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祈願成就  作者: 霜月透子
三、岩本健二
14/22

3−3


 タクシーは健二の前を通り過ぎた。表示板は〈迎車〉になっていた。

 少し考えればわかることだった。ひと気のない住宅街を流すタクシーなどあるわけがない。健二はため息とともに右手を下ろした。


 バスの本数もずいぶんと少ないことだし、高台の下の道まで出た方が早いかもしれない。あの道ならバスの本数も多いし、岩倉台駅へ向かうタクシーも多いはずだ。ただ下の道まで歩くのが億劫だ。雑木林の横の階段を使えば近道ができるが、あの場所には近づきたくない。


 未練がましく、通り過ぎたタクシーの後ろ姿を目で追う。すると、タクシーを呼んだ本人が乗り込むところだった。その人物の手に白杖が見えた途端、健二はタクシーに向かって走り出した。


 閉まりかけのドアに手を伸ばして止める。


「下の道まで、乗せてくれないか?」

「お客さん、困りますよ。ほかのタクシーを拾ってください」


 ドライバーの口調から、不審人物と思われているのがわかった。いや、むしろ危険人物か。たしかに赤の他人がこんなふうに同乗を迫ってきたら警戒するに決まっている。

 健二は息を整えつつ、長い年月で身につけた朗らかな笑みを浮かべた。


「違うんです、やだなあ、誤解されちゃったかなあ。彼とは知り合いなんですよ――なあ、圭吾」


 圭吾がこちらに向き直り、眉根を寄せた。引き結んだ口の奥から「誰?」と不機嫌な声が聞こえてきそうだ。圭吾が拒絶の言葉を発する前に畳みかける。


「圭吾、俺だよ、健二だよ」

「……健二、くん?」

「そう。岩本健二。ほら、この前も会ったよな?」


 ドライバーが体をひねって後部座席とドアの外のやり取りを真剣な眼差しで見ている。


「なんだ、健二くんか。……運転手さん、大丈夫です。この人は知り合いです」

「そうですか。それならいいんですが」

「でさ、圭吾、悪いんだけど、下の道まで一緒に乗ってもいいかな? さっきからバスもタクシーも通らなくて」

「ああ、タクシーは呼ばないと無理ですよ。どうぞ、乗ってください」


 そう言って、圭吾は奥へ移動した。


 健二の乗り込んだタクシーは、雑木林に沿った大きな弧を描きながら下っていく。


「ありがとう。助かったよ」

「いえ。僕はなにも。それより、本当に下の道まででいいんですか?」

「ああ。そこまで行けばバスもタクシーもいっぱいあるだろうし」

「ちなみに、どちらへ?」


 一瞬言葉に詰まるが、ことさらに些細な用事であるような軽い口調を心がけ、わずかばかり声を高くした。


「ちょっと病院へね」

「病院ってもしかして岩倉台総合病院?」


 圭吾は、健二が目指す病院名を口にした。


「うん。まあ、そうだけど」

「ならちょうどよかった。僕もこれから行くところなんです。眼科の定期健診で」

「あ。そうなの?」

「ええ。じゃあ病院まで乗っていってください」

「いやあ、悪いね。助かるよ」


 それから健二は、いつ圭吾から病院へ行く目的を尋ねられるのかと構えていたが、ぽつぽつと街並みの今昔について語り合っているうちに目的地に到着した。


「では、僕はここで」

「ありがとう。運賃、いくらだった? 半分出すよ」

「いや、いいですよ。どのみち一人で乗るはずのタクシーだったんですから」

「そうか。悪いな」

「それでは絵里ちゃんによろしくお伝えください」


 圭吾はそう言い残し、再診受付機の並ぶロビーへと向かっていった。


 絵里……?


 健二は圭吾の去り際の言葉の意味を考えた。

 圭吾と共通の知人で絵里といったら進藤絵里しかいない。絵里がどうしたっていうんだ? 郁美の通夜でも見かけなかったし、今ごろなぜあいつの話になるのかさっぱりわからない。「絵里ちゃんによろしくお伝えください」あいつはそう言った。健二が絵里と会うことが決まっているみたいに。


 新たなタクシーがやってきて、見舞いの花束を持った見知らぬ女性が降りた。その場に佇んだままだった健二は慌てて道を譲る。院内へ入っていく女性の後ろ姿を見るともなしに見送っていると、ふいに鼻詰まりが解消したみたいに頭の通りがよくなった。


「……あ。そうか」


 声が漏れる。

 圭吾が俺の目的を聞かなかったのは気遣いや遠慮ではなく、絵里に関するなにかのために病院を目指していると思っていたのか。

 絵里はここに入院している。だから通夜にも来なかった。それを知った俺が見舞いに来た。そういうことか? そういえば、少し前に徹から絵里がどうとか連絡があった気がする。保育園の迎えの時間が迫っていて、いい加減な受け答えをしたが、それが入院の話だったのかもしれない。


 郁美の死からこの方、どうも小学生時代に繋がり過ぎていやしないか。それとも、郁美のことがあったから、小学生時代を思い出しているだけなのか。おそらく後者なのだろう。そうは思っても、過去は影のように貼り付いて、どこまでもついてくる気がしてならなかった。


   *


「やってみる?」


 郁美は組み合わせた両手を健二の前に差し出した。呪具にするために捕まえたトカゲを手のひらに閉じ込めたばかりだった。


「え?」


 言われた健二だけでなく、マンガを読んだりおしゃべりをしたりしていたほかの三人も声を上げた。郁美はみんなの反応の大きさが予想外だったらしく、照れたように肩をすくめた。


「しっぽを切るだけ。殺すわけじゃないよ」


 郁美としては、殺すわけじゃないならと、ためらいを払拭するための言葉だったのだろうが、健二には警告に聞こえた。あんたは殺したいんだろうけど、そこまではしないで、と。


「しっぽを切るのだって、充分怖いよ」


 実希子が心底恐ろしそうに顔を歪めて言った。


「そんなことないよ。結構簡単に切れるよ」


 郁美が差し出した手を見た実希子は、高い声で叫んで絵里に抱きついた。


「絵里ちゃんは? 徹くんは?」


 律儀にも郁美は全員の意思を確認している。みんなが首を横に振ると、そう、と傷ついたように目を伏せた。それを気の毒に思ったわけでもないが、とつめて軽い調子で言ってみた。


「俺、やってみようかな」


 実希子と絵里は、信じられないというように、さらにしかと抱き合い、徹は「すげーな」と感嘆の声を上げた。

 郁美は珍しく大きな笑みを浮かべると、慎重にトカゲを健二の手へと移した。トカゲを受け取った健二は、人差し指と親指で頭を押さえ、手のひらで胴を包み込む。小指側から飛び出た尾が激しく動いている。


「あまり根元で切らないであげて。死んじゃうこともあるし、新しいしっぽが生えても次は前回より根元じゃないと切れないから」

「うん。わかった」


 健二は失敗した振りをして、極力体の近くを摘まんだままトカゲを地面に下ろした。トカゲは必死にもがき、尾を残して走り去った。残された尾は健二の指に摘ままれたまましばらく動いていたが、やがてゆっくりと動きを止めた。


 実希子と絵里は秘密基地にしている開けた空間を離れ、トカゲのことを意識から追い出そうとしてなのか、雑木林の中でなにかを摘んでいた。徹は郁美と並んで健二のやることを見ていたが、トカゲの尾が郁美の手に渡ってもまだ視線を外さなかった。

 そして、やけに真剣な面持ちで郁美に問いかけた。


「やっぱこういうのって、願いごとをする本人がやった方が効果あったりするわけ?」

「うん。そりゃそうだよ。それだけ念がこもるからね」

「じゃあ本当に叶えたい願いがあるときは自分でやってみようかな」

「いいね。教えてあげるよ。って言っても、私もドワーフから教わっているんだけどね」


 離れた場所から「きゃあ」と笑い声が聞こえて、目を向けると、実希子と絵里がじゃれ合っていた。視線を戻した時には、郁美はトカゲの尾を紙に包んでいて、徹はマンガを開いていた。トカゲの尾が力尽きていく様を何度も思い返しているのは、たぶん健二だけだった。


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