4−3
*
夏休みも終わりに近づいたある朝、徹がラジオ体操から帰ってくると、部屋で修が待っていた。個室があてがわれるのは、修が高校生、徹が中学生になってからだと言われていて、そのころはまだ二人で一部屋を共有していた。だから部屋に修がいることは不思議ではないのだが、いつもなら空腹を持て余して誰より先に食卓で待機しているはずだった。
「あれ? お兄ちゃん、もう朝ごはん食べたの?」
「いや。まだ。おまえが帰ってくるのを待ってた」
その口調はまるで同級生に話しかけるみたいに聞こえ、徹は大人扱いされた気がして口元が緩んだ。にやけ顔を誤魔化すため、わざと不機嫌そうな声を出してみた。
「なんだよ。なんか用?」
「悪いんだけどさ、お願いがあるんだ」
なんと、お願いときたもんだ。徹の顔はますますにやける。かつてこの完璧な兄に頼られたことなどあっただろうか。自分が力を貸せることなどあるとは思えないが、対等に扱ってくれたのが誇らしかった。
「なんだよ。言ってみろよ」
力が入りすぎたせいか、心ならずも強い口調になってしまったが、修は気を悪くした様子もなく徹に向かって手を合わせた。
「金を貸してくれ!」
「え?」
「この前、ばあちゃんちでお小遣いをもらっただろ? おまえ、まだ使ってないよな?」
先週は父がお盆休みで、家族そろって県内の祖父母宅へ遊びに行ったのだった。そのときに小遣いをもらった。祖母にとって孫は年齢に関係なくただ孫というくくりで、小学生だろうが中学生だろうが小遣いの額は同じだった。それは毎年のお年玉にも言えることだった。この前は二人とも五千円ずつもらった。
「うん。まだあるけど……」
いずれはゲームソフトかなにかを買うつもりだけれど、今すぐほしいものがあるわけでもないから、そのときまで大切に貯めておくつもりだった。
「貸してくれないか?」
「え。お兄ちゃん、自分の分は?」
「まだ残っているけど、ちょっと足りないんだ。今日、学校の友達と映画に行くことになってさ」
聞きたいことはいくつもあった。残っているのはいくらなのかってこと。今日は夏期講習があるんじゃないかってこと。映画館のある街はずいぶん遠いのではないかってこと。
徹が戸惑っていると、修は台所か居間にいるであろう両親の気配をきにしつつ、徹の耳に口を寄せてきた。
「女子もいるんだよ。少しくらい奢ってやらないといけないだろ?」
低くささやく声に、徹は飛びのいた。修が得意げな笑顔を見せている。すごく大人に見えた。疑問はなにひとつ解明されないし、女子に奢らないとならない理屈はわからなかったけど、そのためのお金を自分が貸すということがとても誇らしく感じた。
「いいよ。いくら貸せばいい?」
貯金箱にしている空き缶を開けながら訊いた。祖母から渡されたのは五千円札だった。必要のない分はおつりとして千円札をくれるものだと思った。
「五千円。サンキュ」
修は空き缶から直接五千円札を手に取って、ポケットに押し込み、台所へ向かった。
「お母さーん。ごはんまだあ?」
「もうちょっと待って。今支度してるから」
「おなかすいちゃったよー」
母と話す修の声を遠くに聞きながら、徹は乱暴に空き缶のふたを閉めた。
あの朝、修があんなことを頼んでこなければ、こんなことにはならなかった。
よくある一日のように、実希子が呼びに来て、でも修は出かけた後で、だから実希子は少し不機嫌で、それで徹もおもしろくなくて、だけど秘密基地に着いたら珍しく全員揃っていて、徹も実希子もすっかり機嫌を直して楽しく過ごしていた。そして、郁美が言った。
「なにか願いごとをしてみない?」
みんなが一斉に郁美を見た。
魔女と呼ばれ、多くの依頼を受けて呪具を作ったりまじないの方法を教えていた郁美だったが、秘密基地のメンバーは誰も世話になったことがなかったからだ。今日は蝉の声がやけに賑やかだ。
「どうしたの、急に」
誰もが聞きたかった言葉を発したのは絵里だった。
郁美は猫を膝に乗せたまま不思議そうに首を傾げた。
「べつにどうもしないよ。ただ、みんなも願いごとくらいあるんじゃないかなと思っただけ。二学期が始まったら、またほかの人たちにいろいろ頼まれて手一杯になっちゃうし、今ならちょうどいいかなって」
「願いごと、する!」
実希子が勢いよく手を上げた。
絵里が「知ってるよーだ」と歯を見せて笑う。
「みきちゃんの願い事は『修くんのお嫁さんになれますように』でしょ?」
「えっ。やだ、なんでわかるの?」
「ばれてないと思っていることの方が驚きだよ」
「うそー。みんな知ってたの?」
やっぱり隠し通せていると思っていたのかと呆れる。と同時に、女子と一緒に映画に行くと浮かれていた兄の姿を思い出して、実希子が少し気の毒になる。知らない女子よりはずっと知っている実希子を応援したくなるのは当然だ。
徹も小さく手を上げた。
「俺もやってみようかな」
すると「私も」「俺も」と絵里や健二も続いた。郁美が満足げに頷く。
「みんな参加ね。じゃあ各自ひとつだけ用意して。願いごとの対象の持ち物がいるの。つまり、みきちゃんの場合なら修くんのなにか」
「ええー。修くんの持ち物なんて借りられないよ。どうしてもなくちゃだめ?」
「うん。だって、願いを聞いてくれる神様が誰のことかわからないでしょ? 徹くんに頼めばいいよ。枕についた髪の毛とかでいいから」
「そんなのでいいなら任せとけよ」
徹は腰に手をあてて胸を張った。
「自分のことの場合は自分の髪の毛でいいのか?」
健二の質問に郁美は頷いた。
「そう。でも髪の毛にこだわらなくてもいいんだよ。普段使っている鉛筆とか消しゴムでも平気」
「おっけー。わかった」
健二は自分のことで叶えたいなにかがあるのだろう。俺はなにを願おうか。
徹の思考を読み取ったかのように、郁美が声を潜めて告げる。
「もちろん、呪いでも」
瞬時にして、みんなの表情が消え、なぜか蝉の声までやんだ。今まで耳に入っていなかった葉擦れの音がざわざわとうるさいほど響く。
「……なーんてね」
郁美がにやりと笑う。魔女のように。
「やだあ、郁美ちゃんが言うと怖いよー」
「やべぇ、まじかと思った」
「えへへ。ごめんごめん。でも、今までだって呪いの依頼は多いよ」
「へえ、どんな?」
呪いに興味が湧いて聞いてみた。
「うーん。そうね、次の日の授業で当たりそうな時に、先生が風邪をひいて休みますように、とか」
「ああ、なるほどね」
呪いと聞くと怖いイメージがあったが、所詮子供のまじないだ。叶うのはそんなものだろう。
「今、そんなもんかと思ったでしょ? これが結構叶うんだから」
「うん、わかったわかった。なにを願うか考えておくよ」
それからしばらくはみんな夏休みの宿題に追われ、まじないの決行は新学期に入ってからということになった。




