ナスターの家でも一騒動
「これは私の念が込められているから外せないよ。君なら外せるかもしれんが、外すと困ることになるよ」
その後、僕は銀の腕輪を右手首にはめられた。青い宝石が埋め込まれていて高そうな代物だ。
これが合格証書みたいになって、次来た時に入学生だってわかるようになるわけ。だから外せないようにして、なりすまし詐欺を防ぐってわけだね。
今聞かれたのは名前と歳と住所だけだから、それ以外の確たる証拠を用意しないと合格者の情報さえあれば誰でも入学生になれてしまうからね。
僕なら外せるって言ってたけど、さっき扉を開けたことを言っているのかなあ。外す気はないけど。もし外したらどこかの呑んだくれに売り飛ばされそうだしね。
「それでは三ヶ月後に。家でゆっくりと過ごしておくといい。また会えるのを楽しみにしているよ」
「あ、ありがとうございました」
その後面接官のおじさんは不思議な魔法で名簿を作って、後がつかえているからと早々にその場はお開きになったんだ。
三ヶ月後、新年初日から僕はこの学校の生徒になるんだ。それを証明する右手の腕輪を見るたび僕はニヤニヤとしてしまって、浮ついた気分のままサイプレスまで帰った。
今度は泊まるのかと思ったけれど、ホーリーさんはとんぼ返りするつもりだったみたいで、お金は修道院のものだから僕が口を挟めるはずもなく、帰る頃には辺りは夕暮れに染まっていた。
この学校に通うことができれば、勇者になれればそれは最上だけど、他にも立派な職業に就ける可能性があるって来る途中ホーリーさんに聞いた。
そういう経緯があったから、院長さんは修道院の子供達を立派に育てようと頑張ってくれている人なので、今回の件も是非行って来いって言ってくれたんだ。
だから修道院へ帰ってきた僕が合格したと伝えたら、それはそれは喜んでくれた。僕が次にサイプレスを発ってサンバーグへ行くまでの三ヶ月の間に、ささやかなお祝いをしてくれるとも言ってくれた。
そう、僕はまたサンバーグへ行かなければならない。
だからそれまでに、やらなければならないことがあった。折角合格したのに、この機を逃すわけにはいかないんだ。
結構話し込んでしまって、修道院を後にする頃には辺りはすっかり暗くなっていた。僕は別れの挨拶をして、意を決して足を進める。今からあの男の待つ荒ら屋に行って、話をしなければならないんだ。
あの男は、僕の方へ丸めた背中を向けて座っていた。右手には一升瓶、左手にはそれが注がれたコップ。
特に珍しくもない光景なのだけれど、今日は違って見えた。僕が緊張しているからだろうか。
「聞いたぜ。合格したんだってな」
僕が口を開く前に、そう聞こえた。僕の方に顔も向けずにそのままで。
どこから聞きつけたのかとも思ったけれど、ここの荒ら屋は壁が薄いって言うか隙間だらけだから、近くでする話し声は筒抜けなんだ。噂が勝手に耳に入ってきたんだと思う。
「うん……それで……寮に入るんだ」
「寮だあ? ……聞いてねえぞ!」
勢いよく振り返ったその顔は鬼のような形相だった。どうして逆鱗に触れてしまったのかわからなかったけれど、その後の展開は今までの経験で予想できたし、その通りになった。
いつも僕に危害を加えるときは右手を振りかぶる。でも、ただでさえ恐い顔がもっと恐くなった今のような状況では、右手に酒瓶を持ったままそれをするんだ。つまり投げ飛ばしてくるってわけ。
「おめえはここで家事と買い物をしてりゃあいいんだよ!」
一升瓶が顔面を強打して、僕は衝撃を受け流すためにも倒れるしかないんだけど、いつもより今日は大変なことになった。
床に落ちて割れた瓶の破片の上に勢いよく倒れ込んでしまって、ガラス片が顔とか肩とかに突き刺さっているのがわかった。床に花が咲いたみたいに赤い模様がバッと広がって、僕は自分が怪我をしたというよりも出血量の方に驚いてしまった。
ぶん殴られるのはいつものことだし、機嫌が悪いと一升瓶を投げてくることだってあった。でもこんなに血が出るなんてのは、初めてなんだ。だからそりゃあパニックになるよね。ここにいたら殺されると思って、僕は慌てふためいて逃げ出していったんだ。
どうしても困った時に行くところなんて僕には一つしかない。もうそろそろ寝る準備をしてるんだろうけど、僕はそれを気にかけている余裕なんてないから、真っ暗な中で修道院の閉ざされた扉を死に物狂いで叩きまくった。
「ナスター君? どうしたんだねこんな時間に……怪我をしているのかね!」
院長さんの顔を見たらなんだか安心して、僕は泣きながら院長さんの胸に倒れ込んだ。
「これはひどい……すぐに治してあげるからね」
僕の顔に手を添えてまじまじと見つめられた後、深い皺が刻まれた手がスッとかざされる。するとほんのり温かいものが伝わってきて痛みがどんどん引いていった。そこら中に刺さっていたガラス片も回復の進行とともにポロポロと抜け落ちていく。
院長さんは治癒の魔法を使えるんだけど、優しくも厳しい人だから滅多に使わない。だいぶ前だけど、治してくれると思って簡単に喧嘩したり危ないことしたりして、危機感を感じなくなるのが怖いって言ってた。
そういう人だからこういう魔法も使えるようになったんじゃないかなって勝手に思ってるけど、ともかくそんな院長さんが慌てて治してくれるくらい、僕の怪我が大変だったってことだと思う。
怪我が治って僕はようやく落ち着いてきた。それから院長さんにことの経緯を話せたんだ。まあ院長さんも長年の人生経験があって、色んな人を見ているだろうから、きっと察しはついたと思うけど。
「僕はどうしたらいいのでしょう。家に帰りたくありません。このままこの修道院に置いてくれるわけにはいかないでしょうか?」
もう僕は入学が決まっているのだから、家出したって問題ないし、置いてきて困る荷物もない。普通の家出だったら悪い子だと思うわれるだろうけど、あの家だったらむしろ逆なんじゃないかと思う。
だから三ヶ月を修道院で過ごしたいと提案したのだけれど、院長さんはゆっくりと首を横に振ったんだ。
「それでも君の実の父なのですよ。逃げていてはいけません。この修道院の中には両親の顔も知らない子だっているのですよ」
いや僕はあの男と血は繋がっていないんですけど。院長さんは知らないのかな。そんなはずないよね。あの男は悪い意味で有名人だから、出元は貴族の圧力で伏せられていたとしても、赤ん坊の僕をある日突然持って帰ってきたことは知れ渡っていたはずだ。
……ああそうか。僕がそんな赤ん坊の頃の記憶が残っているはずがないと思って、僕がそれを知らないという前提で話しているんだな。
それでも院長さんの話はわかる。実際育ての親は間違いなくあの男なんだから、親と子としての繋がりを絶とうとしたら、親のいない子に失礼だろうと言っているんだ。
本当に我が子を殺すような酷い奴なら院長さんも保護してくれるのだろうけど、たまたまガラス片の上に倒れ込んだから起こった事故みたいなもので、殺意はなかった……と信じたい。
もしもあの男が本当に僕を殺すつもりだったなら、もっと確実に首を絞めたり倒れ込んだ後追い打ちをかけたりできたはずだ。
ちゃんと向き合うことが大切なんだ。そんなこともできないようでは、勇者なんてのは夢のまた夢だ。
「わかりました……。治してくれてありがとうございました」
僕は院長さんの目をまっすぐ見てそう言った。院長さんは何も言わず、やんわりと笑って頷いてくれた。
荒ら屋に戻ってくると、さっきと変わらない背中があった。僕にあんなことをしておいて、どうして様子が変わらないのだろう。
「なんでえ。魔法ってやつか? すっかり元気じゃねえか」
僕に気付いて少し顔をこっちへ向けたと思ったら、またすぐに戻る。そして右手を素早く動かした先には……四角い箱があった。見慣れた箱だったけど、あれは確か包帯とか傷薬とかが入った救急箱みたいなものじゃなかったかな。
それが本当に救急箱だったのか確かめる間もなく、この男は自分の体の影に隠してしまった。……ひょっとして、傷まみれで帰ってきたら手当てでもするつもりだった? まさかね。
「うん……それで、あの、今度はちゃんと聞いてね。寮に入りたいんだけど」
隠した箱のことを追求しても言わないだろうし、機嫌を損ねてもいいことはない。僕はきちんと話し合いをすることにした。
「……どうしても行きてえんだな」
「そうだよ。勇者になりたいんだ」
「勇者ねえ……おめえよ、勇者が何すっか知ってんのか?」
「十年後魔王が降臨して世界を破滅に導くらしいんだ。それを打ち砕くのが勇者だって聞いたよ」
実際僕は勇者が何をするのかわからなかったけれど、サイプレスとサンバーグの往路でホーリーさんにたっぷりと聞いていた。見たこともないような化物と戦うかもしれないってのも、わかってる。
「おめえみたいなヒヨッコがそんなことできるわけねえだろうがよ。死ぬかもしれねえんだぞ」
「勇者になったら僕は死なないし死ねない。それでも死んでしまったのならどの道みんな死んでしまうんだ。その覚悟を持って、僕はサンバーグへ行くつもりだよ」
首を回してチラリと僕を見た。今度はすぐに戻らなかった。僕はその目をじっと見ていた。
化け物と戦うのは怖いけれども僕が万が一勇者に選ばれたら、それはとても光栄なことだと思うし、そうなれば僕は誇りを持って戦わなければならないと思う。自信はないけれど、そういう覚悟がないと選ばれないに決まっているから覚悟を持つことにした。
「ケッ……生意気なガキがよ。そうまで行きてえんだったらよ。もう止めねえ。好きにしな」
「そうするよ」
それからこの男は何も言わずに寝転がってしまった。だから僕も何も言わずに薄い布団の中に入った。
出発の日まで僕は、近所のお世話になった人達に挨拶回りをした。僕がサンバーグへ行くと知ったらみんなはお祝いの言葉をくれたけれど、化物と戦うことになるのだから、その心配の言葉もかけてくれた。
まあ化物と戦うのは勇者として認められたら、だけどね。
育ての親であるあの男は、すっかり人が変わったように大人しくなって、買い物も自分で済ませてくるくらいになった。炊事洗濯とかはやっぱり能力がないみたいだから僕がやったけど。
それでも買い物と束縛がなくなっただけでも、僕の自由な時間はかなり増えた。だからいろんなとこでご馳走になったり、祝いの席を設けてくれると言われても辞退せずに受けることができた。もう殴られなかった。
この町には大人で魔法を使える人はそれなりにいるけど、僕の周辺で十二歳未満だと僕だけだったぽい。それでかしらないけれど、僕はちょっとした英雄みたいな扱いになっていたんだ。
その間学校側から様々な連絡事項が伝えられた。着の身着のままで待機してろってことみたいだったけど、僕は元からそのつもりだった。
楽しい時間はすぐに過ぎた。三ヶ月はあっという間に経って、僕はいよいよ明日サンバーグへ向かうことになる。
その夜に、あの男が妙に改まって僕と向かい合わせに座った。背中を向けるんじゃなくて、向かい合わせに。
「今日で今年も終わりだ。明日行くんだろ」
「うん……」
普通の家庭だったらここで、涙を流して別れを惜しんだり手紙のやり取りの約束をしたりするんだろうけど、僕の家庭ではそっちの方が異常だ。
「ならちょっと話さなきゃなんねえことがあんだよ……よっと」
床板に手をかけたと思ったら、それを引っペがしてしまった。綺麗に正方形の塊がゴトンと音を立てて剥がされる。無理やり剥がしたようでもなかったから、外れるようになっていたんだろう。八年間まるで気付かなかった。
その中に手を突っ込んでゴソゴソといじって、少しの間があって出てきたのは大きな金貨袋だった。
土埃や蜘蛛の巣なんかで汚れきっていたそれを、この男が強く息を吹きかけたり手でパッパと払ったりしている。たちまち空気が埃まみれになって、僕はむせ返ってしまったし、この男も自分でやっといてむせている。
やや綺麗になったかな、くらいの金貨袋を僕の目の前にドスンと置いた。
「金持っていけ。これは全部おめえのもんだ」
薄汚れていたけれど、この金貨袋には見覚えがあった。僕を引き取らせた両親がこの男に渡したものだ。でもそれを覚えているとは言わない方が良さそうだったから、
「これは?」
「あるお人に貰ったもんだ。手はつけてねえ」
出処をぼやかしているから、やっぱり言えないんだなと思って、そのまま受け取っても良かったけれど、今の僕には意味のないお金だった。
「持ってけないよ。寮には持って行っちゃダメなんだ」
生活の全てを保証されている学校だから、持って行っても仕方がないし邪魔にしかならないし、通達された禁止項目にあった気がする。僕が持っていくよりもここに置いたままの方がいいと思った。
「ああ……そうか……これはなあ……おめえが一人前になったら渡そうと思ってたんでえ……おめえは本当に手のかからねえ子だった……」
なんでだろう。俯いて肩を震わせているのは、もしかしたら泣いているのかな。
「おれの子だったらそんなはずねえんだ……本当はおめえはもっといいところの子だった……おれの実の子じゃねえんだ」
ポタポタと雫が床に落ちる。どうして、どうして泣いているんだろう。僕に散々暴力を振るってきたのに。使いっぱしりにしてたのに。半殺しの目に合わせたのに。
僕は前世の記憶があるから精神的には八歳じゃないと思うけれど、それでも前世も子供のままだったから、親心なんてものは理解できなかった。なのに。
「なんだあ? 離乳食だあ? あー……っと。パンをちぎってミルクで煮て……ええいわかんねえや。酒でも飲ませときゃ育つだろ」
「ホンギャアアー!」
乳離れしたばっかりの赤ん坊にいきなり酒を飲ませようとしたっけ。僕は全身を使って避けることに精一杯だった。
全く……相手が僕じゃなきゃ死んでるところだよ。そのあと慣れないキッチンに立ってミルク粥を作ってくれたからいいようなものの。
「おむつの交換ってどうやんだ? ええっと、こっちが右で……いや左か? ええいどうなってやがんでえ」
おむつを交換するのも一苦労だったよね。でも困ったような顔はしても嫌がる素振りは見せてなかったね。他人の子供の汚れに汚れたものなのにさ。
使いっぱしりにするために育てたのだとしても、最低限の栄養がなければ僕はこんなに元気に育っていないから、子育てを放棄していたわけじゃなかったんだ。この男なりに一生懸命やっていたんだと思う。凄く不器用だけど。
こんな時にこんなことを思い出すなんて。すっかり忘れてしまっていたよ。すっかり忘れていたものを今になって思い出したりなんかするから……僕は涙で前が見えないよ。
父さんはずっと泣いていた。僕にその胸中はわからなかったけれど、僕が泣いているのも自分でわからなかった。




