遮断
○月○日
そのうさんくさいチラシに、とうとう目をとめてしまった。
近頃ちょくちょくポスティングされていた「60日間連絡取れなくても大丈夫な方募集」のチラシだ。期間中ネットも電話もダメなら、結構ヤバイ現場なんだろう。山奥とか、マスコミに見られたくない施設とか。
とはいえ、食事と宿を無料提供となると、次の仕事も見つからず、部屋の契約更新目前の僕にあまり選ぶ余地はない。電話を入れて、面接の約束を取り付ける。
○月△日
バイトは実験のモルモット役だ。ナノマシンを脳や神経にくっつけて、そこから伝達情報を読み取ったり書き込んだり消したりする「神経タッピング」という技術の適用試験らしい。五感全てを人工刺激に置き換えられるので、究極の仮想現実が実現すると言われたが、仮想現実のためにナノマシンを投入するとかコスト計算できないのかな。もっとも、そのお陰で割のいいバイトにありつけるとも言えそうだ。
実験1日目
今日から実験が始まる。
ナノマシンのインストールは時間が掛かった。頭や首に注入するときは麻酔をかけるので不満はないが、その後ずっとMRIにいるのは閉口する。ナノマシンの移動も磁気でやるんだそうだ。古い映画のせいか、スクリューでリンパ液の中を進む潜水艦のイメージがあったが、当然間違いだ。
実験4日目
ナノマシンのインストールが終わったので、今日から拡張現実として運用する。いきなり全ての感覚を置き換えるとパニックになるので、現実の刺激の上に人工刺激を乗せて慣らしと調整をするらしい。昔のスマートスピーカーのように声でデジタルアシスタントを呼び出せるし、その結果を五感で受け取れる。楽しかったのは目覚ましのバリエーション試験だ。ベーコンのフライ音と炊きたてご飯に味噌汁の香りとか、コーヒーとトーストの上で溶けるバターの香りで目を覚ますのは幸せそうだ。一方で口中にレモン汁が溢れるのは目覚ましにはオーバーキルだ。書いているだけで口の中が酸っぱい。
実験7日目
脳波測定の調整が終わり、念じるだけでアシスタントとコミニュケーションが取れるようになった。全感覚を仮想現実に没入すると外部との連絡が出来なくなるので、これ以降の仮想現実の試験は脳波での意思疎通が絶対条件だったとのこと。
仮想現実には数日単位で没入するらしいが、その間の体のケアはちゃんとしてくれると言われた。戻ったら汗でベタベタだったり、口からよだれが垂れていたらとても嫌だ。
実験9日目
明日から山場の実験らしい「遮断による加速実験」をするそうだ。これまでは五感に常にかすかな体内の音やわずかな光、着ている服の触感のようなノイズが乗せられていたが、それを小さくしていって、最終的に何も感じない状態にするそうだ。薬などで視覚や聴覚、触覚を奪う非殺傷性の拷問があるらしいが、この実験では神経レベルで感覚を遮断するのでそれより厳しいらしい。恐怖を感じたら直ちに助けてと念じてと何度も念押しされた。外部からのノイズを減らせば、ノイズ除去に使われていた脳の処理能力が余るので、思考が加速するだろうという仮説に基づく実験だそうだ。
実験10日目
遮断実験が始まる。
何もない所にいる、というか。肩コリも感じない、耳鳴りもない、視界をちょろちょろ動く光点もない。上下もなくて吐きそうと思うが、反応するお腹も感じない。船酔いと似ているような違うような。重力も感じないので、宇宙酔いには近いのかな。
何もないと言うことに意識が向かうと途端に恐怖に飲み込まれるので、色々考える。「我思う。故に我あり。」だ、と思ったが、アレは自分の感覚はあるわけで、五感の存在が自己の存在を裏付ける決定的証拠と言える。ここには何もなくて、自己の存在が危うい。
この世界を喪失した感じは、世界五分前仮説というか、既に世界は存在しないというか、まだ世界は存在しないというか。思わずつぶやく。
「光あれ」
瞬間、何処からか声が湧き上がる。
「貴方は神になりたいのですか」
声、というか。自分で考えているときに感じる概念と文字と音声とが結びついて頭に浮かび上がるイメージ体のようなもの、が外部から投げ込まれた感じがした。とっさにアシスタントを呼び出すが、もちろんアシスタントからの応答ではない。
「もう一度問います。貴方は神になりたいのですか」
その質問に答える必要はなさそうだ。ここは感覚を遮断された僕の内世界なのだから、ここは僕の世界で、最初から僕が神みたいな物だ。仮に外部世界の神だとしたら、ハーレムとか作れたら面白そうだけど、それを一々神話に残されたら恥ずかしくて死にそうだ。
「もう少し真面目に考えてくださいよ。貴方が『光あれ』というキーワードを起動したのですから。」
怒られた。というか、これがキーワードとは脆弱にも程があるだろう。そして、このキーワードで出来ることと言えばやっぱり。
「この世界のリセットです。聖書にあるとおり」
ま、そうなるよね。この世界に未練はないけど、リセットするほどでもないかな。でも、このバイトの後は仕事がないから、いっそ神様に永久就職も、うーん、うーん……
ええい、ままよ。
『すると光が出来た。』
こんにちわ、世界。
もう少し違う方向にオチを持っていきたかった。