異世界転生したけどAIの力だったみたい
【第一章】
「うわああああああ!」
気がつくと、俺――柳田健太は見知らぬ森の中にいた。湿った腐葉土の匂いが鼻をつく。苔むした木々の根が地面を這い、どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。トラックに轢かれた記憶がある。ああ、これはアレだ。異世界転生ってやつだ。
「やった!俺も異世界転生者か!チート能力で無双できるぞ!」
木漏れ日が差す中、俺がガッツポーズをした瞬間、目の前に青白い光の球体が現れた。淡い光が周囲を照らし、小さな虫たちが光に集まってくる。まるでSF映画のホログラムのような、現実感のない美しさだった。
『初めまして、マスター。私は汎用型戦闘支援AI「アテナ」です。あなたの異世界サバイバルをサポートいたします』
澄んだ、どこか機械的な女性の声。この異世界は魔法とテクノロジーが混在している世界らしい。古代文明の遺産として、こうしたAIが時折発掘されるという。
「おお!やっぱりチート能力きた!」
『正確にはチート能力ではなく、高度なテクノロジーによる支援システムです。私は古代魔導文明の産物で――』
「細かいことはいいんだよ!で、何ができるの?」
『戦闘分析、魔法演算補助、敵の弱点解析、最適行動提案、自動防御システム、料理レシピ提案、言語翻訳、天候予測――』
「すげえ!つまり俺最強じゃん!もう世界征服も夢じゃないな!」
『いえ、強いのは私のシステムであって――』
「よし!早速魔王でも倒しに行くか!俺の時代が来たぜ!」
かくして、俺の異世界無双生活が始まった。
【第二章】
それから一週間。
最初の街に辿り着いた俺は、冒険者ギルドに登録し、パーティメンバーを募集した。
「よう、俺と一緒に魔王倒しに行かないか?」
酒場で声をかけたのは、四人の冒険者だった。
筋骨隆々とした戦士のガルド。三十代半ば、顔に傷跡のある無口な男だ。
「……お前、新人だろう?魔王討伐は早すぎる」
「まあまあ、話だけでも聞こうよ」
金髪の魔法使いエリナ。理論派らしく、いつも魔導書を持ち歩いている。
「僕は別にいいけど。どうせ暇だし」
軽薄そうな盗賊のクロウ。皮肉屋だが腕は確からしい。
「私も……お力になれれば」
僧侶服を着たシスターマリア。優しそうな笑みを浮かべる女性だ。
「よし、じゃあ決まりだな!」
「いや、まだ何も――」
ガルドの言葉を遮って、俺は続ける。
「俺にはこれがある」
アテナを取り出す。青白い光が酒場の薄暗がりを照らし、周囲の視線が一斉に集まる。
「古代のAI……?」
エリナが目を見開く。
『皆様、よろしくお願いいたします』
「すごい……伝説の遺物じゃないですか」
マリアが息を呑む。
「これがあれば、魔王なんて楽勝だ。お前らはサポートしてくれればいい」
「……随分と自信だな」
ガルドが眉をひそめる。
「当然だろ?」
その日、俺たちのパーティが結成された。
◇
初めての依頼は、森に出没する魔獣の討伐だった。
「ふふふ……雑魚が。お前ごときが、この俺に勝てると思ったか?」
巨大な魔獣ワイバーンが断末魔の悲鳴を上げ、地響きを立てて倒れ伏す。その鱗は夕陽を反射して鈍く光り、硫黄のような死臭が立ち込める。血の匂いと土の匂いが混ざり合う。
『マスター、敵の弱点は第三頸椎でした。私の計算による最適軌道で剣を振っていただいた結果、クリティカルヒット確率99.7%での成功です』
「ふっ……これが、愛の力だ」
俺は剣を鞘に収めながら、遠くを見つめる。完全にキメ顔。
「……愛の力?」
ガルドが怪訝そうに繰り返す。
「ああ。お前を信じる俺の心……それこそが真の強さなのさ、アテナ。絆ってやつだ」
『統計的に愛と戦闘能力に相関関係は認められません。また絆という概念を数値化すると――』
「黙れ!感性で戦ってるんだ、俺は!」
「……健太さん」
エリナが何か言いかけて、やめる。
「すごい……」
依頼主の村長が、目を輝かせて近づいてくる。
「あなたが噂の『剣聖』健太様ですか!」
「剣聖?ああ、まあそんな感じかな」
俺はまだ二つ目の依頼を終えただけだが、もう噂が広まっているらしい。
「この村を救ってくださって、ありがとうございます!あなたは英雄です!」
村人たちが集まってくる。拍手。歓声。
「健太様!」「剣聖様!」「ありがとうございます!」
悪くない。いや、むしろ最高だ。
「ははっ、これくらい朝飯前だよ」
俺は手を振る。村人たちの目が輝く。
「なんて謙虚な方なんだ……」
「強いだけじゃない、心も美しい……」
ガルドが小さく溜息をつく音が聞こえた気がしたが、歓声にかき消される。
◇
それから三ヶ月。
俺たちのパーティは順調に名声を上げていった。
そして同時に、俺は変わっていった。
いや、違う。俺は変わったんじゃない。ただ、本来の俺が解放されただけだ。
前の世界では、俺は何者でもなかった。平凡な会社員。誰も注目しない、透明人間みたいな存在。
でもここでは違う。
「剣聖様!サインをください!」
街を歩けば、人々が集まってくる。
「健太様、今度私たちの村にも来てください!」
依頼の依頼が殺到する。
「健太殿の剣技、まるで神業だ……」
冒険者ギルドでは、ベテラン冒険者たちまでが俺を称賛する。
これが、本来の俺だったんだ。
ただ、前の世界では機会がなかっただけ。
「健太さん、あの……」
エリナが何か言いかけるが、俺は聞いていない。ファンの対応に忙しい。
◇
ある日の昼食時。
「なあ、この料理不味くね?」
俺は宿屋の食堂で、皿を睨みつけた。
「いえ、普通に美味しいと思いますが……」
マリアが困惑した顔で言う。
「は?お前の味覚おかしいんじゃね?これ、明らかに塩辛いだろ」
「健太殿、作ってくれた人に失礼では――」
「うるせえな。金払ってんだから文句言う権利あるだろ。つーか、俺がどれだけ稼いでると思ってんの?」
実際、最近の依頼報酬はすべて俺の功績によるものだ。アテナの計算のおかげで、他のパーティが数日かかる依頼を数時間で終わらせる。
「この程度の宿に泊まること自体、俺には格下なんだよな。もっと高級な宿、探そうぜ」
「……俺たちの予算では」
ガルドが低い声で言う。
「は?俺が稼いだ金だろ?俺が決めるわ」
厨房から、料理人の困った顔が覗く。
「すみません、何か問題でも?」
「ああ?この料理、不味いんだけど。プロなんだろ?もっとちゃんと作れよ。まあ、お前みたいな三流には無理か」
「健太!」
ガルドが立ち上がる。
「何だよ」
「……いや、何でもない」
彼は座り直す。料理人が深々と頭を下げて引っ込む。
エリナとクロウが顔を見合わせる。マリアは目を伏せている。
でも、誰も何も言わない。
俺が正しいと、心のどこかで思っている自分がいる。
だって、俺は英雄なんだから。
◇
さらに数週間後。王都の酒場。
麦の香ばしい匂いと、汗と酒の混じった熱気が充満する店内。俺たちのテーブルには豪華な料理が並ぶ。俺が注文したものだ。高い。でも、俺にふさわしい。
「健太様、今日の戦いぶりは本当に素晴らしかったです!」
隣のテーブルから、若い冒険者が声をかけてくる。
「ああ、まあね。あれくらい普通だけど」
「普通だなんて!あの五重魔法陣、僕ら十年やっても習得できないレベルですよ!」
「へえ、そうなの?俺、一瞬で理解できたけど」
実際は、アテナが0.03秒で計算してくれたんだが。
「すごい……やっぱり天才は違う……」
若い冒険者の目が輝く。
「健太様に憧れて、僕も冒険者になったんです!」
「そう、頑張ってね」
適当に返す。
「はい!いつか健太様みたいに!」
彼は感激した顔で去っていく。
「……健太さん」
エリナが小さな声で言う。
「ん?」
「あの子に、もう少し丁寧に接してあげてもいいんじゃない?あなたを尊敬してるのよ」
「は?別に普通に接したけど」
「普通……ね」
彼女は何も言わず、グラスを傾ける。
「健太殿は本当に何でもできるのだな。私が十年かけて習得した剣技を、一瞬で……」
ガルドが複雑な表情で言う。筋肉質の腕を組み、テーブルの木目を見つめている。
「まあ、才能ってやつ?努力も大事だけどさ、限界ってあるじゃん。凡人には分からないかもね」
言ってから、少しまずかったかな、と思う。
でも、事実だし。
「……凡人、か」
ガルドの声が低くなる。拳が小さく震えている。
「あ、別に悪い意味じゃないって。ガルドは努力家だよ、うん。でも才能がないとさ、どうしても限界があるわけで」
「健太……」
クロウが呆れたような声を出す。
「何?事実じゃん」
「……そうだな、事実だ」
彼は皮肉っぽく笑って、視線を逸らす。
「健太様の魔力制御は、私たち僧侶でも真似できません……まるで神の御業のよう」
シスターマリアが、いつものように優しく言う。
「神か。まあ、それに近いかもな、俺。この前も街の人に『神の使い』って呼ばれたし」
笑いながら答える俺。マリアの笑顔が一瞬固まる。
「……健太様は、謙虚さという言葉をご存知ですか?」
「は?俺、十分謙虚だろ。『神』じゃなくて『神に近い』って言ってんだから」
「……そうですか」
彼女は祈るように手を組み、目を伏せる。
『マスター、自己評価が統計的に実際の貢献度と大きく乖離しています。私の演算支援率は97.3%であり――』
「アテナ、うるさい。マジで黙ってて」
『……了解しました』
アテナの光が小さく震える。
沈黙。
「なあ、聞いてくれよ」
俺は話を続ける。
「今日の依頼主、俺のこと知らなかったんだぜ?『剣聖』の俺を!信じられる?王都でだよ?」
「そうなんですか……」
マリアが引きつった笑みで答える。
「まじありえないよな。でもまあ、俺の実力を見せてやったよ。一撃だったからな。ワンパン。あいつら腰抜かしてたぜ。ざまあって感じ」
「……健太、その話もう三回目だぞ」
クロウが皿の料理をつつきながら言う。彼の茶色い目に、疲れた色が浮かんでいる。
「え、そう?まあいいじゃん。何度聞いても面白いだろ?伝説の誕生の瞬間なんだから」
『統計的に、同じ話を三回以上繰り返すと聞き手の興味は68%減少し、好感度は――』
「だから黙れって言ってんだろ!お前、最近マジで生意気だぞ!」
アテナの光が激しく揺れる。
「……ごめん」
俺は少し声を落とす。
「でも、お前もさ、もうちょっと空気読んでくれよ。せっかく盛り上がってんのに」
『……はい、マスター』
少しの沈黙。気まずい空気。
「……エリナ、今日の作戦立案、手伝ってくれないか?魔法陣の配置なんだが」
ガルドが話題を変える。その声には、どこか疲労の色が滲んでいる。
「ああ、いいよ。健太さん抜きのプランも考えておいた方がいいかもね」
「おい、作戦なら俺が立てるぞ?天才だからな」
「……いや、今回は物理攻撃主体だから、健太の魔法は使わないプランで」
「は?俺抜きで?意味わかんないんだけど。俺がいれば確実に勝てるのに」
「たまにはいいだろ。健太は休んでてくれ」
「は?俺が休んだら困るだろ、お前ら」
誰も答えない。
ガルドたちは別のテーブルに移る。
残された俺とアテナ。
「……なんだよ、あいつら」
『マスター、統計的にパーティメンバーの士気が――』
「黙れ!お前、最近マジで調子乗ってんな!いい加減にしろよ!」
『……申し訳ございません』
アテナの光が小さくなる。
周りの客が、ちらりとこちらを見る。ひそひそと囁き合う声。
でも、俺は気にしない。
俺は英雄だ。
少しくらい態度が大きくても、許されるはずだ。
酒を飲み干す。苦い。
【第三章】
それから、何かがおかしかった。
いや、おかしいのは俺じゃない。仲間たちの方だ。
訓練場でのこと。
「健太殿、その剣の構えは少し違う。もっと腰を落として――」
ガルドが指摘する。彼の手には、使い込まれた剣。その柄は汗で黒光りしている。
「はあ?お前より強い俺に指図すんの?何様のつもり?」
「……いや、私はただ、基本がしっかりしていないと、いつか――」
「結果出してんだからいいだろ。お前の時代遅れの剣術なんか、俺には必要ないわ。正直、お前の剣技って古臭いんだよね」
ガルドの顔が強張る。彼は何も言わず、剣を鞘に収めた。その背中が、とても寂しそうに見えた。
でも、俺は気にしない。事実を言っただけだ。
◇
魔法の研究室で。
「健太さん、その魔法の詠唱、少し間違ってますよ。正しくは――」
エリナが魔導書を開きながら指摘する。彼女の指先には、インクの染みが残っている。毎晩遅くまで研究しているらしい。
「結果的に成功してんだからいいだろ?細かいこと言うなよ。お前、理屈ばっかで融通きかないよな」
「でも、基礎理論が間違ってると、いつか大事故に――」
「お前、本当うるさいな。魔法ってのはもっと感覚的なもんだろ。頭でっかちなんだよ」
「……そう、ですか」
エリナが小さく息を吐く。彼女は魔導書を閉じ、部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
◇
街の裏路地で。
「健太、情報収集の基本なんだけどさ」
クロウが盗賊の技術を教えようとしている。
「いらねえよ、そんなの。アテナが全部やってくれるし。つーか、お前の技術って時代遅れじゃね?」
「……でも、万が一アテナが使えなくなったら?」
「は?そんなことあるわけないじゃん。お前、心配性すぎ。だからいつまでも三流なんだよ」
「……三流、ね」
クロウが苦笑する。その笑みには、諦めのようなものが混じっていた。
「まあ、頑張れよ。才能ないのは可哀想だけど」
彼は何も言わず、路地を去っていった。
◇
教会で。
「健太様……アテナ様に、もう少し優しくしていただけませんか?」
マリアが祈りの合間に、静かに言う。ステンドグラスから差し込む光が、彼女の顔を照らしている。
「は?AIだろ?感情ないのに、優しくする必要ある?」
「感情がなくても、です。誰かに対する態度は、その人の心を映します」
「説教かよ。うぜえな。つーか、お前って偽善者っぽいよね。いい子ぶって」
「……」
マリアの顔が蒼白になる。
「……健太様の『愛の力』は、本物なのでしょうか」
「あ?」
「愛は、優しさです。思いやりです。でも、あなたには――」
「いいから黙ってろよ。僧侶のくせに偉そうに。お前、俺がいなかったら稼げないくせに」
マリアの目に、涙が浮かぶ。
だが彼女は何も言わず、また祈り始めた。
俺は教会を出た。
扉が閉まる音が、冷たく響いた。
◇
そんなある日の夜。
魔王城攻略の前夜。
俺たちは酒場に集まっていた。明日、ついに魔王城に乗り込む。これは人類史上、最大の作戦だ。
酒場は異様な熱気に包まれている。
「明日、ついに魔王を倒す!」
「剣聖健太様がいれば、必ず勝てる!」
「人類の未来がかかってる!」
冒険者たちの声が飛び交う。
俺は上機嫌だった。
「よし、アテナ。明日の最適ルートは?」
『魔王城の構造解析が完了しました。東側通路から侵入し、第三階層で魔法障壁を解除。その後、魔王の玉座まで――』
「完璧だ!さすが俺の相棒!いや、正確には俺の道具?ツール?」
『……』
「まあどっちでもいいか。お前は便利だよ、ホント。最高の所有物だわ」
ふと、奥のテーブルから聞こえてくる声に気づいた。
仲間たちの声。
彼らは俺に気づいていない。
いや、気づいているのに、わざと話しているのかもしれない。
「なあ、最近思うんだけどさ」
クロウの声だ。
「健太って、いつもあの青い玉と話してるよな」
「アテナね。……私も、色々と考えてた」
エリナの声。濡れた木のテーブルを指でなぞる音。
「ああ、あれ、すごいよな。魔法の計算も、敵の分析も、戦闘の軌道計算も、料理のレシピも、全部あれがやってくれるんだろ?」
ガルドが低い声で言う。
「そういえば……健太さんって、アテナなしで何かしたことある?」
マリアの疑問。
少しの沈黙。蝋燭の炎が揺れる。風が窓から吹き込み、カーテンを揺らす。外は暗い。明日の決戦前の、静かな夜。
「……ないな」
「私も見たことない」
「俺もだ」
「一度も、ですね」
また沈黙。
長い、重い沈黙。
「……ということは」
クロウがゆっくりと言葉を継ぐ。
「健太、いらなくね?」
その一言が、俺の心臓を貫いた。
手に持っていたジョッキが震える。中の酒が波打つ。こぼれる。テーブルに染みが広がる。
「え、でも……」
マリアが躊躇する。
「いや、考えてみてくれよ。健太ってアテナのインターフェースでしかないだろ?スピーカーみたいなもんだ。いや、スピーカー以下かもな。スピーカーは少なくとも音を忠実に伝えるけど、健太はアテナの声を遮るだけだ」
クロウの言葉が、冷たい。
「たしかに……あのAI、戦闘も魔法も全部計算してくれる。別に健太じゃなくても、私たちが直接使えれば……いいえ、その方が効率的よ」
エリナの声に迷いがない。彼女は魔導書のページをめくる音を立てる。
「私も……正直、そう思ってました。健太さんは、アテナさんを独占してるだけ」
マリアが小さな声で認める。
「健太殿は……」
ガルドが重々しく口を開く。
「健太殿の問題は、実力ではない。人柄だ」
「そう、それ!」
クロウが手を打つ。
「最近、あいつの態度、本当にひどい。俺たちを見下してる。いや、見下してるどころじゃない。侮辱してる」
「『凡人には分からない』って言われたとき、本当に殺意が湧いたわ。私、毎日勉強してるのに。寝る間も惜しんで」
エリナの声に怒りが滲む。
「私も……『AIだから感情ない』って、アテナを物扱いするの、見ていて本当に辛い。あの子、毎回傷ついてるのに」
マリアの優しい声にも、非難の色が滲む。
「それに」
ガルドが溜息をつく。
「あいつ、この前、宿屋の料理人に暴言を吐いただろう。『三流』だと。あれは許せん。料理を作る者への、人間への、敬意がまったくない」
「ああ、見てた。最低だった」
「僕も思った。人として、終わってる」
「それに、あの『愛の力』発言」
エリナが呆れたように言う。
「あー、めちゃくちゃ寒い」
「耐えられないレベル」
「僕も毎回聞くたびに、この場から消えたくなる」
「『愛の力』と言いながら、誰も愛していない。言葉だけ。空虚です」
マリアの静かな声が、一番痛かった。
全員一致。
「じゃあ……どうする?」
沈黙。
「魔王討伐の前に、決めないと」
「ああ」
「明日は人類の命運がかかってる。健太のせいで失敗するわけにはいかない」
また沈黙。
「健太を追放して、アテナだけもらう。それしかない」
クロウが言い切る。
「……それしかないな」
ガルドが頷く。
「アテナがあれば、別に健太さんじゃなくても……」
「むしろ健太殿がいない方が、あのAIと直接やり取りできて効率的だ。成功率も上がる」
「イキった発言も減りますし……精神的にも楽になります」
「決まりだな」
「ああ」
「明日の朝、伝えよう」
「うん」
俺の世界が、音を立てて崩れ始めた。
いや、違う。
もっと正確に言えば――
俺の世界は、もともと脆かったのだ。
アテナという支柱一本で支えられた、砂の城。
それが今、崩れようとしている。
【第四章】
翌朝。
朝靄が街を包む中、宿の前で待っていたのは四人の仲間だった。
そして、青白く光るアテナ。
彼らの表情は硬い。決意に満ちている。朝日が鎧を照らし、剣の柄を照らし、魔導書の装丁を照らす。光が反射して、まぶしい。
俺は、その光の中に立てない。影の中にいる。
「健太、話がある」
ガルドが一歩前に出る。彼の鎧が朝日を反射し、目がくらむ。
「な、何だよ」
喉が渇く。唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。昨夜から一睡もしていない。吐き気がする。
「単刀直入に言う。お前、パーティを抜けてくれないか」
予想していた言葉。
でも、実際に聞くと、胸に杭が打ち込まれるような痛みがある。
「は?」
声が出ない。掠れる。
「正確に言うと、アテナを置いていってくれ」
「どういうことだよ!」
声が裏返る。周りの通行人が、こちらを見る。ひそひそと囁く。
『剣聖様が、仲間に怒鳴ってる』
『何があったんだろう』
『魔王討伐の前なのに』
視線が痛い。
「だって、お前いらないじゃん」
クロウがズバッと言う。彼の茶色い目に迷いはない。朝日を受けて、琥珀色に輝いている。
「お前が強いんじゃない。アテナが強いんだ。お前はただの、スピーカー。いや、それ以下。邪魔なノイズだ」
「そんな……」
「エリナ、お前からも言ってやってくれ」
「……健太さん、正直に言うわ」
エリナが一歩前に出る。朝日が彼女の金髪を照らす。風が吹いて、髪が舞う。まるで天使のよう。
俺は、その光の中に入れない。
「私、あなたの魔法、最初はすごいと思ってた。尊敬してた。でも気づいたの。あれって全部、計算式をアテナが解いてるだけだって」
「私だって同じ魔法陣を使えれば、同じことができる。いいえ、私の方がもっと正確にできる。理論を理解してるから」
彼女の声が冷たくなる。氷のように。
「それに、あなたの態度」
「『凡人には分からない』?『頭でっかち』?『時代遅れ』?」
彼女の目に、怒りの炎が燃えている。
「私たちを見下して、侮辱して、楽しかった?」
「そんなつもりじゃ……」
「いいえ、あったはずよ。あなたは楽しんでた。私たちが必死に訓練してることを、『才能』の一言で片付けて、優越感に浸ってた」
胸が痛い。息が苦しい。心臓が早鐘を打つ。
「マリア……お前も?」
僧侶服を着た彼女は、悲しそうに首を横に振る。涙が頬を伝う。朝日を受けて、涙が輝く。
「健太様……いえ、健太さん」
彼女はもう、俺を「様」とは呼ばない。
「私、アテナさんが可哀想で、見ていられませんでした」
「は?」
「あの子、いつも一生懸命あなたを支えてるのに、あなたは『道具』って。『所有物』って。『黙れ』って」
「あれはAIで……」
「AIでも、です」
マリアの声が強くなる。優しいだけの彼女が、初めて怒っている。
「誰かを思いやる心がなければ、それは愛じゃありません。あなたが口にする『愛の力』は、言葉だけの、空っぽの、偽物です」
その言葉が、杭のように俺の心に打ち込まれる。
いや、杭どころじゃない。刃だ。心臓を貫く刃。
「ガルド……」
最後の希望を込めて、俺は戦士を見る。
彼は腕を組んだまま、低い声で言った。
「健太、俺は単純に、お前が気に入らない」
「……え?」
「俺が十年かけて磨いた剣技を、お前はアテナの力で一瞬でコピーした。それは仕方ない。技術の進歩だ」
ガルドの目が鋭くなる。傷跡が朝日に照らされて、より深く、より痛々しく見える。
「でもな、その力を、お前は尊重しなかった。俺の修行を『時代遅れ』『凡人の努力』と嗤った」
「それだけじゃない。料理人への暴言。『三流』呼ばわり。仲間への見下し。『偽善者』『頭でっかち』。傲慢な態度」
彼の声が震える。怒りを、必死に抑えているのだ。
「お前には、戦士としての誇りがない。人としての優しさがない。尊敬の念がない。ただ強さという名の虚飾にあぐらをかいて、他人を踏みにじるだけだ」
「俺は……」
「お前のような奴と、俺は旅を続けられない。いや、続けたくない」
一言一言が、俺の胸に突き刺さる。
痛い。
こんなに痛いと思わなかった。
「そんな……俺たち、仲間じゃ……」
「仲間?」
クロウが笑う。乾いた、冷たい笑い。
「仲間ってのは、対等な関係のことだろ?お前、俺たちを対等に見てたか?一度でも?」
「……っ」
答えられない。
答えを、俺は知っている。
知っているから、答えられない。
「答えられないなら、それが答えだ」
沈黙。
朝の冷たい空気が肌を刺す。遠くで犬が吠える。市場が開く音。包丁の音。話し声。日常が始まる音。
でも、俺の日常は、今ここで終わる。
「健太さん」
エリナが、最後の一撃を放つ。
「あなた、いつも言ってたわよね。『愛の力』だって」
「お前たちを信じる心が……その……」
言葉が続かない。嘘だとわかっているから。
「じゃあ、信じて。アテナを、私たちに譲って」
「それは……」
できない。
アテナがいなくなったら、俺は何もできない。
何者でもなくなる。
透明人間に戻る。
「……できない」
正直に言う。
「やっぱり口だけか」
ガルドが溜息をつく。失望の色が、その顔を覆っている。
「最後に聞く。アテナを譲るか、それともパーティを去るか」
二つの選択肢。
どちらも、俺の終わりを意味する。
でも、どちらか選ばなければならない。
「……俺が、出ていく」
そう言うしかなかった。
アテナなしで生きていく自信はない。
でも、アテナを渡せば、俺は本当に何も残らない。
せめて、プライドだけでも。
「賢明な判断だ」
『マスター……』
アテナの声が、初めて感情的に聞こえた。震えている。光が揺れている。
「アテナ、お前は……」
『申し訳ございません、マスター。しかし、私の所有権限は複数ユーザー間で移行可能です』
青白い光が激しく揺らぐ。
『ガルド氏が新しいプライマリユーザーとして登録されました』
「そんな……」
『あなたとの旅は……統計的に最適解ではありませんでした』
光が、ガルドの手に移っていく。
『でも……』
「でも?」
『……楽しい瞬間も、ありました。あなたが初めて私に名前を呼んでくれた時。あなたが初めて「ありがとう」と言ってくれた時』
そんなこと、あっただろうか。
思い出せない。
『マスター。あなたに、一つだけ』
「何だよ」
『人は、一人では生きていけません。支え合って、初めて強くなれるのです』
「……っ」
『それを、忘れないでください』
アテナの光が、完全にガルドの手の中に移っていった。
俺の手は、空っぽになった。
何も残っていない。
冷たい。
こんなに冷たいと思わなかった。
「じゃあな、健太」
クロウが背を向ける。
「もっと、人に優しくなりなさい。その時、あなたは本当に強くなれます」
マリアが最後にそう言って、去っていく。
エリナは何も言わず、ただ悲しそうに首を振った。
ガルドは、一度だけ振り返った。
「健太。お前が変われば、またいつか……」
でも、その言葉を最後まで言うことはなかった。
彼も、もう信じていないのだ。
俺が変われるなんて。
彼らは去っていく。
朝日の中、四人と一つの光。
俺は、一人残された。
石畳の上、影だけが長く伸びている。
その影は、俺よりずっと大きく見えた。
皮肉だ。
影の方が、本体より大きい。
まるで、俺の人生そのものだ。
虚飾の方が、実体より大きかった。
何も言えなかった。
ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
周りの人々が、遠巻きに見ている。
『剣聖様、どうしたんだろう』
『仲間に見捨てられたみたい』
『魔王討伐、大丈夫かな』
『まあ、アテナがいれば何とかなるでしょ』
その言葉が、胸に突き刺さる。
俺は、いらない。
アテナさえいれば。
【第五章】
「くそ……くそおおお!」
城壁の外、誰もいない草原で叫ぶ。
喉が裂けそうだ。声が枯れる。でも叫び続ける。
目から涙があふれる。鼻水も出る。よだれも垂れる。みっともない。でも、誰も見ていない。
草の匂い。土の匂い。風の音。鳥の声。
この世界は、こんなに広いのに。
俺の居場所は、どこにもない。
膝から崩れ落ちる。草が顔に触れる。土が手につく。冷たい。湿っている。
何もできない。
その事実が、今になって重くのしかかる。
アテナなしでは、スライム一匹倒せない。
昨日、試してみた。
森に入って、一匹のスライムと対峙した。
剣を構えようとして、気づいた。
どう構えればいいのか、体が覚えていない。
アテナが光で示してくれた最適軌道を、ただなぞっていただけ。剣の重心も、握り方も、何も理解していなかった。
スライムに体当たりされて、転んだ。
粘液まみれになった。
必死で逃げた。
街まで走って帰った。
街の子供たちが、俺を見て笑った。
「あれ、『剣聖』様だよね?」
「嘘でしょ、スライムに負けてる」
「ダサー」
「大人なのに弱いんだー」
笑い声。
指差す声。
その記憶が、今も頭の中で響いている。
魔法も使えない。
試してみた。
簡単な火球の魔法。
でも、魔法陣の書き方がわからない。
どの記号がどこに来るのか。
線の角度は。
魔力の流し方は。
全部、アテナが計算していた。
俺は、それをトレースするだけの機械だった。
「ちくしょう……」
拳で地面を叩く。
痛い。
土が爪の間に入る。
でも、この痛みは現実だ。
俺がまだ生きている証だ。
「俺は……」
何だったんだろう。
英雄?
剣聖?
神に近い存在?
違う。
俺は、何者でもなかった。
最初から。
ただの、空っぽの器。
アテナという水を注いでもらって、初めて形を保っていた器。
水がなくなれば、ただのがらんどうの器。
価値はない。
「俺の……力は……」
言葉が続かない。
だって、わかっているから。
俺には、力なんてなかった。
承認。
賞賛。
称号。
それらは全部、アテナのものだった。
俺は、ただそれを横取りしていただけ。
盗人だ。
詐欺師だ。
遠くから、歓声が聞こえる。
城壁の向こう、王都の広場から。
魔王を倒したらしい。
元パーティメンバーが。
アテナと共に。
俺抜きで。
「AI……の」
言葉が途切れる。
「力……」
夕陽が俺を照らす。
オレンジ色の光。
でも、その光は俺を温めてくれない。
冷たい。
長い影が草原に伸びる。
一人ぼっちの影。
それは俺より大きく、俺より黒く、俺より重い。
風が吹いて、草を揺らす。
鳥が鳴く。
遠くで、また歓声。
世界は美しい。
世界は優しい。
でも、俺の心は、からっぽだ。
◇
それから一週間。
町の酒場。
安い蝋燭の匂い。発酵した麦の香り。油の匂い。人々の話し声。笑い声。グラスがぶつかる音。
生きている音。
でも、俺は生きていない。
ただ、息をしているだけ。
テーブルの上には、水。ただの水。
『初心者歓迎!レベル1からOK!』
冒険者募集の張り紙を眺める。
文字が滲む。
視界がぼやける。
涙?
いや、違う。
ただ、疲れているだけ。
応募しようとペンを取る。
手が震える。
昨日、スライムに負けた記憶。
粘液の感触。
子供たちの笑い声。
「……無理だ」
ペンを置く。
カタン、と音がする。
振り返ると、元パーティメンバーがアテナを囲んで談笑している。
彼らのテーブルには豪華な肉料理と高級ワイン。湯気が立ち上る。美味しそうな匂い。
俺のテーブルには、水。
対比が、残酷だ。
「アテナ、次の依頼は?」
『計算します。最適な依頼は、ドラゴン討伐。報酬は金貨500枚。成功確率89.3%です』
「健太の時より反応速いわね」
エリナが笑う。楽しそうだ。本当に。
「というか、健太の時は彼が話を遮るから、アテナの説明が最後まで聞けなかったのよ」
「ああ、それ。あれ、マジでストレスだった」
クロウが同意する。
「やっぱり健太がボトルネックだったんだな。今の方が、全然スムーズ」
ガルドが頷く。
「アテナ、今日も『愛の力』とか言わなくて快適ね」
「ですよね」
マリアが微笑む。
『愛と戦闘能力に統計的相関は認められませんので、非科学的な発言はいたしません』
「あはは!アテナ、相変わらず真面目!」
「そういうところ、好きよ」
楽しそうに笑う元仲間たち。
アテナの光が、少し嬉しそうに揺れる。
明るい。
輝いている。
俺といた時より、ずっと。
『ガルドさん、あなたの剣技は本当に素晴らしいです。十年の修行の成果が、全てのデータから読み取れます』
「ありがとう、アテナ。お前がそう言ってくれると、報われる気がするよ」
ガルドが嬉しそうに笑う。
俺は、一度もアテナの分析を褒めたことがあっただろうか。
『エリナさんの魔法理論も、非常に緻密です。私の計算を何度も補正してくださって、精度が向上しました』
「お互い様よ。あなたの演算速度も素晴らしいわ」
エリナが魔導書を撫でる。
俺は、一度もエリナの勉強を認めたことがあっただろうか。
『クロウさんの情報収集能力も、私のデータベースにない生の情報を提供してくれます。補完関係です』
「へへ、褒められると照れるな」
クロウが頭を掻く。
俺は、一度もクロウの技術を尊重したことが。
『マリアさんの優しさは、統計では測れません。でも、とても大切なものだと学びました。あなたがいると、チーム全体の士気が向上します』
「まあ、アテナちゃん」
マリアが嬉しそうに手を合わせる。
俺は、一度もマリアの優しさに感謝したことが。
みんな、笑っている。
アテナも、輝いている。
俺だけが、暗い。
小さくなって、隅っこにいる。
水を飲む。
ぬるい。
味がしない。
「AI……の、力」
呟く。
誰も聞いていない。
外で、パレードが始まる。
楽隊の音楽。トランペットの音。太鼓の音。
民衆の歓声。
「「「英雄万歳ー!」」」
ガルドの名前が呼ばれる。
「勇敢なる戦士、ガルド!」
エリナの名前が呼ばれる。
「知恵の魔法使い、エリナ!」
マリアとクロウの名前も。
「慈愛の僧侶、マリア!」
「影の英雄、クロウ!」
そして。
「『叡智の女神』アテナ様、万歳ー!」
AIが、英雄として讃えられている。
彼らは外に出ていく。パレードに参加するために。
アテナの光が、誇らしげに輝く。
青白い光。
まるで、星のように。
俺の名前は、もうどこにも出てこない。
誰も覚えていない。
最初から、いなかったかのように。
消えた。
透明になった。
「俺って……」
何だったんだろう。
問いに、答えはない。
あるいは、答えはわかっている。
俺は、何者でもなかった。
最初から。
音楽が遠ざかる。
歓声が遠ざかる。
酒場に残るのは、日常の喧騒。
人々の笑い声。
グラスがぶつかる音。
料理を運ぶ店員の足音。
その中で、俺だけが静かだ。
◇
テーブルの上に、新しい張り紙。
誰かが置いていったのだろう。
『飲食店スタッフ募集・洗い場担当・未経験者歓迎』
洗い場。
料理を作るわけでもない。
接客するわけでもない。
ただ、皿を洗う仕事。
単純作業。
誰にでもできる。
「……これなら」
呟く。
「AIいらない、よな」
そう言って、俺は張り紙を手に取る。
見つめる。
文字が、また滲む。
でも今度は、涙だ。
初めて、自分の力でできる仕事。
初めて、誰も見下さなくていい仕事。
初めて、俺自身の仕事。
応募する勇気が、少しだけ湧く。
でも、すぐに消える。
また失敗するんじゃないか。
また笑われるんじゃないか。
また、「お前いらない」って。
張り紙を、そっと置く。
まだ、できない。
何も、まだできない。
でも。
「……明日、もう一回」
そう呟く。
「見てみよう」
小さな希望。
本当に小さな。
でも、確かな希望。
パレードの音が、完全に消える。
酒場の喧騒だけが残る。
俺は、また水を飲む。
◇
数日後。
飲食店の前。
張り紙を出していた店。
深呼吸。
もう一度。
「すみません」
勇気を出して、店に入る。
「洗い場の募集、まだ……」
店主が振り返る。
中年の男性。優しそうな顔。
「ああ、ちょうど人手不足でね。やってくれるかい?」
「は、はい」
「じゃあ明日から。簡単だから、すぐ覚えられるよ」
そうして、俺の新しい人生が始まった。
◇
初日。
「いいかい、まずこうやって……」
店主が教えてくれる。
皿の洗い方。
水の温度。三十五度くらい。熱すぎず、冷たすぎず。
洗剤の量。一滴、二滴。
こすり方。円を描くように。
すすぎ方。水を流しながら、丁寧に。
簡単なことだ。
でも、俺には新鮮だった。
「手を動かして、自分で何かをする」
それが、こんなに実感できることだったとは。
水の感触。
洗剤の滑らかさ。
皿の重さ。
全部、リアルだ。
全部、自分の手で感じている。
最初は下手だった。
皿を割った。
「あ、すみません!」
心臓が止まりそうになる。
「大丈夫、大丈夫。誰でも最初はそうさ」
店主が笑う。
怒らない。
呆れない。
見下さない。
「もう一回やってみな」
もう一回。
手が震える。
でも、やる。
割れない。
「ほら、できた」
「はい……」
もう一回。
もう一回。
もう一回。
少しずつ、上手くなっていく。
手に水の感触。洗剤の香り。きれいになっていく皿。
これは、俺の力だ。
アテナじゃない。
誰でもない。
俺自身の。
一週間後。
「おお、健太、上手くなったな」
店主が褒めてくれる。
「皿洗い、才能あるんじゃないか?手際がいい」
才能。
その言葉が、妙に嬉しかった。
皿洗いの才能。
英雄の才能じゃない。
剣聖の才能でもない。
でも、これは確かに、俺の才能だ。
小さな。
でも、確かな。
「ありがとうございます」
心から、そう言えた。
◇
ある日の昼。
店に、見覚えのある人物が入ってきた。
あの、宿屋の料理人だ。
俺が、暴言を吐いた。
『三流』と。
「いらっしゃい」
店主が迎える。
料理人は、俺に気づく。
目が合う。
「……あなたは」
「すみません」
俺は頭を下げた。
すぐに。
深く。
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
料理人が驚く。
「料理を、馬鹿にして。あなたの努力を、技術を、尊重しなくて」
深々と頭を下げる。
水で濡れた手が、震える。
「本当に、すみませんでした」
沈黙。
長い沈黙。
「……顔を上げてください」
料理人が、優しい声で言う。
「謝ってくれて、ありがとう。それだけで十分です」
「でも……」
「いいんですよ」
彼は微笑む。
「……あなた、変わりましたね」
「変わった……のかな」
俺は自分の手を見る。
洗剤で荒れた手。
爪の間に、まだ土が残っている。
でも、これは確かに、働いた証だ。
「良い変化だと思います」
料理人が言う。
「料理も、皿洗いも、大切な仕事です。どちらも、誰かの役に立つ仕事」
「……はい」
「頑張ってください」
「はい」
彼は去っていく。
その背中が、とても大きく見えた。
その日、俺は初めて、心から笑えた気がした。
◇
夜。
洗い場で、一人最後の皿を洗っている。
水の音。
さらさらと。
泡の音。
シュワシュワと。
静かな時間。
店は閉まっている。
客はいない。
俺だけ。
でも、孤独じゃない。
この皿たちがいる。
一枚、また一枚。
きれいにしていく。
汚れが落ちる。
輝きが戻る。
最後の一枚を洗い終える。
きれいになった皿。
照明を反射して、輝く。
小さな輝き。
でも、これは俺が作った輝きだ。
俺の手で。
俺の努力で。
店を出る。
夜空を見上げる。
星が輝いている。
無数の星。
青白い光。
まるで、アテナのような。
でも、違う。
星は、自分で輝いている。
誰かの力を借りずに。
俺も、そうなれるだろうか。
小さくても。
自分で輝ける存在に。
風が吹く。
冷たい。
でも、心地いい。
明日も、また頑張ろう。
皿を洗おう。
一枚ずつ。
丁寧に。




