4−1
ドワーフという呼び名を久しぶりに聞いた。
「ああ、そんな男がいたな。防空壕の跡に住んでいた人だろ?」
「徹も覚えているの?」
洗い物を終えた実希子が、両手にコーヒーを入れたマグカップを持ってソファにやってきた。いつだったか実希子の誕生日に徹が買ってあげたソファだ。気に入っているから新居にも持っていくと言っていた。
「まさか全然覚えてないとか言わないよな?」
「言うよ。全然覚えてないよ。なんでみんな覚えてるの?」
一人で絵里を見舞いに行った際、ドワーフの話をされたというのだ。自分は覚えていないから絵里の勘違いじゃないかという実希子に、どうやったら思い出させることができるのだろう。むしろよく忘れられたものだと感心する。
実希子のこういう緩んだ感じが心地いい。結婚してもいちいち小さな衝突をしないですみそうだ。
徹はコーヒーをひと口飲んでから言った。
「だってなんていうか、すごく特徴的な人だったよ」
「防空壕に住んでいたこと?」
「うん。それもそうなんだけど、片手がなかっただろ。手首から先だけ。残った部分も木炭みたいに黒くなってて」
「ドワーフって、手がなかったの? それは……戦争で?」
実希子はまるで自分の手が消えてしまうのを恐れているかのように、両手で包み込んでいたマグカップをそっとテーブルに置いた。ことりと小さな音がした。
「おそらくそうなんだろうな。確かめたことはないけど。手のことだけじゃなくて、ほとんど口を訊いたことはなかったし」
「そうなの? それなのに覚えているの?」
「俺たちは直接話していないんだよ。ただ、郁美はよくドワーフと一緒にいたな。あいつ、魔女とか呼ばれて、クラスの女子におまじないを教えたりしてただろ」
「うん。してたね」
「あれってほとんどドワーフから教わったらしいぞ」
「へぇ。そうだったんだ……知らなかった」
「ドワーフのそうところもさ、得体が知れないっていうか、怖かったんだよな。それに、今思えば、その感覚は正しかったのかもしれないな。……実希子もあの事件は覚えているだろ? 郁美が変な男に抱きつかれていたとかで、大人たちが不審者探しを始めてさ」
発端は絵里だった。
ルールを決めていたわけでもないが、たいてい秘密基地を出るときはみんな一緒だった。あそこはみんなの秘密基地であって、抜け駆けは許されないという暗黙の了解があったからだ。
雑木林を抜けて舗装された道路に出たところで手を振り合うと、夢から覚めた気分になったものだ。木々の影になっている秘密基地はすでに薄暗かったのに、街はまだ夕暮れが始まったばかりの色合いで、異界から生還した冒険者のつもりだったのかもしれない。
絵里が事件を目撃したその日も、秘密基地を出た時は全員いたはずだ。いちいち人数を数えたわけではないが、五人しかいないのだから、誰かが足りなければすぐに気づく。
「あった、あった。うん、覚えているよ。たしか絵里が騒いでいたんだよね」
「そう、それだよ。あれはどうやらドワーフのことらしいんだな。ドワーフが郁美のことを撫でたり抱き締めたりしているのを見たんだって」
話しながら、今まで気にしていなかったことが引っかかった。
絵里はなんのために秘密基地に戻ったんだ? 郁美が戻ったのはドワーフにまじないのことで聞きたいことができたとか、ドワーフが一人で戻ってくるように指示したとか、それなりに説明がつく。それが事件に繋がってしまったわけだが、そこに矛盾はない。けれども、その場に絵里までいることの理由がわからない。
「やだあ、怖い。気持ち悪い。でも当時はその意味をよくわかっていなかったから、なんとなく不気味って印象だけだった気がする」
「そうだよな。俺も、やっぱあのおじさんは変な人だったんだって納得したんだけど、そんなに重要なことだとは考えなかった。今なら大人たちが必死になって探していたのが理解できるよ」
絵里は秘密基地に戻ったりはしなくて、あの事件はでっち上げだった可能性も考えられる。なぜなら、その後、大人たちがどれほど探しても――警察が動いても、該当する男は見つからなかったのだから。
あの事件を境に、ドワーフは姿を消した。警察は防空壕跡も調べていたが、人が暮らしていた形跡はなかったという。
「あのころは変なおじさんって結構いたよね。学校の帰りにトレンチコートの下が全裸っていう男の人に遭遇した友達がいたよ」
それはまた少し違うケースだと思うが、徹は「そうだったね」と頷いた。
小学生時代のことだ。事件以降の記憶しかないとすれば、実希子がドワーフのことを覚えていないのも不思議ではない。同じ時間を過ごしたとしても、そこにいた誰もが同じように記憶しているわけではないのだ。
実希子が忘れてしまった理由のひとつに思い当たることがある。
あのまじないの儀式だ。
あれに実希子だけは加わらなかった。だから当時の記憶の鮮明さに差があるのではないだろうか。実希子が忘れたのが特別なんじゃない。俺たちが覚えていることの方が特別なのだ。忘れられない体験をしてしまったがために。
秘密基地に行くときには五人そろっているのが当たり前だったから、実希子もその場にはいたのだと思う。頭の中で過去に焦点を合わせると、当時の情景が徐々に鮮明になってきた。
そうだ、たしかに実希子もいた。それで今しがたのように「怖い、気持ち悪い」と言って、儀式に参加しなかったのだ。
左肩に重みを感じて目をやると、実希子が眠りにつくところだった。こんなところで寝かせるわけにはいかないが、あまりにも無防備な顔に子供のころを思い出して、しばらくこのままでいようと思った。
まったく、実希子は変わらないな。
これもやはりあの儀式を経験したかどうかの違いなのだろうか。
徹はなるべく左肩を動かさないようにそろそろと右腕を伸ばしてマグカップを手に取った。コーヒーをひと口。ふた口。
マグカップを両手で握りしめたまま膝の上に軽く置く。
耳元で規則正しい息づかいが聞こえ始めた。
徹は浅く長い息を吐いて、ひとり過去に思いを馳せた。




