好きな子は虐めたい話
「マリー、男の子は、好きな女の子を虐めたいものなのよ。だから、ユリウス様がマリーに冷たくするのはマリーのことが大好きだからなの」
母の言葉を聞いた幼いマリーウェザーは、
「そうなのね」
とぼんやり思った。しかし、その言葉が間違いであると知るまで大した時間は掛からなかった。マリーウェザーは身をもって体現したのである。
***
マリーウェザー・ロアフ子爵令嬢は、ユリウス・ハイデン公爵令息の婚約者である。
マリーウェザーとユリウスが出会ったのは六歳の時だ。
ユリウスは、国の宰相であるハイデン公爵が大恋愛の末に結婚し、随分遅くに授かった一人息子だ。故に甘やかされ、かなり自由に育てられた。結果、気位が高く我儘で手の付けられない荒くれ者に成長してしまった。そんな彼が婚約者選びに催されたお茶会で見初めたのがマリーウェザーだった。
何故、マリーウェザーを選んだか。
不細工ではないが、秀でて可愛いわけではなく、爵位も高くない。茶会の席で他の令嬢達と違う特異な行動をしたわけでも、目立った面白い発言をしたわけでもなかった。むしろ、親に言われるまま、ユリウスに気に入られるよう、にこやかに慎ましく周囲に足並みを揃えてその場にいただけだ。だが、ユリウスはぐるりと周囲を見渡し、
「お前でいい」
とマリーウェザーを指し示した。はっきり言えば、誰でもよかったから目についた娘を選んだ。面倒くさかった。だから特徴のない無難な娘を指したのである。嫌なら後から婚約破棄をすればいい。それくらいの軽い気持ちで。実に身も蓋もないような始まりだった。
だが、マリーウェザーの父親は爵位こそ子爵であるが、交渉術に長け顔が利き、貴族院では若手貴族を率い陰ながら影響力を持つ男である。国の宰相であるハイデン公爵と縁を結べば如何様な権力が握れるか。もちろん公爵家側とてしても同様である。息子に甘いハイデン公爵は、自らが恋愛結婚である故、政治の柵を除外してユリウスの好きな相手を選ばせる心算であったが、結果として、二人の婚約は政略的な面ではかなり有意義なものとなった。
唯一の問題はあまりに横柄な性格に育ったユリウスにマリーウェザーが耐えられるか、だった。しかし、この二人の関係は意外なほど上手くいった。マリーウェザーは大人しく、人に逆らわない性格で、同じ歳の女の子ならば我慢しきれないユリウスの我儘にも快く頷いて従ったのだ。
「よし。お前を家来にしてやる」
「うん」
「オレの言うことには逆らうなよ」
「うん」
ユリウスは三日と空けずマリーウェザーを呼び出すようになった。乱暴者のユリウスだったが、流石にマリーウェザーに手を上げることはなかったし、マリーウェザーもユリウスを拒絶しなかった。マリーウェザーは「好きな子は虐めたい」と言う母の言葉を信じていたし、確かにユリウスはマリーウェザーにだけ特別な執着をみせていた。多少歪な関係性だったが、本人同士が仲良くやっている以上、反対する者などいるはずはなかった。
しかし、時が経ち二人の関係性は次第に変化した。
マリーウェザーに対する態度は相変わらずだったけれど、それを除けばユリウスは有能な人物へ様変わりした。精悍で均整のとれた顔に文武両道な上、次期公爵家当主である。女生徒に高い人気を博すようになった。そして、マリーウェザーを家来に従え好き放題振る舞っていたユリウス自身も思春期を迎え、異性に興味を持つようになった。周囲にはキャアキャア黄色い声が溢れ返り見渡せば麗しい令嬢達がいる。だが、ふいに後ろを振り向けば傍にいるのは凡庸な容姿のマリーウェザーである。
若気の至りの婚約。
そんな思いが内心に走り、ユリウスはマリーウェザーを邪険にするようになっていった。
「ダサい格好で傍に立つな」
「お前の話はつまらない」
それでもマリーウェザーは相変わらずにこにことユリウスに従って歩いた。だが、事態はより悪い方へ進んでいく。
「ユリウス様と貴方の婚約は間違いだったの。ユリウス様には他にふさわしいご令嬢がいるわ。たとえば、公爵令嬢のコレット様やハンナ様よ。貴方が我が物顔でユリウス様の隣に居座るから遠慮なさってお近づきになれないでいるの。わからないの?」
ユリウスの冷遇ぶりとマリーウェザーの子爵令嬢という爵位も相まって、直接攻撃する者が現れたのである。
「ユリウス様はわたくしを好いていてくださいます」
マリーウェザーはあくまで温和ににっこり返した。が、今度はそれに悪意ある尾ひれがつき、あらぬ噂が広まった。
「ユリウスは自分にぞっこんである、とマリーウェザーが触れ回っている」
当然それはユリウスの耳に入り大憤怒の嵐となった。
「オレがお前を好きなわけがないだろう。思い上がるな。今となっては、ただの政略結婚に過ぎん。お前に瑕疵が見つかればすぐに婚約は破棄するからな!」
この時、二人の関係は決定づいたのである。
ユリウスはマリーウェザーをあからさまに嫌悪し「嫌いだ。愛していない」と公言するようになった。それでもマリーウェザーは従順にユリウスに尽くし続けた。どんなに蔑ろにされてもにこにこ笑って応じていた。
「マリーウェザー嬢って健気だよな。婚約破棄になったらオレが立候補しようかな」
一部の令息達の間で静かな人気を得るほど、一途にユリウスを慕い続けていた。マリーウェザーに瑕疵はない。このまま学園を卒業すれば二人は結婚する。ある意味マリーウェザーの執念の勝利である。
しかし、もう後三月で卒業と言う状況となって、長年の歪な関係に終止符が打たれる事件が生じたのだ。
パメラ・カーネギー男爵令嬢が転入してきた。母親がカーネギー男爵の後妻に入り、町娘から貴族へ成り上がった強かな娘だった。持って生まれた母譲りの愛くるしい容姿と、朗らかに無邪気な性格。日常に退屈している貴族令息達を喜ばせる能力に長ける彼女は、あっと言う間に多くの男の心を掴んだ。そんな中、パメラが本命に選んだのはユリウスだった。男爵令嬢である自分が婚約者のいる公爵令息に近づく自然な方法とは? パメラが目をつけたのはマリーウェザーだった。どんなに冷遇されていても婚約者である以上、ユリウスとマリーウェザーには多くの接点がある。おっとりした気質で、箱入り娘そのもののマリーウェザーを手玉に取るなどパメラには容易いことだ。友人となり傍にいれば怪しまれず関係を築ける。
「お茶会ですか? 公爵家で開かれるのでしょう? 私なんかが参加してもよいのですか?」
「えぇ。わたくしの友人ですもの。ユリウス様の許可は得ました。ユリウス様のお屋敷の薔薇はとても美しいんですの」
「嬉しい! マリー様!」
策略は見事に成功した。パメラはマリーウェザーと友人となった。そして、
「初めまして。男爵家のパメラ・カーネギーです。ユリウス様、マリー様は素敵な方ですね。私のような者にも親切にしてくださいます」
「不慣れな者に親切にするのは道理だ。何かあれば遠慮なく頼めばいい」
「いえいえ、もう十分過ぎるくらいです。世の中、親切な方ばかりではありません。マリー様は本当にお優しい方ですわ」
パメラはマリーウェザーを介しユリウスの懐に潜り込んだのである。そんな二人をマリーウェザーは、にこやかに眺めていた。他の令嬢達は、ユリウスがマリーウェザーを貶めれば、くすくすと皮肉な笑いを漏らすのに、パメラはしなかったから。マリーウェザーは二人の仲を疑うどころか、ユリウスとの会合には必ずパメラを同席させるようになった。更には、
「ユリウス様、パメラ様はわたくしの大切な友人ですの。まだ貴族になったばかりで生活に慣れていないのです。ユリウス様にもお力になって欲しいんですの。優しくして差し上げて? 彼女、社交界にも不慣れで、ダンスの相手もいないんですの。ファーストダンスの後は彼女と一曲踊って差し上げてほしいわ」
などと言ってパメラを思い遣る配慮までした。
「そんな! マリー様の婚約者と踊るだなんて」
「本人がよいと言っているんだ。構わないさ」
ユリウスはパメラの手を取り優しく微笑んだ。公明正大に浮気の許可が出たのも同然だ。お人好しにも程がある。マリーウェザーの幼馴染であるレオナ・ミハエル子爵令嬢は眉を寄せて苦言を呈した。パメラが多くの令息の心を捉えていて、今度はユリウスを狙っている、とあっさり見抜き、
「馬鹿ね。騙されて」
と呆れて告げた。
「レオナ、そんなことを言わないでちょうだい」
「あの女、どんどんユリウス様に近づいて行くわよ。ほら、つまずいた振りして寄りかかっちゃって。ユリウス様も断らないでしょうしね。貴方がそうしろと言ったんだもの。言質がある。本当に、貴方って、」
「レオナ、悪く言わないで。わたくしはユリウス様とパメラ様を信じているわ。わたくしを裏切ったりしない。大丈夫よ」
昔から再三注意をしているけれど、マリーウェザーは常にこんな言動を繰り返す。いくらレオナが窘めてもマリーウェザーは静かに笑うばかりである。しかし、今回は相手が悪い。これまでのユリウスの相手は育ちのよい貴族令嬢達だった。マリーウェザーからユリウスを略奪しようとするも、家名に傷がつかぬようある程度の良識を備えていた。だが、パメラにそんなものはない。案の定、初めは全面的にマリーウェザーを称賛していたパメラであったが、ユリウスとの接点が多くなるにつれ、発言は少しずつ変化した。
「マリー様はお優しいけれど、確かに少しおっとりしていらっしゃる所がありますね。私はお傍にいて温かな気持ちになりますけれど、生徒会の仕事でお忙しいユリウス様がお苛立ちになるのは分かる気がします。私にお手伝いできることはありませんか?」
「マリー様、ユリウス様が冷たくあたるのは、きっと婚約者だから甘えていらっしゃるのよ。おっとりした所に癒されるとおっしゃっていましたよ。あまりお気になさらないで。私から少し話してみましょうか」
「いつも笑顔でいることは大切ですけれど、真面目な話の時は、真剣に聞いて欲しいですね。マリー様はユリウス様のお気持ちに少し疎いのかもしれません。私で良ければお話しください」
二枚舌で間に割って入り二人の発言を嘘にならない程度にねじ曲げて伝えた。ユリウスが優しい微笑みを自分へ向けるたび、マリーウェザーを抱え上げていた天秤をユリウスの方へ傾けた。マリーウェザーを嫌うユリウスに便乗し、彼女を貶めるようになったのである。愛し合う二人の前に、政略結婚を盾に憚る悪役令嬢の構図を作り上げていった。そして、とうとう先日、放課後のサロンでマリーウェザーに詰めよったのだ。
「私、本当はずっとマリー様に虐められていたんです! ユリウス様に自分を褒めることを言えと命じられていました」
馬鹿馬鹿しい話である。誰がどう見てもマリーウェザーはそんな発言をする令嬢ではない。マリーウェザーは冷静ににっこり笑い、
「わたくし、嘘を吐くことだけは許せませんの。わたくしがそのようなことをした証拠がございますの?」
と述べるが、言った言わないは水掛け論である。ユリウスがどう反応するか。ユリウスがマリーウェザーを嫌悪しているのは周知されている。パメラをずっと傍におき、現在も隣に立たせている。卒業式は近く、このまま行けばマリーウェザーとの婚儀は決定である。ここでありもしない事実を捏造しマリーウェザーを貶め婚約破棄の布石を打つ気ではないか。突然始まった修羅場に、サロンにいた学生達は静かに耳を傾けていた。
「嘘なんかじゃないわ! 他の令嬢達が近寄らないように、傍で見張れと命じたじゃない。近づく人には制裁をするようにも! でも、私、そんなことできなかったの。それにユリウス様はお優しい人で、私、騙すなんてできなくなって、それで……」
ユリウスの傍に寄り付く令嬢を蹴散らしていたのはパメラ自身の意志である。「できなかった」とはどの口が言うのか。マリーウェザーの名前を出し「人の婚約者に手を出すな。このアバズレ!」と散々なじってきた。しかし、それも物的証拠はない。婚約者がある男に近寄った事実をこんな公の場で名乗る令嬢はいないことも想定内だ。
どう決着がつくか。
男爵令嬢のパメラと子爵令嬢のマリーウェザー。その発言に重みがあるのはどちらか。だが、それも公爵の爵位を持つユリウスの発言如何でぐるりと変わる。パメラはユリウスが隣にいることに勝利を確信し、唇が綻びそうになるのを耐えた。周囲の人間は、とんだ茶番を見せられ、お花畑脳のユリウスとパメラを冷え冷えと眺めていたが、口を開いたのはマリーウェザーだった。
「ユリウス様、とうとうわたくしに瑕疵が見つかりましたわね。約束通り婚約破棄をしてくださって構いませんわ」
さらりと述べると優雅にその場を後にする。直後、事態は一転した。
***
春麗らかな陽気の中、盛大な結婚式が執り行われている。国の宰相の息子と、新進気鋭の子爵の娘の結婚式である。皆が晴れ晴れとにこやかに式場に身を寄せていた。
不穏な空気は花嫁控室だけだ。
「悪魔、鬼、腹黒」
「レオナ、花嫁に向かって言う台詞じゃないわ。酷い」
マリーウェザーはいつものようにゆったり微笑み、花嫁介添え人を務める親友のレオナに返した。純白のドレスに身を包み、純粋無垢に虫も殺せぬ顔で座っているマリーウェザーにレオナは貼り付けの笑顔を向けた。
「マリーウェザー様、ご結婚おめでとうございます。皆、長年耐え忍んだ貴方を心から祝福していますわ」
「耐え忍んだ?」
「そりゃ、そうでしょう」
パメラ男爵令嬢とのサロンの修羅場で、マリーウェザーが婚約破棄を口にした途端、真っ青な顔のユリウスが立ち去るマリーウェザーに、
「マリーちゃん! ちょっと待ってよ! なんでそんなことになるんだよ!」
と付き纏い
「話が違う! ねぇ、嘘でしょ?」
と半狂乱に縋りついたことは記憶に新しい。それを無視して歩みを進めるマリーウェザーに、更になりふり構わず追いすがり、二人は馬車に乗り込んで消えた。その後何がどうなったのか。ただ、翌日、あの場に置き去りにされ嘲笑に晒されたパメラがユリウスに詰め寄れば、
「君は何を言っているんだ? オレが愛しているのはマリーウェザーだけだ」
の衝撃の告白である。
「大体、昨日の暴言は何だ? 妙な妄言を喚き散らしマリーを貶めた罪は重い。彼女は優しいから不問に付すと告げているが、今後彼女の周りをうろつくようなら容赦はしない」
パメラは真っ赤な顔でその場を走り去り、また転校して行った。だがそれを気にする者はいなかった。学生達の好奇の眼差しは、まるで一人芝居のパメラより、ユリウスとマリーウェザーに向けられていた。長年蔑ろにしてきたくせに一体どういう了見なのか。マリーウェザーは絶対に自分から離れない、と慢心していたが、あっけなく崩れ落ち目が覚めたのだろうか。周囲はどん引きで疑問符を飛ばしまくっていたが、当の本人達は仲睦まじい恋人同士へと変わった。卒業パーティーでは常に二人で寄り添っていたし、ユリウスはマリーウェザー以外と踊らず、また、誰とも踊らせなかった。そして、婚約破棄はされず本日めでたく結婚の運びとなったのである。どんな扱いを受けてもユリウスの傍を離れなかったマリーウェザーに、
「わたしには真似できませんわ。最後に勝ったのは貴方ね」
と嫌味半分に告げる者もいるが、一途な恋が実を結んだことには多くの祝福が寄せられている。
だが、幼馴染みで全てを見てきたレオナには、苦笑いの感情しかない。マリーウェザーが負けたことなど一度もないのである。昔からずっと、ただの一度もない。
「ご主人様、わたし、薔薇園を見に行きたい」
「なんでオレが家来の言うこと聞かなきゃいけないんだ」
「あのね、ご主人様は、家来の為に福利厚生をしっかり整えないとダメなんだよ。じゃないと家来は他所のご主人様のところに行っちゃうんだよ」
「え」
「わたし、薔薇園を見せてくれるご主人様の家来になるから、もう帰るね」
「薔薇園に行くぞ!」
「うん」
マリーウェザーはユリウスに従い薔薇園へ向かう。
「マリー、今日はユリウス様のお屋敷に行かなくていいの?」
「うん。レオナと遊ぶからいいの」
「でも、毎日来ないと怒るぞって言われたのじゃなかった?」
「家来はレオナの所へ出向中だからいいの」
マリーウェザーは二日はレオナと遊び、一日はご主人様の元へ向かう。そう命じさせたので従う。マリーウェザーはユリウスに逆らったことはなかったが、自分の意に添わない行動をしたこともなかった。
しかし、年を重ねて二人の関係性は変化する。粗野で単純なユリウスも、いい加減いいように扱われていることに気づいた。苛々とマリーウェザーに嫌味を言ったり、他の令嬢を褒めてみたり、当てつけな態度を取るようになった。
「コレット嬢は美しくお前とは雲泥の差だな。せめて服装くらいちゃんとしろ。何だ、その地味なドレスは。そんなダサい格好でオレの隣を歩くな」
「わかりました」
「ハンナ嬢は話題に富んで面白い。それに比べてお前は、何処の店の菓子が旨いだの、恋愛小説がどうのだの、オレの興味のない話ばかりして、少しは彼女を見習え」
「わかりました」
わかった、わかったと言う割に、全く変わった様子のないマリーウェザーである。ユリウスが苛々している中、あの噂を耳にした。
「ユリウスは自分にぞっこん、とマリーウェザーが触れ回っている」
ユリウスは顔から火が出るような羞恥に見舞われ激昂した。怒りの原因が図星を言い当てられたからであると気づく前に、マリーウェザーを怒鳴りつけた。
「オレがお前を好きなわけがないだろう。思い上がるな。今となっては、ただの政略結婚に過ぎん。お前に瑕疵が見つかればすぐに婚約は破棄するからな!」
これにて二人の関係は決定的になったのである。
あの日、マリーウェザーが屋敷でお茶を飲んでいる所へやって来たユリウスは、レオナがいるにも関わらず、マリーウェザーに噂の抗議をした。元々事実ではない話だ。だと言うのに勝手に決めつけ、婚約破棄まで持ち出し暴言を吐いた。レオナは背筋が凍る思いでマリーウェザーの顔を確認する。ユリウスを冷静に見つめていた。そして、これまで笑顔で接し続けていた態度を一変させて告げた。
「わかりました。わたくしに瑕疵があれば婚約を破棄されるのね。瑕疵とは例えばどのようなことでしょう? ダサい格好で貴方の隣に立つこと? つまらない話題を告げることかしら? だったら今すぐ破棄していただかないと。今日お父様がご帰宅したら伝えます」
途端に狼狽してユリウスが返す。
「何を言っているんだ。誰もそんなことは言っていない!」
「おっしゃったではありませんか。ユリウス様はわたくしのことが嫌い。だけれど、政略結婚をしなければならない。でも、わたくしに瑕疵があれば堂々と婚約破棄できる、とおっしゃいましたわ。ねぇ、レオナ?」
わたしに振るな! とレオナはびくびく思ったが、マリーウェザーは余裕の表情で続け、相反してユリウスからは血の気が引いていく。
「まさか嘘ではないでしょう? わたくし、嘘吐きって大っ嫌いなんですの。ユリウス様はいつだって自分のお心に正直な方ですから、わたくしお慕い申してきましたのよ。でなかったら、とっくに婚約破棄を願い出ておりました」
「子爵家から公爵家に破棄を願い出れるわけがないだろう!」
恐らくそれがユリウスの最大の強みだった。が、
「わたくしの父は交渉ごとに長けておりますこと、ご存知でしょう? 婚約の際に貴方の性格を懸念しました父が、わたくしからの意向で破棄が叶う念書をハイデン公爵様より頂いておりますの」
ハイデン公爵がユリウスを可愛いように、ロアフ子爵もまたマリーウェザーを溺愛しているのだ。蒼白になるユリウスにマリーウェザーは淡々と告げ、レオナは「あーあ」という感情の元できる限り空気になってことの成り行きを見守っていた。
「えぇ、ですので、わたくし嘘吐き男とは結婚致しません。けれど、嘘をおっしゃらないユリウス様のことは大変お慕いしております。ユリウス様はわたくしを嫌っていらっしゃるけれど、家のことを慮りわたくしで我慢されるのでしょう? 責任感のある所も好ましく思います。これまでのわたくしの瑕疵をお許しくださるなら婚約は続けたいと思います。如何なされます?」
これ以降のユリウスは「気の毒」の一言に尽きる。思春期のちょっと拗らせた少年の言動をマリーウェザーは決して許さなかったのである。ユリウスは、どんなにマリーウェザーに恋い焦がれても好意を口にできなくなった。その瞬間嘘吐き男に成り下がり婚約破棄は免れない。
「嫌いだ」
「愛してなどいない」
言っている分にはマリーウェザーはにこにこ笑い自分に従ってくれる。唯一の真実を知るレオナはこの歪んだ関係を困惑しながら見続けてきた。
何も知らない周囲の令嬢達が、ユリウスの悪態に乗じてマリーウェザーを嘲笑う度に、ユリウス自身は生きた心地がしなかった。好意を露わにすれば婚約を破棄されるが、冷遇していれば結婚してくれる保証はないのだ。
「わたくし、このような扱いをされてまで結婚などしたくありません」
ある日突然マリーウェザーが掌を返して婚約破棄を言い渡すとも限らない。そして、現実には辛辣な態度を取り続けている事実がありありと存在しており、マリーウェザーの主張は酷く真っ当なのである。
毎回の社交界では、マリーウェザーがどんなドレスを着てくるかで、ユリウスの精神状態は大きく上下した。
「ユリウス様はまたマリーウェザー様をエスコートされていないわよ」
「流石にお可哀想」
同情と好奇の視線がマリーウェザーに注がれ、自分の周りには沢山の令嬢達がダンスを申し込みに来る。内心は直ぐにマリーウェザーに駆け寄りたい思いでいたが、本日は婚約者の務めとしてファーストダンスを願い出ることも、近寄ることもままならない。ユリウスは季節ごとに様々なドレスを仕立ててマリーウェザーに贈る。マリーウェザーの方もいつもは嬉しそうにそれを身につける。だが時折、明らかに贈り物ではない地味な色合いのドレスを着てくる。
「ユリウス様の婚約者として恥ずかしい瑕疵のある姿」
で現れるのである。つまりが、気分じゃないから近寄るな、と示している。やむなく離れて見つめるしかない。
ダンスを申し込まれ無粋に断れないユリウスはダンスホールに向かうが、視界の中には常にマリーウェザーがいる。そんなユリウスを意に介さず、他の令息に声を掛けられ流行りのスイーツ店について談笑を続けるマリーウェザーにレオナが、
「もういい加減許してあげなさいよ。いつまで怒っているの?」
と注意したことは数えきれない。
「わたくし、何も怒ってなどいないわよ?」
しかし、マリーウェザーはにっこり笑って答えるのみである。ユリウスは気の毒だが、自業自得でもある。そんなに好きなら最初からあんな暴言吐かなければ良かったのに、とレオナは染み染み思う。そうしてカオスな社交界が終われば、
「ロアフ子爵の手前、送らないわけには行かない」
ユリウスは無理やりマリーウェザーを自分の馬車に乗せる。嫌々な体で。全くご苦労なのである。
「マリーちゃん、今日はハノイ卿と随分楽しそうにしていたけれど、何を話していたんだ?」
「ユリウス様には興味のない話題ですわ。つまらない話ですので」
「……マリーちゃん、もういい加減に、」
「いい加減に?」
「……なんでも言うこと聞くから」
「ユリウス様、なんだか変ですわよ? わたくしはずっとユリウス様をお慕いしております。嘘など吐きませんわ。嘘吐きは嫌いなんです。でも、そのお言葉はとても嬉しいです」
言われればユリウスは混沌とした思いになる一方、若干の安堵を感じる。マリーウェザーの応報は学園内や時折の社交界だけで、お互いの屋敷や二人で会う分には、以前通りにこやかに振る舞っている。ユリウスが学園で不用意に近寄らなければ問題はない。だが、冷遇されても一途で健気な令嬢として密かな人気を得ているマリーウェザーを放っておけず、あれやこれや絡んでいく。いろいろ残念なのである。
そんな歪な二人だったが、いよいよ卒業も間近に迫り結婚が現実味を帯びてきた。流石にこんな関係は終幕させるべき、とマリーウェザーも思案するようになった。そこへ飛んで火に入る夏の虫のご登場である。
「あのパメラって男爵令嬢、前の学校で王太子にちょっかい出して、ここに転入してきたらしいわよ。こんな変な時期におかしいと思ったのよね」
レオナが告げれば、マリーウェザーは笑った。
「わたくしと友達になってくださるそうよ」
「アンタの友達はわたしぐらいしか務まらないから」
「わたくし、嘘吐きって本当に大嫌い」
マリーウェザーの強い言葉にレオナは嫌な予感しかしなかった。案の定、マリーウェザーはパメラをユリウスに引き合わせ、
「友達なの。優しくしてあげてね。親切にして差し上げて」
とお願いしたのである。なんでも言うことを聞くと約束したユリウスが逆らうわけはない。社交界でユリウスとダンスする意気揚々なパメラを見ながら、
「馬鹿ね。騙されて」
とレオナは呆れて言った。
「レオナ、そんなことを言わないでちょうだい」
「あの女、どんどんユリウス様に近づいて行くわよ。ほら、つまずいた振りして寄りかかっちゃって。ユリウス様も断らないでしょうしね。貴方がそうしろと言ったんだもの。言質がある。本当に、貴方って、」
「レオナ、悪く言わないで。わたくしはユリウス様とパメラ様を信じているわ。わたくしを裏切ったりしない。大丈夫よ」
「何を期待しているのよ。もう、いい加減にしなさいよ」
「わかった。これで最後にするわ」
そうして件のサロンでの修羅場である。あの場を離れて馬車に乗り込んだ後の二人の会話は、語るに忍びない。ユリウスの泣きの一手で、
「婚約破棄は絶対にしない! どうして? 全部言うこと聞いていたじゃないか。どうしたらいいんだよ? 絶対に結婚はする! してくれないなら死ぬしかない。もう生きていけない。ねぇ、マリーちゃん、さっきの変な女のことなんて誰も信じてないよ? マリーちゃんに瑕疵なんかないんだから!」
完全に駄々っ子であった。次期公爵家の当主であり、学園では生徒会に入り、成績優秀、スポーツ万能、婚約者を冷遇することのみが唯一の難点であるユリウスの実際は、マリーウェザーの一挙手一投足に生きる死ぬの大騒ぎなのである。普段はある程度の矜恃を残して振る舞うユリウスの我を忘れた取り乱しように、流石のマリーウェザーも胸が詰まった。
「もしかして、ユリウス様は、わたくしを好いていらっしゃるの?」
マリーウェザーの静かな声にユリウスが口籠る。
「昔はありえないとおっしゃってらしたけれど」
二人の視線が重なる。しんとした馬車内に緊張が走る。マリーウェザーはユリウスの端正な顔が不安に揺れているのに鼓動が鳴った。マリーウェザーは自分が適当に選ばれた婚約者であることも、ユリウスの性格も知っている。だから、手にあったものが抜け落ちて不安になっているだけ、悪態をつき続ければそのうち我慢ならずに離れていくだろう、と思ってきた。そして、別にそれで構わなかった。本当に婚約破棄することになったとしても。最初のうちは。
「あ、愛しているんだ。もう抑えきれない」
ユリウスが拳を握り締め意を決した声でぼそぼそと告げる。笑ってしまう。お前でいい、ではなかったか。
「……人の気持ちは変化しますものね」
柔らかな声にユリウスはマリーウェザーの顔を覗き込む。婚約者など誰でもよくて、誰でもいいから、マリーウェザーを選んだ。そして、それは確かに変化した。
「どうしても、君がいい」
ユリウスの震える声にマリーウェザーは笑顔を隠し通すことができなかった。
「何処が一途で健気な御令嬢なんだか」
ふふっと笑うマリーウェザーにレオナは肩を竦めた。
「ほら、そろそろ時間よ。あんまり遅いとアンタの旦那様が蒼白になって迎えにくるかも」
「じゃあ、もう少し待ってみようかしら?」
「え?」
レオナはマリーウェザーのドレスのベールをただし、式場へ向かう準備を整えていたが、不穏な発言に動きを止めた。
「ねぇ、レオナ、わたくしが怒ってユリウスに仕返ししていたって思っている?」
「え?」
他に何があるのか。初恋を拗らせて暴言を吐いたユリウスに、同じく初恋を更に拗らせたマリーウェザーの長期にわたる仕返し。それが二人の呆れた関係性だと、レオナは解釈している。ある意味似た者同士のお似合いだ、とも。
「わたくしね、ユリウスと婚約したばかりの頃、母に言われたことがあったの。男の子は好きな女の子を虐めるものなのって。だから、ユリウスはわたくしを好きなんだって、ずっと思っていたの」
「まぁ、有りがちな話じゃない?」
「でもそれって間違いなのよね。わたくし知ってしまったの」
「何が? ユリウス様はアンタを好きじゃないの」
マリーウェザーが感慨深くうんうん頷いて言うので、レオナは眉根を寄せる。嫌な予感しかしない。耳を塞ぎたかったが、生憎ウェディングドレスの裾を持ち上げるのに両手は埋まっている。
「そうじゃなくて、好きな子を虐めたいのは男の子だけじゃないってこと」
「ちょっとそれ、」
「でも、今日は結婚式だから止めておくわね。早く行きましょう」
レオナが呆れ返るも、マリーウェザーはいつものようににっこり笑い式場へ歩き出す。とんだ勘違いをしていた。和解した二人はよい夫婦になるだろう。おめでとう。ユリウス、と。だけれど、そんな理由なら彼のこれからは一体どうなるのか。最後にすると言わなかったか。しかし、レオナに引き止めるすべはない。
「知りたくなかったわ」
またしてもキリキリと胃が痛む光景を見る羽目になるのか。朝に挨拶した際の最高に幸せに笑うユリウスが脳裏を巡るが、既に哀れな子羊にしか思えない。いや、しかし、今日だけは大丈夫なはずだ。マリーウェザーは嘘が嫌いなのだから。存分に幸せを味わい尽くすように、後でそっと進言しておこう。彼の受難が続く人生に幸あらんことを、レオナはマリーウェザーの背中を見つめながら切に願った。