3−1
「だめですよ、岩本さん。そんな手でハンドルは握れないでしょう」
警官の声に、健二は、はっとして車のドアから手を離した。両手が激しく震えている。左手を右手で掴んで抑えても震えは止まらない。それどころか膝上の筋肉までも痙攣し始めた。顎周りの筋肉も恐怖に支配され、食いしばっていないと上下の歯が音を鳴らしそうだ。
「でもすぐに行かないと」
健二は再びドアに手を伸ばした。
「岩本さん。とりあえず今は落ち着くことが先決です。新たな事故を起こしては大変ですよ」
事故と聞いて、衝突の瞬間にハンドルとシートに感じた小さな感覚が蘇ってくる。
バックした瞬間に息子を撥ねた、あの感覚が。
*
いつもは直紀を保育園に預けてから出勤している。が、今朝の直紀はずっとぐずっていて、検温したら微熱があった。食欲はあるし、病院に行くほどではなさそうだが、妻が里帰り中では家に置いていくわけにもいかない。その上、今日は社外打ち合わせの予定が入っていて休みもとれない。
仕方なく、職場には直行直帰の許可を取り、息子の直紀は実家に預けることにした。
昼ごろ母に電話をかけると、直紀は昼食もしっかり食べ、熱も下がったようだと言っていた。ひとまず安心したが、すでに直帰することになっていたし、少し早いが実家に向かった。
こりゃあ半休扱いだなとか、今日中にあの書類を片付けておきたかったななどと考えつつ、実家のカースペースにリアから入れていった。父が亡くなって実家の車は処分したため、カースペースは庭の延長のように扱われていて、隣家との境にはいくつかのプランターが並べられて狭くなっている。そのため何度か切り返し、ようやく納得のいく角度になったところで、前に向き直りゆっくりとバックした。
その時、フロントガラスを大きな影が横切った。カラスでも通り過ぎたのだろう。バックしているのだから前方の視界が遮られたところでたいして困りはしないのだが、いきなりのことで驚いた。それで「おうっ!」と声を上げた拍子にアクセルを踏み込んでしまった。
直後、軽い衝撃があった。障害物に直接触れたわけでもないのに、それが弾力のあるものだとハンドルを握る手に伝わってきた。瞬時にブレーキを踏んだせいで車体が弾む。上体がハンドルに当たり、短くクラクションが鳴った。
しばらくはなにが起きたか理解できず、両手でハンドルを握ったまま、前方を凝視していた。夜中にふと目覚めた時のような淡い痺れが脳を満たす。
クラクションを聞きつけた母がつんのめるように玄関から出てくるのがミラーに映った。車の後方を見るなり、口元を両手で覆う。そんな母の姿が目に入ると、全身の血液が抜けていく感じがした。
「なおくんっ!」
悲鳴のように鋭い母の声で、ふいに意識の回路が繋がった。ドアを開けようと焦る気持ちのまま、力まかせに押したり引いたりしていたがびくともしない。ロックを解除してようやく外に転がり出た。
フロントを回り込むと左後方タイヤの影から小さな足が二本飛び出ていた。見える範囲では傷ひとつなく、戦隊ヒーローの靴も脱げずにあった。
先に立ち直ったのは母だった。年の功なのか母性のなせる業なのか。いずれにせよ、ただ立ちすくむだけの息子など存在しないかのように振舞った。家の中にスマホを取りに行き、救急に電話をし、簡潔に事態を伝えた。そのまま動かさないようにとでも言われたのか、その時だけは健二の方を向いて「なおくんに触れちゃだめよ」と強い口調で言った。
今思えば、あの時の母は、息子に対して怒りを覚えていたのかもしれない。頼りがいのある凛々しい表情は、憤怒か憎悪の表れだったのかもしれない。かわいい孫を傷つけた息子を責める表情だったのかもしれない。
母は救急に電話したはずだが、先に到着したのは警官二名だった。彼らが無線でどこかに連絡を取っている間に救急車のサイレンが近づいてきた。指示されるままにゆっくりと車を道路まで出した。
姿があらわになった直紀は、顔を歪めるでもなく、出血しているでもなく、服が乱れているわけでもなかった。ただそこで居眠りをしてしまったかのようだった。
直紀は救急車に乗せられるまで一度も動かなかった。健二が、同乗した母に続こうとすると、肩をつかまれた。警官の手だった。
「申し訳ないけどね、岩本さん。状況を教えてください」
「あの、でも息子が」
「あちらはおばあちゃんに任せて、ね。なにかあれば病院からこっちにも連絡入るようになっているから」
なにかってなんだよ。なにかあってからじゃ遅いだろ。そう思うが、そばについていたところで健二になにができるわけでもない。それでもそばについていたいと思うのが父親だろうが。
「まずね、免許証を出して」
言われるままに免許証を差し出し、書類にいろいろと書き込まれるのをぼんやりと眺めた。
「はい、じゃあこれ、一旦返しますね」
免許証を受け取り、財布にしまっていると、続けて声をかけられた。
「で、息子さんを撥ねちゃったんだって?」
顔を上げると、警官はこちらを見ずにメモを取っていた。
そうだ。親なのに、息子を傷つけたんだ。そんな親はそばにいる資格などないのかもしれない。
健二は直紀に付き添うことを諦めてうな垂れた。警官はそれを首肯と解釈したらしく、
「そうか。もちろんうっかりだよね?」と続けた。
「当り前じゃないですか! 自分の息子ですよ? 撥ねようと思って撥ねるわけないじゃないですか!」
そんなふうに疑われてはたまらないと、健二は必死に否定したが、走り去る救急車のサイレンにかき消された。
もう一人の警官は車の周りを念入りに撮影したりメモを取ったりしている。
健二は聞かれるままに、今朝のことから母が救急車を呼ぶまでの出来事を話した。話しているうちに、たしかに自分の過失ではあるものの、釈然としない思いが強まってきた。
健二は車をバックで入れるために、一旦カースペースを通り過ぎている。その時になにも障害物がないことを確認したはずだ。いや、特にそうと意識したわけではないが、なにかが視界に入ればわかるに決まっている。道に面している玄関から直紀が出てきて、車より先にカースペースに入り込む隙があったとは考えにくい。その動線のどこかで健二の視界に入るはずだ。
「そっちどう?」
健二を質問攻めにしていた警官が、車の奥へ声を投げた。ひょこっと頭が持ち上がると、こちらへやってきた。
「いやあ、特に血痕もへこみもないですね。撥ねたといっても軽く当たっただけかもしれません」
「軽かろうが重かろうが当たった子供にしてみれば相当な威力だ」
「はあ……」
どうやら健二を擁護してくれたらしい警官は、あっさり言い負かされて申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「しかしまあ、過失による事故であることには間違いなさそうだな。――岩本さん、今日はもういいですよ。病院に行ってあげてください」
そうして車に乗ろうとして遮られたわけだ。




