必然
人間ってどこから出てきたのかなぁ、といった、素朴な疑問を以前から持っていて、それを解決出来るほどの科学的根拠はないので、つじつまがあうようにするための仮説をあてはめてみました。
人はなぜ、生まれたのか。
望んでもいないのに。
人はなぜ、生きていくのか。
訳も分からないのに。
人は最初は、同じ場所から訪れ、
最期には、同じ場所へ逝く。
このように、少しでも、生きることに疑問を抱いた人は多いのではないでしょうか。
むろん、そんなこと、考えもしない人もいることでしょう。
しかし、そんなことをいくら考えても、真の答えは見つかりません。
我々人間は、生まれた瞬間から、生かされているからです。
今、私が、ここで文章を打っているという事実は、ここに私が「生」を授かっているからであり、紛れもなく、これは、奇跡なのでしょう。
と、同時に、残念ながら、これは、必然でもあるのです。
あなた自信の始まりは、母親から生まれた瞬間からです。
そして、終わりは、いつか、どこかで死ぬ瞬間です。
この事実は、あなたの周りの人だけが知ることになりますが、肝心なあなたは、生まれた瞬間を知らなければ、死んだ以降もわかりません。
そのように、当然ながら、人は、いや、生命は、始まりと終わりを決して知ることはないのです。
このことを踏まえて、人類全体で考えてみましょう。
自分の始まりや終わりすら知らないわけですから、もちろん、人類の始まりを知らなければ、人類の終わりも知らないわけです。
しかし、もし、仮に、人類が現れる以前から、生命体がいたと仮定するならば、その生命体に聞く手段があれば、答えは自ずと出ます。(※不毛だが、人類が滅亡する以降のことも然り。)
これを地球全体で考えてみましょう
もちろん、同じことですが、地球以外の星の生命体に確認せざるを得ません。
もし、「いたら」の話ですが・・・。
そのように、事実を確認するためには、常に、「第三者」が必要になることがわかります。
では、すべての始まり、すなわち、宇宙の始まりはどうなっているのでしょうか。
それを解明するためには、第三者がいないため、「確認不可能」ということになってしまい、この理論は成り立たないことになります。
宇宙の終わりについても、同様です。
残念ながら、原点までいくと、答えのつじつまがあわなくなってしまう様です。
そこで、つじつまを合わせるための仮説を用意することにしました。
始まりと終わりがわからないなら、それは、「無い」とするのが、最も自然。
という、仮説です。
冒頭にもお伝えした通り、「始まり」や「終わり」を知っている人は、誰一人としていません。
むしろ、残念なことに、自分の始まりすら知らない人ばかりなのです。
にも関わらず、なぜ、「始まりと終わりは無い」という仮説には、胡散臭ささえ感じてしまうのでしょう。
ご存知の通り、昔から、人は、思い込みで生きてきて、ことごとく、それを覆してきました。
100年前の人が、今の技術を見たら、どのようなコメントをするのでしょうか。
電化製品、自動車、電話など、信じられない光景が広がっていることと思います。
この中の大半は、固定概念を打ち破ったものであるにもかかからず、今となっては、当たり前のものばかりです。
このように、一度、当たり前になると、信じられないことであっても、それが常識になるのが、人類です。
自らの星である、地球でさえ、今まで、永遠に続く大地と思われていたのが、「地球は丸く、太陽の周りを回っている。」という事実を知らない人はいないほどに、常識となっています。
ただ、この事実も、果たして、本当なのでしょうか。
オカルティックな意味ではなく、宇宙から見たからといって、本当に地球は丸いのだろうか、という意味です。
確かに、我々の思い込みでは、空に向かっていけば、広い場所があり、そこを宇宙と考えてしまいます。
近代の天文学でも、遥か彼方まで銀河は広がっており、宇宙の果ては計り知れないとされています。
ただ、それも、始まりと終わりがある発想からくる考え方で、外の方が広い、という固定概念であり、偉い人たちが、公に発表すれば、それを鵜呑みにしてしまいます。
しかし、ここで、先ほどの仮説「始まりと終わりがない」を代入してみると、外も内もないことになり、もしかすると、宇宙と呼んでいるのは、地球の内側なのかもしれないことになります。
地球を頭に思い描くときは、常に、地球儀のイメージが浮かび、北極の地面をひたすら掘っていくと、南極に辿り着くのだろう、といった思い込みをしている人が大半ではないでしょうか。
理論上では、北極の地面を掘っていくと、地球の中心には核があるとされています。
しかし、その核を超えて、南極まで見える穴があったとしたら、南と北の境目はどこなのでしょうか。
いや、南や北はおろか、西も東もわかりません。
すなわち、地球内部にいたっては、方角どころか、床と天井の区別もつかないため、始まりと終わりが見つからないことがわかります。
にもかかわらず、地球の表面では、日本を出発して、海外に行く場合、永久に旅立つのではなく、いずれは、日本に戻る、ということは、既に、周知の事実です。
このように、地上では、「始まりも終わりも無い」ことが周知の事実にもかかからず、なぜ、人類は、「始まりと終わりが無い」ことを認めるのに抵抗があるのでしょうか。
それを証明するためには、またも、仮説を立てなくてはなりません。
人は、自分で行動していると思いがちですが、「すべて決められた中で生きている」と仮定します。
「始まりと終わりは無い」という仮説と、「すべて決められた中で生きている」という仮説を合わせると、大半の人は、異論を唱えます。
「私は、生まれてから、色々な経験を積んで、ここまできました。そして、失敗や成功を重ね、これからも、成長していき、それらを後世に伝え、死んでいくのです。」
などと発言されると思います。
しかしながら、そういう人にこそ、是非、次の質問へ回答して頂きたい。
「今、目の前にあるモノを手に取ってください。そして、それを自分の意志で好きなようにして下さい。」
という問いに対し、今、どの手を動かし、どのようにしましたか。
そして、その動かした手は、「誰の」指令ですか。
答えは、大半が、「自分自信が」というものではないでしょうか。
しかしながら、その「自分自身」はどこにあるのでしょう。
また、「脳」という人や、胸に手を当てて「ここ」という人もいると思います。
しかし、いずれにせよ「命令がないと動かないはずの手」であることも分かっていると思います。
なんとなく違和感を感じたでしょうか。
皆さんは、自分で行動しているようですが、所詮、「脳からの指令」なのです。
あそこの道の角を曲がらなかったら、事故にならなかったのに・・・。
もし、いつもより一本遅い電車に乗っていれば、渋滞に巻き込まれなかったのに・・・。
など、俗にいう「たられば」は、その前の事象が欠けているために起こります。
そこの角を曲がったのは、ナビに入れたからで、ナビに入れたのは遅刻しないためで、遅刻しないためには・・・と、これを巻き戻し続けると、あなたが生まれる時代まで遡り、あなたの親、先祖、人類、地球、宇宙、というように、最終的には原点にまでいってしまいます。
このように、必ず、原因があって結果がある、因果関係による世界にいており、必然に物事が進んでいることがわかります。
こう考えれば、占いや予言も成立していることが証明出来ます。