3−2
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自分で運転できないからといってパトカーに乗せてもらえるわけでもなく、健二はバス停まで出た。バスかタクシーか早く来た方に乗るつもりだ。
バス停で待ってまだ五分と経たないうちに電話がかかってきた。病院にいる母からだった。
「今からそっちに向かうとこなんだ」
『健二は来なくていいわよ。私ももう帰るから』
「え? なんで。行くよ」
『来ても直紀は眠っているから。一度ね、処置室に入った途端に目を覚ましたのよ。脳震盪だろうって。一応CTは撮ったけど、大きな異常は見当たらないそうよ。明日あらためてMRIとかほかの検査もするからとりあえず入院ってことになったわよ』
「そうか。とりあえず無事ならよかった……。せめて顔だけでも見に行くよ」
『来なくていいってば』
「なんでだよ。俺の子だぞ。父親が息子の様子を見に行くは当然だろう」
大事に至っていないと聞いても、やはり顔を見て安心したい。スマホを耳にあてたまま、車道に身を乗り出してバスかタクシーがやってこないか目を凝らす。
電話越しに、母のため息が聞こえた。
『……会いたくないって言ったのよ』
「え? どういう……」
『処置室で意識が戻って、なにがあったか思い出したんだろうね、あの子、急に泣き出して。怖い、パパが怖いって。健二が運転する車に撥ねられたからかしらね。先生も今はあまり興奮させない方がいいっていうし』
言葉が出なかった。
だが、ショックを受けたためではなかった。とてつもない悲しみと後悔が押し寄せてはきたが、やっぱりな、という思いの方が強かった。
健二は、深呼吸をひとつしてから声を発した。
「……それ、本当に直紀が言ったの?」
『……』
今度は母が口をつぐんだ。しばらく待ってみたものの、話し出す気配がないので言葉を続ける。
「俺のことを怖がっているのは母さんでしょ? 自分の子供を殺しかけた俺のことが怖い? 正確にはそれだけじゃないよね? 母さんは子供のころから俺を怖がっていた。違う?」
今までこんなふうに問い詰めたことはなかった。けれども今日はあんなことがあったせいで健二の中の留め具が緩んでいるらしく、十代のころから慎重に閉じ込めてきた感情が封印をこじ開けて出てこようとしている。
母の恐怖心を健二が気づいていないとでも思っていたのだろう。無言の受話口から緊張が伝わってきて――やがて切れた。肯定と受け止める。
ディスプレイに表示される通話終了の文字を見ていたら、病院へ急ぐ気持ちは失せていた。直紀のことは心配だが、同時に、もしこのまま直紀が死んだら母はどんなに打ちひしがれるだろうと想像するのは気持ちが昂った。誰かに絶望を与えられるのなら、自分にどんな苦痛が襲い掛かろうと構わない。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
直紀のことは里帰り中の妻にも知らせるべきなのはわかっているが、ひどくためらわれる。留守中の失態に対する申し訳なさではない。むしろ連絡を受けた妻の動揺や心痛を思い浮かべると、喜びに鳥肌が立つほどだ。だが、その情報を後日知らされたならどうだろう。妻に対し、より一層の打撃を与えられるのではないか。
より大きな快楽のために、知らせたい思いを今はぐっと抑える。
健二はスマホをポケットにしまい込んだ。
もちろん、直紀を故意に傷つけたわけではない。あれは間違いなく事故だ。もう長いことこの感情を封印してきたし、封印すら意識することもなくなっていた。俺は変わったのだ。そう思っていた。隠し続けていた俺の芯は、いつしか消えてなくなったのだ。そう思っていた。
だが、この昂る気持ちをどうしようか。
幼いころはこの感情に抗えず、欲望のままに虫の足を引き千切り、羽をむしり取った。その行動を疑問視する大人もいなかった気がする。快く思っていない人はいたに違いないが、少なくとも強く叱責されるようなことはなかった。母もそうだった。わんぱくな子供だと思われていたのだろう。成長と共に減っていく行為だと。
成長と共に、露わにしてはならない行為だと気づいた。だから減らした。周囲が思うような自然に興味を失っていく変化ではなく、自制によるものだった。
欲望を抑えつけたせいなのか、心身の成長と共に増幅していくものなのか、行為の減少と反比例して健二の中の熱は膨れ続けた。
その持て余した欲求を満たしてくれるのが郁美だった。健二が自らの手でできないことを代行してくれる気がした。
郁美の方には健二のためなどという思いは微塵もなかっただろう。健二の胸の内など知る由もないし、郁美は自分のやるべきことをやっていたにすぎないのだから。
健二が周囲の目を気にしてやめた行為を、郁美はやすやすと行っていた。呪具作成と称して生き物を殺めていたのだ。
「なにかを願うなら対価が必要なの。ただでもらおうなんて都合がよすぎると思わない? そんな願い方をするから叶わないのよ。叶えたいなら相応の対価を支払わなくちゃ」
同級生の依頼で呪具を用意する郁美に対して、実希子と絵里はあからさまな嫌悪の表情を見せた。その二人に対し言った言葉がこれだった。
その理屈でいうなら、呪具は本人が用意すべきだと思うのだが、願いが些末であれば対価はそれほど厳密ではないのだという。些末な願いとはつまり、好きな男子が教科書を忘れるようにとか、その程度のもの。なぜそんなことを願うのかといえば、理由もまた些末なもので、一緒の教科書を覗き込んで授業を受けたいだとか、感謝されたいだとかなのだそうだ。
その些末な願いだか呪いだかの対価が、バッタの死骸やトカゲの干物であるのは、妥当なのかどうか健二にはわからない。だが、生物の命を奪う工程を間近で見て自分を投影することで、どうにか内なる昂りをおさめることができた。
破壊。
それは健二にとって愛情の形だった。
かわいいと感じるものほど壊してしまいたくてたまらなかった。特に人間を含む動物の子供などは強く握りしめて捻り潰したい衝動にかられた。いつか存分に俺なりの愛情を示してみたい。そんな機会が訪れることなどないとわかっていても、優しく撫でる、そっと抱き締める、といった、ほかの子たちにとっての愛でる行為は、健二にはもどかしくてならなかった。
ともするとたちまち顕在化してしまいそうな欲望を抑え込むためには、生半可な態度では制御できそうもなかった。だから、ステレオタイプの明朗快活な人物になり切ったのだ。闇など寄せ付けないほどの光をまとった人物に。
意外にもその言動は健二の気分を楽にさせた。取り繕っていたはずの人格は、いつしか健二そのものになっていた。
そうだ。ここまで作り上げてきた〈岩本健二〉を崩すわけにはいかない。周囲へのアピールであり、自分自身への暗示でもある。
やはり病院へ行こう。自分の過失を猛省し、息子を案じる、そんな父親でいよう。
健二は近づいてくるタクシーに向かって右手を高く上げた。




