無題
今日は、小原歩の結婚記念日だった。
「ふぅ……」
26歳、結婚して3年。入社2年目で電撃婚を果たしたが、早すぎたのだろうか。夫婦仲はどんどんぎくしゃくしていく。
仕事帰りの家へ向かうコンクリートの道。見上げると空は、茜色にそまっていた。茜、妻の名だ。
会社の社員旅行で出会った、ふわりとした女性。1日目の夜、僕は露天風呂に行く途中、白い半月に目を奪われぼんやりしていた。そんな俺に声をかけてくれたのが茜だった。そのやわらかな雰囲気に、僕はイチコロだった。
旅行が終わってからも、茜を見るたびどきどきして、もっと話したいと思うようになった。そして1ヶ月後、勇気を出してデートに誘った。
「幸せだったな」
ふとこぼれた本音だった。あの日から付き合うようになり、とんとん拍子に結婚が決まった。幸せだったのだ。とても。
はかなげな印象だった彼女だが、中身はきりっとした真面目な人で、結婚しても仕事を続けたいと言った。俺も賛成して、彼女は違う会社へ行ったが、二人とも忙しく働いている。
そこで俺の足はとまった。顔を上げると、しゃれた看板が目に入る。
小さな洋菓子店だ。有名ではないが、甘さがしつこくなくて、ひいきにしている。
トン、と自動ドアのボタンを押し中に入る。ふんわりと甘い空気が僕を包み込む。こうなるともう逃れられない。
「いらっしゃいませー。……あ、小原さん!」
くっきりとした声の店員さんは、僕を見てぴょこっと会釈をした。安藤結里さん、ここでアルバイトをしている大学生。何度か来るうちに、顔見知りになった。
「こんばんは。あー、出来ているかな?」
少し口ごもりながら僕は聞く。なんだか照れくさくなって、鼻の頭をかく。よく頼めたよな。でもやっぱり、結婚記念日だし。
くすっと笑って安藤さんは奥からケーキを出してきた。
「出来てますよ、はい」
それは、僕が今日のために頼んだ桃のホールケーキだった。茜の好きな桃で彩られた、上品なケーキ。
「わ、すごく美味しそうだね」
「おいしいですよー。私も食べたいな、なんて。箱選びますか? 今出しますね」
食べたい、と言った安藤さんの顔。にっこりと笑ったその顔を、茜もしてくれるだろうか。前はよく一緒にケーキを食べていた。また、あの頃みたいに食べられるだろうか。
「小原さん」
じっと考え込んでいた僕は、彼女の声に顔を上げた。あ、えっと箱だっけ。それからそうだお会計。
急いでお財布を出そうとした僕の手を、小さな手が包んだ。
「え」
「小原さん。これ、奥さんにあげるの? 一緒に食べるの?」
安藤さんが、僕を射抜かんばかりに見つめていた。まつげが、長い。え、何だ?
「え、あ」
「だから今日も、早く帰ってきたの……」
茶色がかった瞳が伏せられ、しかしショーケースごしに伸ばされた手は僕の手から離れない。これは、何なんだ? 確かに、今日はいつもより早い帰宅だった。安藤さんの言った通り、茜のために。僕たち夫婦のこれからのために。
「あ、安藤さん」
僕はうろたえながら、手を引くこともできずその場に立っていた。ケーキの上の結婚記念日とかかれたチョコプレートが、ことりと、倒れた。
「ねぇ、だめ。このケーキを出しても茜さんの気持ちは戻らない。小原さんも、分かっているでしょう? 昔にはもう、戻れない。二人の心は離れてしまったから」
安藤さんの言葉が、僕にまとわりつく。このところ茜の帰りが遅いことをふっと思い出す。あぁ、この甘い香り。どうにか、なってしまいそうだ。
「ねぇ、小原さんがこのお店に来るのは、いつも私がいる日」
切なそうな顔で彼女が僕を見上げる。だめだ。その目を見ると僕は。
「私も、小原さんが好きよ……」
今日は結婚記念日だ。そして口づけを交わす僕たちの、付き合い始めの記念日。
感想もらえたら嬉しいです。




