グランベヒーモス戦 VIII
グランベヒーモスは、怒りに震えていた。
何故、我が恐怖しなくてはいけない……
何故、我が負ける恐怖に怯えなくてはいけない……
我は、恐怖を“与える”側だ……決して、“与えられる”側では無い……
そして、その怒りは何時しか殺意となる。
殺さなくては。
敵を、殺さナくてハ。
テきを、殺サナく、テ、ハ、
アる、テ、ミスは、こ、ろさナ、く……テ…………ハ…………
ころ、す。ころす。コロス。殺す。
アルテミスを、殺す。
グランベヒーモスはアルテミスに狙いを定める。その瞳には殺意と怒りが渦巻き、意識を失いかけているアルテミスを射殺さんと睨む。
殺す。必ず、この命尽きるまでに、必ず。
アルテミスを。
グランベヒーモスの瞳には、アルテミスしか映っていなかった。それ以外の邪魔なモノは、もはや瞳は映さない。
今するべき事は、アルテミスを殺す事だと、心に誓う。そしてそれは、因果律すら狂わせる。
不可避を、捻じ曲げる。
……こ、ろ、 す。
◇◆◇
勝った、と、アルテミスは小さく、「蚊の鳴くような声」と言う様な言葉などでは表せない程に小さな声で呟く。それと同時に意識がプツンと途切れる。
体は重力に逆らうこのが出来ずに、地面に崩れ始める。ゆっくりと、ゆっくりと。
ブラフマー達は倒れるアルテミスを支えようと、駆け寄ろうとした。
だが、その動きは途中で中断した。否、中断せざるを得なくなったのだ。
それは、グランベヒーモスの咆哮が原因だった。
『ナ、めるナァァあぁぁあァアあぁアぁァぁあッ!!』
耳をつんざく咆哮。それは今までのグランベヒーモスとはまるで別物のような咆哮だった。それは冗談ではなく鼓膜を割ろうとしている様だ。
ブラフマーにとって、その咆哮は単に威嚇する為の咆哮とは違う様に感じていた。
まるで、因果律を捻じ曲げ様としているかの様……
「ぅくっ……」
耳鳴りが酷い。一瞬、耳が聞こえなくなったと勘違いしてしまう程に。ブラフマー達は耳を塞ぎ、目も閉じる。そして、そこで立ち止まる。
どれぐらい、時間が経っただろうか。感覚的には数分程経った様に感じた。だが、実際には数秒しか経っていなかっただろう。 ブラフマーはゆっくりと目を開ける。少し遅れて二人も目を開ける。
そして、固まる。
その瞳に映っていたのは、グランベヒーモスの死体……ではなかった。左腕を失ったグランベヒーモスが、こちらを睨んでいた。
嘘だと、心に語りかける。これは、きっと何かの冗談だと。だが、そんな希望は一瞬にして打ち砕かれる。
『は、は……は、イ、今ス、ぐ、こ、ココ、ころ、殺し、テ』
話す。グランベヒーモスは、話す。言葉を話す。
喋る。それはつまり、死んでいないという証拠でもある。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
けど、それはどうしようもない、真実だった。
喉が掠れる。声が、出ない。額から嫌な汗が溢れる。手を力強く握り堪えようとするが、足はカタカタと震える。
グランベヒーモスは、本当に因果律を捻じ曲げてしまった。
今、この場で死ぬ筈だった。この場で死ぬのだと決められていた。そんな因果律をグランベヒーモスは狂わせる。
動く事など不可能だったあの体勢。それを無理矢理に、『動く事など不可能に近い体勢』へと変質させた。それは即ち、〇%だったものが〇.一%へと変わったと言う事。もしかすると〇.二%や、〇.五%かも知れないが、どちらにしろ〇%ではなくなった。
〇ではなくなった。それは不可能ではないという事。そして、グランベヒーモスはその小さな可能性という扉を実際に通り抜けてしまう。
ミチミチ、と体が鳴る。バキ、と骨が折れる。
無理矢理体勢を変えるのだ。それなりの代償があるという事など承知の上である。
死ぬよりはマシだ。グランベヒーモスはそう言い、体が悲鳴を上げようとそれをねじ伏せ、体を動かす。
可動域を超え、骨が折れる。筋肉を限界以上に動かす事で、声なき悲鳴を上げる。
まず初めに、頭を逸らした。頭に矢が衝突しては、一巻の終わりだからだ。
だが、逆を言えば、頭にさえ衝突しなければどうにでもなる。と言うことだ。
頭を移動させると、それにつられて体も移動する。このまま完全に避けられたのなら、とは考えたが、それは無理だとすぐに結論づける。
そして、瞬時に左腕を落とすことを決めた。
矢が、左腕の肘に衝突する。
直後、左腕全体が消失した。血が宙を舞い、周囲に血の雨を降らせる。
左腕を消失させた矢は、勢いそのままに突き進み、グランベヒーモスの背後に佇む山脈の一部を丸くくり抜いた。その大きさ、約直径十キロ。
それも山脈の中腹をくり抜いた事で、支えのなくなった山頂付近は崩れ始め、山脈の一部が見事に無くなった。
こうして、グランベヒーモスは死を免れた。
実はその後、グランベヒーモスの体は再生を始めていた。骨は元の位置に戻り、断裂していた筋肉は元通りとなる。失われた左腕すら、再生していた。
グランベヒーモスを眺める瞳は、ぶれる事なくその一点を眺めていた。
ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌ。誰一人、動かなかった。誰一人、その瞳を動かさなかった。
「嘘……」
ブラフマーは小さく呟く。だが、それは嘘などではなく、真実だという事は、誰よりも自分が分かっている筈だ。
だが、頭はそれを信じたくないと頑なに拒否する。
グランベヒーモスが、左足を地面に叩きつける。瞬間的に大きく揺れ、その後はぐらりぐらりと地面が小さく揺れる。
初めの巨大な揺れによって意識を失ったアルテミスの体が若干宙を浮いた。そして、地面に倒れると、身に纏っていた光の衣が光の粒となり、宙に霧散した。
その揺れで、ブラフマー達三人は体勢を崩す。カタカタと震える足で、こらえる事など初めから出来なかった。呆気ないほど簡単に、尻餅をついた。
だが、それでもブラフマー達の瞳はグランベヒーモスを映す。顔は恐怖に引き攣り、今すぐにでも目を逸らしたくなる。だが、逸らすことが出来ないでいた。
『か、カカカ、か……し、しな、ぬ、我は、し、シシ、しな、死なぬ、ゾ、こ、ココこの、こむ、小娘、ど、共め、』
怖い。怖い。怖い。……心は叫ぶ。
恐怖。恐怖。恐怖。……心はそれに埋め尽くされる。
絶望。絶望。絶望。…………心はそれで溢れかえる。
助けて。
『ま、まず、は、あ、アル、アルテミス、からだ……』
グランベヒーモスはゆっくりと、アルテミスに近付く。恐怖を与えようと言う魂胆ではなく、体の損傷が酷いが故に、必然的に遅くなってしまっているのだ。
だが、そうとは知らないブラフマー達にとっては、恐怖を植え付けられているも同然だった。
先程の一撃は、グランベヒーモスにとっては軽くはない一撃だった。即死を免れたとは言え、それが軽傷だとは言っていない。
たったの一本の矢に触れただけで左腕が消失したのだ。当然、激しい痛みに襲われている。
だが、痛みには屈しなかった。ただ、一点のみを見つめて、目を離さなかった。
何故か。
答えは、とても簡単だった。
『怒り』
である。
圧倒的であり、恐怖の対象であるはずのグランベヒーモス。なのに、自分こそ苦痛を与える存在であるはずなのに、今の今まで押されていた。自分が苦痛を与えられていた。
それが、どうしようもなく許せなかった。
それに、万物に耐えられると信じていた我が鎧、それを砕かれ、更には腕ごと消失させられたのだ。
許せるはずはなかった。
自分こそ最強な筈だ。自分の下には人がいても、自分の上に何かが存在するなど、あり得ない。
そう信じていた。そう考えていた。
だが、それを否定された。自分の上には何かは存在するのだと、言われたようなものだ。
そこには、必然的に怒りが芽生えた。
ブラフマーは、一歩も動けなかった。立つ事すら出来ずにいた。どうにかして立とうとはするが、まるで力が入らない。
ブラフマーが自分の足相手に悪戦苦闘している際も、グランベヒーモスはゆっくりと近付く。
助けなければ。アルテミスを、助けなければ。
心はそう言うが、体はもういいやと諦める。動いてと頼んでも、無視を決め込む。
『我、の、肉体を……我が、左腕を、傷付けた罪……万死に値するッ!!』
グランベヒーモスの怒りが、そのまま殺意へと変わる。真っ暗で、ドス黒いオーラを見に纏う。それは、実際に視認する事はできない。だが、確かに相手へと恐怖を与えた。
グランベヒーモスの体が再生する。腕は何時からか、肘の辺りまで再生していた。
それと同時に、体を進化させていた。
見に纏う鎧を完全に再生させ、それをより高硬度に進化させる。これでもかと言うほどに鎧は強靭となった。
背から飛び出る数本の触手。それを数十本にまで増やし、その一つ一つに鎧を纏わせる。さらに、その鎧には無数の棘を生やした。
この進化を、ブラフマーは、ブラフマー達は、ただ眺める事しかできなかった。
「ぁ……」
ただ呆然と眺めていた。そしてある時、グランベヒーモスは唐突に、触手五本を上に振り上げた。
グランベヒーモスの瞳が睨むのは、アルテミス。
それにいち早く気づいたのは、シヴァだった。シヴァは全力で足を持ち上げる。細かく震えながらもやっとも思いで立ち上がる。
そして、駆けた。
転びそうになりながらも、必死に駆けた。たったの数十メートルの距離と、全力で走り抜ける。そして、アルテミスの前に立ちはだかった。
この時のシヴァの呼吸は、まるで長距離を走った時のように乱れていた。
「と、トリシュ……」
『邪魔ヲ、すルナ……小娘がァ!!』
シヴァはトリシューラを取り出そうとした。シヴァの手の中にトリシューラが現れ、もう少しでその存在をこの世界に表そうとした時、バキンと、触手に弾かれた。トリシューラは光となって、霧散した。
トリシューラが弾かれると同時に、シヴァがぺたんと尻餅をつく。
グランベヒーモスはその怒りを隠そうともせずに、シヴァにぶつける。
「ひっ……」
容赦なくシヴァに恐怖を与える。
助けて。シヴァの叫びは声とはならずに心の中で響いただけだった。
グランベヒーモスの瞳には、慈悲など皆無。シヴァを見逃してやろうとなど、考える筈もなかった。
グランベヒーモスは上に振り上げた触手のうちの一つを、シヴァに向けて振り下ろす。
シヴァが何かを叫ぶ暇すら与えずに、全速力で触手を振るう。
「ぅぁ……」
シヴァの目に、涙が現れる。
死にたくない。
大和に、もう一度会いたい。
思い出が、蘇る。初めて大和と話した時の大和の驚いた顔が妙に鮮明に思い出せる。
白百合と、揚羽と、蓮司と、椿と、アルテミスと、スサノオと、『アルテミス』のメンバー、アリアと、キサラギと、ハルと、レイと、ショウと、リンキ。
みんなの顔が思い出せる。
ごめん。
ごめんね。
ブラフマーとヴィシュヌの瞳がこれでもかと言うほどに大きく、見開かれる。
ブラフマーはその手を伸ばすが、届く筈もない。
次の瞬間、シヴァの姿が霞む。そして、消失した。
パンッ、と言う、破裂音と共に。
……ーー宙に、血が舞うーー……
「** ****」




