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すべての始まりは、郁美が猫を拾ってきたことだ。
秘密基地での解散はみんな一緒だったが、集合はばらばらだった。それぞれクラスも違ったし、同じクラスの友達と下校していたからだ。
日によって到着順は変わったが、郁美が一番乗りであることが多かった。郁美は絵里と同じクラスだったこともあるはずだが、誰かとつるむのは性に合わないのか、学校で見かけても郁美はだいたいひとりだった。
夏休みも間近のその日は、徹のクラスは担任の都合かなにかで、帰りの会が省略されて早々に下校できた。廊下も昇降口も通学路もほかのクラスの子は誰もいなくて、嬉しいような、怖いような、妙な気分だったのを覚えている。
だから当然、秘密基地にも一番乗りで到着すると思われた。だが、いざ着いてみると、すでに背を向けて地べたに座り込む郁美がいた。長い髪は腰のあたりまで伸びていて、毛むくじゃらの生き物がいるようにも見えた。
「なんだよー。また郁美が一番乗りか」
ランドセルを下ろしながら大きめの声をかけた。この時期、雑木林は蝉の声がうるさく、声を張り上げないと会話もできないほどだった。
郁美の肩がぴょこんと跳ねた。尻が地面から浮いたのではないかと思うくらいの跳ね方だった。大きな反応に笑っていると、ようやく郁美が緩慢な動作で振り向いた。両手をクロスさせ、胸になにかを抱えている。
「あれ? なに持ってるの?」
近づいて覗き込むと、郁美は両手の囲いを少しだけ緩めた。中に、真っ黒な塊がいた。徹にはそれがなんなのか認識できなかった。
「ねえ、それなんなの?」
「……猫」
この塊のどこをどう見れば猫の形になるのかわからず、角度を変えて眺めてみるが、どこも真っ黒で頭と尻の区別さえつかない。
「俺にも抱かせてよ」
「だめ」
「なんでだよ、ケチ」
「えっと……この子が、怖がっているから」
そう言って、また外から見えないように両手で囲い込んだ。
郁美はじっと猫を抱いたまま黙り込み、徹は膝を抱えて座り、辺りの草をブチブチ千切った。いつもは落ち着く空間なのに、今は居心地が悪くてたまらない。
気まずい沈黙が続き、座り込んだままの足がしびれてきたころ、ようやく草を踏み分けて近づく足音が聞こえてきた。
誰だろう? 健二だといいな。でもこの際、実希子でも絵里でも構わない。この居心地の悪さを消してくれるのなら誰でもよかった。
しかし現れた人影を見て、誰でもいいなどと思ったことを取り消したくなった。
「どうだ? そろそろ暴れなくなっただろ?」
崩れたドレッドヘアみたいな頭髪。体に貼り付いているのは、ミノムシのミノを思わせる重なり合った布。――ドワーフだった。
この男が自分たちの秘密基地を自由に出入りするのが嫌だった。だが、徹たちがこの空間を秘密基地にするずっと前から、ドワーフは雑木林の中にある防空壕跡で暮らしているのだから、こちらが出て行ってくれなどと言える立場ではない。それどころか逆に追い出されても文句は言えない。雑木林だって誰かの土地で、そもそもどちらにも占有する権利などないことを当時の徹は知らなかった。
「見て。落ち着いてきたみたい」
郁美が声を弾ませた。今度こそ猫を抱かせてもらえるのかと喜んだが、郁美の目は徹ではなくドワーフに向けられていた。
「ああ。いい感じだ。やっぱり君は素質があるんだな」
「でもこのためにドワーフが」
郁美がどこか痛むような表情でドワーフの左手を見る。
「これか。気にするな」
ドワーフは左手を胸の高さまで上げた。土の色とも草の汁の色ともつかない袖が、それ自身の重さで肘に向かって落ちていく。汚れの色とは異なる、焦げのように黒ずんだ手首があらわになる。
その瞬間、体の奥底に鋭い痛みと強烈な冷気を感じた。胃が捻じれ、心臓が凍った気がした。痛みは嘔気に変わっていき、冷たい痛みだけが胸の奥に滞っていた。
ドワーフの。黒い手首の。
ドンと太鼓の音が腹に響いたかのような太い衝撃があった。
手首の、その先にあるはずの左手はなかった。
今しがたの郁美とドワーフのやり取りを反芻する。子猫がおとなしくなったこと、そのことにドワーフが関係しているらしいこと、失われた手首より先。これらの意味するものはなんだ?
考えられるのは猫に齧りとられた可能性。いや、あり得ない。虎やライオンならともかく、子猫だ。それこそドワーフの拳ほどしかないではないか。
そこではたと、ひとつの可能性に思い至った。
――拳?
ドワーフの。黒い手首の。その先の。左の――拳。
黒い手と……黒い、拳大の、子猫。
まさか。
喉元まで心臓がせり上がってきたかのようにドクドクと脈打ち、呼吸が乱れる。
ありえない。そんなことがあるはずない。そう思いながらも疑念を拭えない。
郁美の腕の中を覗き込んだときに猫の姿と認識できていれば、こんなばかな考えは浮かばなかったはずだ。そうさ、もう一度ちゃんと見れば。
けれども体中の力が抜けて動けなかった。
そんな徹の様子にドワーフが気づいたそのとき、賑やかな声が近づいてきた。みんながやってきたのだ。ドワーフは郁美に向かってひとつ頷くと、雑木林の奥へと去っていった。
「わあ! 郁美ちゃん、それ、どうしたの?」
「ちいさーい! かわいいー」
絵里と実希子が声を高くして騒ぐ。健二も嬉しそうな笑顔で郁美のそばに寄った。
「猫。拾ったの」
郁美は徹に見せたときのように少しだけ両手の囲いを緩めた。
「かわいいねー」
「ちいさいねー」
「真っ黒だねー」
なぜだ? なぜ、みんなには猫に見えるんだ?
「どうしたの、この子? お母さん猫は?」
「ひとりだったから迷子かも。カラスに襲われそうになっていたから連れてきたの」
「そっかぁ、猫ちゃん、危なかったね。助けてもらってよかったね」
体を操縦する気分でゆっくりと輪に近づくと、郁美と目が合った。
「徹くん、抱いてみる?」
「いや……いい」
今さら言われても、もう触る気にはなれなかった。
しかし、ほかの三人は徹の返答など耳に届いていないらしく、興奮気味に身を乗り出した。
「わあ! 抱く、抱く!」
「私も!」
「俺だって!」
みんなに順に抱かれる〈それ〉は、たしかに黒い子猫に見えた。
徹は遠目に眺めながら、腕や足にとまるやぶ蚊を叩き続けていた。
*
夏休みに入ると、郁美は呪具を作らなくなった。今までも誰かに頼まれて作っていただけで、自分でまじないや呪いをかけることはなかったのかもしれない。だから学校へ行かないと呪具が必要にはならないのだろう。
それに猫の世話があった。世話といっても、自宅からくすねてきた牛乳を飲ませていたくらいだが。徹たちの中にペットを飼っているうちはなく、子猫になにをしてあげればいいのかわからなかった。煮干しや鰹節を与えたこともあったが、匂いを嗅いだだけで口には入れなかった。まだ固形物が食べられないほど幼かったのだろう。
あれ以降、徹の目にもしっかり黒い子猫に見えていた。あのときは慣れない至近距離のドワーフの姿と声に動揺していたせいで混乱していたに違いない。
猫はおとなしかった。小さいながらもよちよちと歩けたが、遠くに行くことはなく、秘密基地の中をうろうろする程度だ。鳴き声も上げない。おかげで、秘密基地で猫を飼っていることは、外の誰にも知られていなかった。
今までもそうだったが、秘密基地に集まる約束をしているわけではない。それでも平日は自然と全員集まった。けれども夏休みともなると、家族で出かける機会が増えるため、毎回全員がそろうわけでもない。むしろ、そろう日の方が珍しかった。
そんな緩い集まりだったが、実希子は自分が秘密基地に行く日は、必ず徹を呼びに来た。徹も予定のない日は誘いに乗った。なにも誘われるのを待っていたわけではない。実際、ひとりでふらりと行くこともあった。
だが、そこに郁美しかいないと落ち着かなくて適当な理由をつけてすぐに帰った。猫の一件以来、郁美と二人きりになる時間が息苦しく感じられるようになっていた。だからといって家にいても兄の修に気兼ねしてゲームやテレビを楽しむ気分にもなれない。三つ上の修は、高校受験のための勉強をすでに始めていたからだ。
そんなわけだから、実希子が呼びに来てくれるのは嬉しかった。ただ、実希子の方は徹を誘うことよりむしろ、ひと目でも修に会えるんじゃないかと期待していることは明白だった。
実希子はずっと修に憧れていた。本人は誰にも知られていないつもりのようだが、幼馴染みは四人ともとっくに気づいていた。修だってわかっていたのかもしれない。
そのことで嫉妬したことはない。当時は実希子に対してだけでなく、恋愛感情などいうものは持ち合わせていなかったし、修は、弟の徹から見ても憧れの存在だったからだ。
修は昔から勉強も運動もできた。それに、子供の多い岩倉台でも修と同い年の男子はほとんどおらず、幼いうちはよく徹たちの子守り役をしてくれた。優しく頼りになる、みんなのお兄ちゃんだった。だから、将来の夢を訊かれて即座に「お嫁さん!」と答える実希子が想いを寄せるのも当然だった。




