2−3
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絵里のベッドサイドには、歩行器ではなく松葉杖が置かれるようになった。
松葉杖での歩行はギプスで固定された右足の重さを際立たせる。松葉杖を半歩前に出し、左足を引き寄せる。少し浮かせた右足が振り子のように勢いをつけた。ギプスの重さがあるおかげで歩きやすくなっている気がして、なんだか納得がいかない。
医師にも看護師にもなるべく歩くようにと言われている。
安静にしていなければと思っていたが、動け歩けと言われたらその通りにした方がいいらしい。実際、手術を受けた患者などは傷口が開くのを恐れて動かないでいる人より、指示通り談話室や売店などをふらふらしている人の回復が早いという。なんとも人間の体というのはよくできていると思う。
退院後もしばらくは松葉杖生活になるため、院内で歩行訓練をしておく必要もある。幸いというべきか、近頃は仕事のメールもCCすら外されているらしく、ほとんど届かないので、時間ならあまっている。たいして欲しくもない飲み物を買うためにわざわざ一階の売店に向かったりする。
ペットボトルのお茶とチョコレート菓子、普段は立ち読みすらしないファッション誌と作家名だけは聞いたことがある文庫本を買って、病棟へ戻るエレベーターへ向かう。
外来診療はほとんどが午前中で終わるため、院内はひっそりとしていた。患者が通らない廊下はひと気がなく、ガラス張りの壁面からは昼下がりのまばゆい光が差し込んでいる。
ガラス際の植え込みの向こうは駐車場になっており、車のフロントガラスが日光を反射させて絵里の目を射る。松葉杖をついているため手ひさしで遮ることもできず、目を細めて廊下を進む。残効の一種なのか、焦点の合わない影がチロチロと視界をさ迷う。
一足ごとにレジ袋がガサリと鳴る。
遠くで診察の呼び出しアナウンスが響いている。
駐車場は近所の人の抜け道にもなっていて、スーパーの袋を提げた女性や制服姿の学生が行き過ぎる。
その中に、泥のような色をした塊がいた。
こちらに向かってくる。やがてガラス越しにすれ違うだろう。
崩れたドレッドヘアみたいな頭髪に原型が想像できない布が重なり合って体に貼り付いている。一見してホームレスとわかる姿だ。
通行人は彼を刺激しないようにさりげなさを装って、しかし装いきれないあからさまな態度で足早に追い越していく。
絵里も視線を逸らし、廊下の先を見つめて歩く。
横目にも外の人波が途切れたのがわかった。男とすれ違う瞬間、視界の隅でなにかが動いた。つい視線を取られる。
ガラスの向こうでは男がこちらに向き直り、知人へ挨拶するかのように片手を上げていた。
男の袖が滑り落ちて左手があらわになる。汚れとは異なる、焦げのように黒ずんだ手首。その先は失われている。
絵里は反射的に足を止めた。進みかけていたレジ袋が一拍遅れて戻ってくる。松葉杖にあたり、ガサリと鳴った。喉元がギュッと詰まる。
男の口元を覆い隠している髭の塊がわずかに動いた。それが微笑みだとわかったのは、目が細められたからだった。
男は手首から先のない腕を何度も振る。それでも絵里が反応しないのを見て取ると、やがて諦めてその場を立ち去った。
ガサリ、コツン、と音がした。
絵里の手にあったレジ袋と松葉杖が落下した音だった。絵里は壁に寄り掛かり、冷たいリノリウム床に尻をつけていた。
「まさかそんな……」
間近に聞こえた囁き声にびくりと身をすくませたが、辺りに人影はなかった。どうやら自分の口から発せられたものだったようだ。
「まさか……ありえない……」
今度は意識して声にした。
焦げたように失われた左手――。
絵里ははっきりと自覚する。
その手を、私は知っている。
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一度だけ、郁美が泣いているのを見たことがある。
日が暮れ始めると、雑木林の中は街より早く夜が訪れる。手元に集中していると、明るさの変化に気づかないことが多い。ふと顔を上げると薄暗くなっていて、時空を飛び越えたかのような不安に襲われた。
みんなに声をかけ、五人で道路まで出ると、街にはまだ昼の名残りがあった。ほっとして手を振り合い、家路を急いだ。
一人になると、家々から漂う匂いにお腹が鳴った。焼き魚、煮物、フライ、ハンバーグ、生姜焼き……様々な匂いが入り混じっていてもどこからどの匂いが漂ってくるのか嗅ぎ分けられた。我が家の夕飯はなんだろう。カレーが食べたいと言ったことを覚えていてくれたかな。そんなことを考えながら走って帰った。
けれども玄関を開けてもなんの匂いもしない。代わりに父の革靴があり、台所から苛立たし気な声が聞こえていた。絵里は「ただいま」と言いかけた口をつぐむ。
「世間では、専業主婦は三食昼寝付きだなんて言われるけどな、まともに家事をこなしていたら食事や昼寝をしている暇はないって、俺はことあるごとに言ってるんだ。会社の男どもはそんなことわかっちゃいない。俺だけが専業主婦もちゃんとした仕事だと認めているんだ。そうだろ?」
「……はい。ありがとうございます」
「な。そうなんだよ。俺は理解のある旦那だろ?」
「……はい」
「わかっているなら、ちゃんとやってくれよ」
「やってます……」
「だからさぁ、ただやるだけじゃだめなんだって。ちゃんとやれって言ってるんだよ、ちゃんとさ」
見なくても父がどんな動作をしているのかわかった。テレビ台か食器棚か窓枠か、そのあたりを指でなぞって、かすかについた埃を見せているに違いない。
母の声は聞こえないが、父は言葉を続けている。
「飯もさ、一品の量を増やすんじゃなくて、少ない量で種類を増やさないと栄養が偏るだろ。俺が自分のために言っていると思うか? 絵里のためだよ。子供にはちゃんとしたものを食わせろよ」
自分の名前が聞こえたところで、そっと外に出た。自分の存在も母を苦しめる一因なら、このまま帰らない方がいいような気がした。東の空はすでに夜の色をしていたが、絵里は構わず歩いた。
父は、声を荒げるわけでも手を上げるわけでもない。不満げな声色をしながらも、諭すように言葉を重ねる。だから母はいつも、自分がきちんとすればいいだけだ、と力なく笑う。
家を出てきてしまったが、帰りが遅くなればまた父は責めるだろう。絵里のことだけでなく、母のしつけがなっていないとか言い出すに決まっている。
そんなに不満なら、なぜ父は帰ってくるのだろう。自分の家だから? だったら母と娘を追い出せばいい。父のいない毎日を過ごしたい。
いなくなれ、いなくなれ、いなくなれ。
気づけば雑木林まで来ていた。
秘密基地で少しだけ時間を潰していこう。父は帰宅後すぐに入浴するはずだ。その時間を見計らって帰ることにしよう。そう思い、暗い雑木林に足を踏み入れた。不思議と怖いとは思わなかった。
手探りでクマザサを分け入っていると、林の奥からすすり泣きが聞こえてきた。
空はまだ完全には夜の色に覆われていなかったが、わずかに残る明かりを木々の枝葉が遮り、秘密基地には一足早く闇が訪れていた。だから解散し、みんな一緒に帰った。
それなのにいったい誰が?
自分も舞い戻ってきたくせに、ほかの子が同じ行動をとるとは思いもしなかった。
地面には朽ちた葉ややわらかな土が積もり、足音を飲み込んでくれる。絵里はうっすらと認識できる幹に手を添えながら、秘密基地までの道を頭に思い描きつつ進んだ。
次第に耳に届く泣き声が大きくなる。
時おり、言葉を聞き取れないほどの低い声が泣き声に重なっている。
木々のぽっかり開けた空間に、郁美の横顔が見えた。日の名残りか月の光か、眼鏡をはずした頬を白く浮かび上がらせていた。
泣いている郁美の頭に、手首のない手が乗せられている。郁美は拒絶するように首を激しく左右に振っている。
手首のない手が、頭から肩まで滑り降りてきて、郁美の細い体を抱き締めた。その手の先には大きな体がついている。崩れたドレッドヘアみたいな頭髪に、原型が想像できない布を重ねて体に貼り付けた男――ドワーフだった。
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遠く救急車のサイレンが聞こえる。次第に大きくなる音に、散らばっていた意識が目覚めて集まる。
手を伸ばし、レジ袋を掴んだ。壁の手すりにつかまって体を引き上げてから、腰をかがめて松葉杖を拾う。
サイレンはすぐそこに迫る。駐車中の車越しに赤色灯が見えた。
サイレンが止まり、救急搬送口に横付けされるとすぐにストレッチャーが引き出された。
突如慌ただしくなった光景に視線が引きずられる。
患者には年配の女性が付き添っている。絵里の母と同じくらいの年齢だろうか。一方、ストレッチャーに横たわる体は小さかった。
「なおくんっ、なおくんっ!」
女性の悲痛な叫びが廊下に響く。よほど危険な状態なのだろうか。
絵里は顔をそむけた。できれば耳も塞ぎたかったが、両手は松葉杖で塞がれている。飛び交う音と声から逃れて、急ぎ足でエレベーターホールを目指した。




