾が両親を恨んでいると思っているようだが、そんなことはない。感謝などは微塵もないが、恨むに値する人だとも思わない。悪意のない、ただ弱い人間。それだけのことだ。そう割り切って考えることができた。それもまた、姉という支えがあればこそだったのだろう。


 その姉が、死んだ。


 おかしなことだが、視力が落ち続けている時よりも怖かった。郁美は自身の目よりもずっと圭吾の一部だった。


 郁美はいつも他人のことばかり気にしていた。魔女と呼ばれるのも、特別視されて仲間外れにされるのも、実は寂しかったのだと圭吾は知っている。だが、そんな立場を孤高の存在のように憧れの目で見られると、その役割に満足している振りをしてしまうのだと、悲しげに笑っていた。


 絵里のことだとすぐにわかった。悪気はないのだ。だから仕方ない。郁美はそう言った。たしかに絵里に悪気はないだろう。ほかのやつらだってそうだ。明確な悪意を持って郁美に接していた人はいないと思う。でも、だからといって郁美が傷ついていないことにはならない。


 絵里だけではない。幼馴染みたちはみんな同じだ。郁美を尊重する振りをして無視してきた。いないように振舞うことだけを無視と言っているのではない。そこにある問題から目を逸らしていることを言っているのだ。そして、そのことを通常は悪意とは呼ばない。


 姉が恨まなかったものを弟の圭吾が恨む筋はない。ただ、知ってほしかった。今さらどうにもならないとわかっているが、ただ、知ってほしかった。

 それで、実希子に姉の――郁美のノートを渡したのだった。


 あのメンバーの中で比較的郁美を苦しめていないのは実希子だったように思う。善意の人というわけではない。たぶん、深く考えていないから。

 善意と思って起こす言動が裏目に出ても、相手は受け止めるしかない。避ければ善意を無下にしたことになるからだ。その点、実希子は善意だの悪意だのを気にしたことがなさそうだった。

 人はそれを自分勝手というのかもしれない。それでも郁美にとって、もっともましな接し方だったという。


 郁美のノートを実希子に渡す前に、圭吾も電子拡大鏡を使って時間をかけて読んだ。

 小学生の書いたものだ。文字は読みにくいし、文章もわかりにくい。虚実入り混じっていて現実に起きたことなのか空想なのか判断がつかない部分も多いものの、全体としては、日記ともつかない日々のあれこれが綴られている雑記帳だった。


 魔女と呼ばれ、まるで人間とは異なる種族のように扱われていた郁美に、占いやまじないについて話しかけてくる人はいても、他愛もないことを話せる相手はいなかったのだろうと容易に想像できる。唯一の話し相手はノートの中の自分自身。返事もアドバイスもしないが、どんな話でもいつまでも聞いてくれる。ここだけの話と断らなくても秘密を吹聴することもない。ノートにはすべて話し言葉で書かれていた。語りかけていたのだ。


 そのノートを返したいと実希子から言われた。一度目はきちんと読んでほしくて突き返したが、二度目は、読んでから返す、という約束で受け取ることにした。


 実希子とその約束をしたのは、まだ絵里が入院していたころだ。病院のロビーで会った。

 絵里の見舞いを終えた実希子が病棟から下りてきて、会計待ちの椅子に座っている圭吾に声をかけてきたのだった。


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