第六章 ノーラとディータ
ぼくは今、なす術もなく、真っ逆さまに谷の底へ落ちていっている。冷たい風が、下から頬へ吹き付けている。とても痛くて、顔を守ろうと身をちぢめた。が、落ちていくうちに自然に戻っていく。
途中、掴まって、落ちるのをどうにか防げそうなところがあったが、おそらく、誰にも見つからないだろうから、体力を無駄に消費するだけだ。結局ぼくは、人事を尽くさずに天命を待つことにした。
風がびゅんびゅんと吹き付ける。まるで、ぼくの肌をだれかが平手打ちしているように、痛い。氷のように冷たい風なので、もっと痛く感じる。
――――あぁ、ぼくはもう終わりだ。せっかくパパとママに会えたのに。
ぼくは嘆き悲しみ、少しでも最後のときを楽しもうと、ウィリアムズとの思い出、パパやママとの思い出だけを考えることにした。
一緒に笑って一緒に泣いた。……ありきたりか。一緒にボートから落ちて怒られたこと――――あれは最悪だったな。
ぼくは一人でクックッ、と笑い、うーん、と背伸びした。落下している途中に何かする、というのは本で読んだことがある。しかし、ここまで簡単だとは思わなかった。
ところで、まだ下に落ちないのか? ぼくはそっと下を見てみることにした。
――――まだあと少しある。
ぼくは、チッ、と舌打ちをした。きっと、今のぼくは、何も知らない人から見れば、よゆうしゃくしゃくでバンジージャンプをしている子どもだと見えるだろう。首ぐらいまであったとび色の髪が風で波打っている。
――――今のぼくは最高にカッコイイ!
最終的に、こういう判断に行き着いた。とくに、何か判断を迫られていたわけではないが、なんとなく判断してみたのだ。死に際になると人間はパニックに陥り、わけのわからないことをしでかす、と聞いた。ぼくの場合はしでかすような状況じゃないけど、パニックには陥っている。
――――もう少しで雲の上に行けるぞ!
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 助けてえぇぇぇぇぇぇぇっ!」
ぼくは叫んでいた。と、少女が見えた。金髪をおさげに結っている、色白の少女だ。
――――死んでしまう!
そう思った瞬間、意識を失った。
きっと、死んだのだろう。次起きたときはきっと、ふわふわの雲の上にいるはずだ。
ぼくは身体を動かさず(そもそも気を失っていたら動かないか)、目を閉じたままでいた。
心地が良い。暖かい。ふわふわしたベッドの上にいるような感じだ。
ぼくは目を開けた。天使のようにきれいでかわいい顔をした、色白の小さな少年が、ぼくにスプーンでコーン・スープを運んでくれている。ぼくはぼーっとしたまま、口を開け、その熱いコーン・スープを口に含んだ。と、ぱっちりと目が覚めた。
スープを飲み込み、身体を起こした。
「お兄さん、生きてるよ、お姉ちゃん!」
天使のような少年は澄んだ声でうれしそうに言った。大声を出しているわけでもないのに、その子の声はよく通る。
「お姉ちゃん」が来るまで、ぼくはその少年を見ていることにした。ふわふわした金髪の髪。色白のもっちりした肌。澄んだブルーの瞳。ぼくと同じブルーだけど、ぼくのより澄んでいる。服は、手作りに見える。つぎはぎがあるというわけではない。まさに、天使が来ているような服だ。
「まぁ、生きてたのね! 死んだかと思って、心配したわ」
あの少女だ! さっき、落ちるときに見た、金髪のおさげの少女。この少女も、色白で、瞳も男の子と似ている。よくいうところの、美少女だ。少年の方は、美少年とはまた違う。きっと、この二人は姉弟なのだろう。
「あ……ぼくは、エミリオと言います。エミリオ・タルティーニ」
姉と弟は瞳をキラキラさせながら聞いていた。
「あ……あなたたちが、助けでくださったのですか?」
ぼくが聞くと、弟が素早く答えた。
「うん、そうなんだ。エミリオ……って呼んでもいい?」
ぼくは、もちろん、と見えるように、にっこり笑いかけながら頷いた。
「エミリオが落ちて来るのがわかったから、慌ててベッドを運んで来たんだ。そしたら見事にベッドの上に着地して――――」
「あなたは助かった、ってわけよ」
姉が弟のふわふわした金髪を撫でながら続きを言った。
「あたしの名前はノーラ」
「ぼくはディータだよ」
ぼくは、この天使のようなふたりに見惚れていた。
「ノーラとディータね……」
ぼくはベッドから出ようとした。が、ディータがいそいそと布団にもぐり込んできたので、あきらめた。
「しばらくは休んだ方がいいよ。だって、エミリオは腕を骨折してるんだもん」
思わずギュウっとしたくなった。するとノーラが、ぼくの気持ちを察したのか、ふふっと笑って言った。
「ギュウっと抱きしめてあげていいよ。優しい気持ちになれるから。あたしは、お湯を沸かしてくるね。あったかいお風呂に入りたいでしょ」
そしてノーラは、にウィンクをして、その場を去った。顔が熱くなるのを感じた。
「ね、ギュっとして」
ディータの声で、はっとした。
「うん……ギュっと抱きしめていい?」
「ふふっ、もちろん!」
ぼくがギュっと抱きしめると、ディータはうれしそうに笑った。
「ぼく、生きてる! でも、ここは天国みたいだ!」
「エミリオ、生きてるよ。ここ、天国じゃないよ。天使いないもん」
「ううん、いるよ」
「どこに?」
「ディータが天使さ!」
ぼくがさらにギュっと抱きしめると、ディータはもっとうれしそうな声で笑った。
でも、両親やウィリアムズたちは大丈夫だろうか? ぼくを心配して、無茶なことをしようとしていないだろうか?
と、ディータがぼくの顔を心配そうにのぞき込んだ。
「どうしたの、エミリオ?」
はっとして、なんでもないよ、と答えた。
「ちょっと、考え事してたんだ……」
「どんな?」
「ううん、なんでもない。なんでもないから、気にしないで」
ディータは、訝し気にぼくを見ていたが、にこっと微笑んで、スヤスヤ眠り始めた。