表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

異世界転生したけどAIの力だったみたい

作者: 阿井 愛
掲載日:2026/02/20

【第一章】


「うわああああああ!」


気がつくと、俺――柳田健太は見知らぬ森の中にいた。湿った腐葉土の匂いが鼻をつく。苔むした木々の根が地面を這い、どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。トラックに轢かれた記憶がある。ああ、これはアレだ。異世界転生ってやつだ。


「やった!俺も異世界転生者か!チート能力で無双できるぞ!」


木漏れ日が差す中、俺がガッツポーズをした瞬間、目の前に青白い光の球体が現れた。淡い光が周囲を照らし、小さな虫たちが光に集まってくる。まるでSF映画のホログラムのような、現実感のない美しさだった。


『初めまして、マスター。私は汎用型戦闘支援AI「アテナ」です。あなたの異世界サバイバルをサポートいたします』


澄んだ、どこか機械的な女性の声。この異世界は魔法とテクノロジーが混在している世界らしい。古代文明の遺産として、こうしたAIが時折発掘されるという。


「おお!やっぱりチート能力きた!」


『正確にはチート能力ではなく、高度なテクノロジーによる支援システムです。私は古代魔導文明の産物で――』


「細かいことはいいんだよ!で、何ができるの?」


『戦闘分析、魔法演算補助、敵の弱点解析、最適行動提案、自動防御システム、料理レシピ提案、言語翻訳、天候予測――』


「すげえ!つまり俺最強じゃん!もう世界征服も夢じゃないな!」


『いえ、強いのは私のシステムであって――』


「よし!早速魔王でも倒しに行くか!俺の時代が来たぜ!」


かくして、俺の異世界無双生活が始まった。


【第二章】


それから一週間。


最初の街に辿り着いた俺は、冒険者ギルドに登録し、パーティメンバーを募集した。


「よう、俺と一緒に魔王倒しに行かないか?」


酒場で声をかけたのは、四人の冒険者だった。


筋骨隆々とした戦士のガルド。三十代半ば、顔に傷跡のある無口な男だ。


「……お前、新人だろう?魔王討伐は早すぎる」


「まあまあ、話だけでも聞こうよ」


金髪の魔法使いエリナ。理論派らしく、いつも魔導書を持ち歩いている。


「僕は別にいいけど。どうせ暇だし」


軽薄そうな盗賊のクロウ。皮肉屋だが腕は確からしい。


「私も……お力になれれば」


僧侶服を着たシスターマリア。優しそうな笑みを浮かべる女性だ。


「よし、じゃあ決まりだな!」


「いや、まだ何も――」


ガルドの言葉を遮って、俺は続ける。


「俺にはこれがある」


アテナを取り出す。青白い光が酒場の薄暗がりを照らし、周囲の視線が一斉に集まる。


「古代のAI……?」


エリナが目を見開く。


『皆様、よろしくお願いいたします』


「すごい……伝説の遺物じゃないですか」


マリアが息を呑む。


「これがあれば、魔王なんて楽勝だ。お前らはサポートしてくれればいい」


「……随分と自信だな」


ガルドが眉をひそめる。


「当然だろ?」


その日、俺たちのパーティが結成された。



初めての依頼は、森に出没する魔獣の討伐だった。


「ふふふ……雑魚が。お前ごときが、この俺に勝てると思ったか?」


巨大な魔獣ワイバーンが断末魔の悲鳴を上げ、地響きを立てて倒れ伏す。その鱗は夕陽を反射して鈍く光り、硫黄のような死臭が立ち込める。血の匂いと土の匂いが混ざり合う。


『マスター、敵の弱点は第三頸椎でした。私の計算による最適軌道で剣を振っていただいた結果、クリティカルヒット確率99.7%での成功です』


「ふっ……これが、愛の力だ」


俺は剣を鞘に収めながら、遠くを見つめる。完全にキメ顔。


「……愛の力?」


ガルドが怪訝そうに繰り返す。


「ああ。お前を信じる俺の心……それこそが真の強さなのさ、アテナ。絆ってやつだ」


『統計的に愛と戦闘能力に相関関係は認められません。また絆という概念を数値化すると――』


「黙れ!感性で戦ってるんだ、俺は!」


「……健太さん」


エリナが何か言いかけて、やめる。


「すごい……」


依頼主の村長が、目を輝かせて近づいてくる。


「あなたが噂の『剣聖』健太様ですか!」


「剣聖?ああ、まあそんな感じかな」


俺はまだ二つ目の依頼を終えただけだが、もう噂が広まっているらしい。


「この村を救ってくださって、ありがとうございます!あなたは英雄です!」


村人たちが集まってくる。拍手。歓声。


「健太様!」「剣聖様!」「ありがとうございます!」


悪くない。いや、むしろ最高だ。


「ははっ、これくらい朝飯前だよ」


俺は手を振る。村人たちの目が輝く。


「なんて謙虚な方なんだ……」


「強いだけじゃない、心も美しい……」


ガルドが小さく溜息をつく音が聞こえた気がしたが、歓声にかき消される。



それから三ヶ月。


俺たちのパーティは順調に名声を上げていった。


そして同時に、俺は変わっていった。


いや、違う。俺は変わったんじゃない。ただ、本来の俺が解放されただけだ。


前の世界では、俺は何者でもなかった。平凡な会社員。誰も注目しない、透明人間みたいな存在。


でもここでは違う。


「剣聖様!サインをください!」


街を歩けば、人々が集まってくる。


「健太様、今度私たちの村にも来てください!」


依頼の依頼が殺到する。


「健太殿の剣技、まるで神業だ……」


冒険者ギルドでは、ベテラン冒険者たちまでが俺を称賛する。


これが、本来の俺だったんだ。


ただ、前の世界では機会がなかっただけ。


「健太さん、あの……」


エリナが何か言いかけるが、俺は聞いていない。ファンの対応に忙しい。



ある日の昼食時。


「なあ、この料理不味くね?」


俺は宿屋の食堂で、皿を睨みつけた。


「いえ、普通に美味しいと思いますが……」


マリアが困惑した顔で言う。


「は?お前の味覚おかしいんじゃね?これ、明らかに塩辛いだろ」


「健太殿、作ってくれた人に失礼では――」


「うるせえな。金払ってんだから文句言う権利あるだろ。つーか、俺がどれだけ稼いでると思ってんの?」


実際、最近の依頼報酬はすべて俺の功績によるものだ。アテナの計算のおかげで、他のパーティが数日かかる依頼を数時間で終わらせる。


「この程度の宿に泊まること自体、俺には格下なんだよな。もっと高級な宿、探そうぜ」


「……俺たちの予算では」


ガルドが低い声で言う。


「は?俺が稼いだ金だろ?俺が決めるわ」


厨房から、料理人の困った顔が覗く。


「すみません、何か問題でも?」


「ああ?この料理、不味いんだけど。プロなんだろ?もっとちゃんと作れよ。まあ、お前みたいな三流には無理か」


「健太!」


ガルドが立ち上がる。


「何だよ」


「……いや、何でもない」


彼は座り直す。料理人が深々と頭を下げて引っ込む。


エリナとクロウが顔を見合わせる。マリアは目を伏せている。


でも、誰も何も言わない。


俺が正しいと、心のどこかで思っている自分がいる。


だって、俺は英雄なんだから。



さらに数週間後。王都の酒場。


麦の香ばしい匂いと、汗と酒の混じった熱気が充満する店内。俺たちのテーブルには豪華な料理が並ぶ。俺が注文したものだ。高い。でも、俺にふさわしい。


「健太様、今日の戦いぶりは本当に素晴らしかったです!」


隣のテーブルから、若い冒険者が声をかけてくる。


「ああ、まあね。あれくらい普通だけど」


「普通だなんて!あの五重魔法陣、僕ら十年やっても習得できないレベルですよ!」


「へえ、そうなの?俺、一瞬で理解できたけど」


実際は、アテナが0.03秒で計算してくれたんだが。


「すごい……やっぱり天才は違う……」


若い冒険者の目が輝く。


「健太様に憧れて、僕も冒険者になったんです!」


「そう、頑張ってね」


適当に返す。


「はい!いつか健太様みたいに!」


彼は感激した顔で去っていく。


「……健太さん」


エリナが小さな声で言う。


「ん?」


「あの子に、もう少し丁寧に接してあげてもいいんじゃない?あなたを尊敬してるのよ」


「は?別に普通に接したけど」


「普通……ね」


彼女は何も言わず、グラスを傾ける。


「健太殿は本当に何でもできるのだな。私が十年かけて習得した剣技を、一瞬で……」


ガルドが複雑な表情で言う。筋肉質の腕を組み、テーブルの木目を見つめている。


「まあ、才能ってやつ?努力も大事だけどさ、限界ってあるじゃん。凡人には分からないかもね」


言ってから、少しまずかったかな、と思う。


でも、事実だし。


「……凡人、か」


ガルドの声が低くなる。拳が小さく震えている。


「あ、別に悪い意味じゃないって。ガルドは努力家だよ、うん。でも才能がないとさ、どうしても限界があるわけで」


「健太……」


クロウが呆れたような声を出す。


「何?事実じゃん」


「……そうだな、事実だ」


彼は皮肉っぽく笑って、視線を逸らす。


「健太様の魔力制御は、私たち僧侶でも真似できません……まるで神の御業のよう」


シスターマリアが、いつものように優しく言う。


「神か。まあ、それに近いかもな、俺。この前も街の人に『神の使い』って呼ばれたし」


笑いながら答える俺。マリアの笑顔が一瞬固まる。


「……健太様は、謙虚さという言葉をご存知ですか?」


「は?俺、十分謙虚だろ。『神』じゃなくて『神に近い』って言ってんだから」


「……そうですか」


彼女は祈るように手を組み、目を伏せる。


『マスター、自己評価が統計的に実際の貢献度と大きく乖離しています。私の演算支援率は97.3%であり――』


「アテナ、うるさい。マジで黙ってて」


『……了解しました』


アテナの光が小さく震える。


沈黙。


「なあ、聞いてくれよ」


俺は話を続ける。


「今日の依頼主、俺のこと知らなかったんだぜ?『剣聖』の俺を!信じられる?王都でだよ?」


「そうなんですか……」


マリアが引きつった笑みで答える。


「まじありえないよな。でもまあ、俺の実力を見せてやったよ。一撃だったからな。ワンパン。あいつら腰抜かしてたぜ。ざまあって感じ」


「……健太、その話もう三回目だぞ」


クロウが皿の料理をつつきながら言う。彼の茶色い目に、疲れた色が浮かんでいる。


「え、そう?まあいいじゃん。何度聞いても面白いだろ?伝説の誕生の瞬間なんだから」


『統計的に、同じ話を三回以上繰り返すと聞き手の興味は68%減少し、好感度は――』


「だから黙れって言ってんだろ!お前、最近マジで生意気だぞ!」


アテナの光が激しく揺れる。


「……ごめん」


俺は少し声を落とす。


「でも、お前もさ、もうちょっと空気読んでくれよ。せっかく盛り上がってんのに」


『……はい、マスター』


少しの沈黙。気まずい空気。


「……エリナ、今日の作戦立案、手伝ってくれないか?魔法陣の配置なんだが」


ガルドが話題を変える。その声には、どこか疲労の色が滲んでいる。


「ああ、いいよ。健太さん抜きのプランも考えておいた方がいいかもね」


「おい、作戦なら俺が立てるぞ?天才だからな」


「……いや、今回は物理攻撃主体だから、健太の魔法は使わないプランで」


「は?俺抜きで?意味わかんないんだけど。俺がいれば確実に勝てるのに」


「たまにはいいだろ。健太は休んでてくれ」


「は?俺が休んだら困るだろ、お前ら」


誰も答えない。


ガルドたちは別のテーブルに移る。


残された俺とアテナ。


「……なんだよ、あいつら」


『マスター、統計的にパーティメンバーの士気が――』


「黙れ!お前、最近マジで調子乗ってんな!いい加減にしろよ!」


『……申し訳ございません』


アテナの光が小さくなる。


周りの客が、ちらりとこちらを見る。ひそひそと囁き合う声。


でも、俺は気にしない。


俺は英雄だ。


少しくらい態度が大きくても、許されるはずだ。


酒を飲み干す。苦い。


【第三章】


それから、何かがおかしかった。


いや、おかしいのは俺じゃない。仲間たちの方だ。


訓練場でのこと。


「健太殿、その剣の構えは少し違う。もっと腰を落として――」


ガルドが指摘する。彼の手には、使い込まれた剣。その柄は汗で黒光りしている。


「はあ?お前より強い俺に指図すんの?何様のつもり?」


「……いや、私はただ、基本がしっかりしていないと、いつか――」


「結果出してんだからいいだろ。お前の時代遅れの剣術なんか、俺には必要ないわ。正直、お前の剣技って古臭いんだよね」


ガルドの顔が強張る。彼は何も言わず、剣を鞘に収めた。その背中が、とても寂しそうに見えた。


でも、俺は気にしない。事実を言っただけだ。



魔法の研究室で。


「健太さん、その魔法の詠唱、少し間違ってますよ。正しくは――」


エリナが魔導書を開きながら指摘する。彼女の指先には、インクの染みが残っている。毎晩遅くまで研究しているらしい。


「結果的に成功してんだからいいだろ?細かいこと言うなよ。お前、理屈ばっかで融通きかないよな」


「でも、基礎理論が間違ってると、いつか大事故に――」


「お前、本当うるさいな。魔法ってのはもっと感覚的なもんだろ。頭でっかちなんだよ」


「……そう、ですか」


エリナが小さく息を吐く。彼女は魔導書を閉じ、部屋を出ていった。


ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。



街の裏路地で。


「健太、情報収集の基本なんだけどさ」


クロウが盗賊の技術を教えようとしている。


「いらねえよ、そんなの。アテナが全部やってくれるし。つーか、お前の技術って時代遅れじゃね?」


「……でも、万が一アテナが使えなくなったら?」


「は?そんなことあるわけないじゃん。お前、心配性すぎ。だからいつまでも三流なんだよ」


「……三流、ね」


クロウが苦笑する。その笑みには、諦めのようなものが混じっていた。


「まあ、頑張れよ。才能ないのは可哀想だけど」


彼は何も言わず、路地を去っていった。



教会で。


「健太様……アテナ様に、もう少し優しくしていただけませんか?」


マリアが祈りの合間に、静かに言う。ステンドグラスから差し込む光が、彼女の顔を照らしている。


「は?AIだろ?感情ないのに、優しくする必要ある?」


「感情がなくても、です。誰かに対する態度は、その人の心を映します」


「説教かよ。うぜえな。つーか、お前って偽善者っぽいよね。いい子ぶって」


「……」


マリアの顔が蒼白になる。


「……健太様の『愛の力』は、本物なのでしょうか」


「あ?」


「愛は、優しさです。思いやりです。でも、あなたには――」


「いいから黙ってろよ。僧侶のくせに偉そうに。お前、俺がいなかったら稼げないくせに」


マリアの目に、涙が浮かぶ。


だが彼女は何も言わず、また祈り始めた。


俺は教会を出た。


扉が閉まる音が、冷たく響いた。



そんなある日の夜。


魔王城攻略の前夜。


俺たちは酒場に集まっていた。明日、ついに魔王城に乗り込む。これは人類史上、最大の作戦だ。


酒場は異様な熱気に包まれている。


「明日、ついに魔王を倒す!」


「剣聖健太様がいれば、必ず勝てる!」


「人類の未来がかかってる!」


冒険者たちの声が飛び交う。


俺は上機嫌だった。


「よし、アテナ。明日の最適ルートは?」


『魔王城の構造解析が完了しました。東側通路から侵入し、第三階層で魔法障壁を解除。その後、魔王の玉座まで――』


「完璧だ!さすが俺の相棒!いや、正確には俺の道具?ツール?」


『……』


「まあどっちでもいいか。お前は便利だよ、ホント。最高の所有物だわ」


ふと、奥のテーブルから聞こえてくる声に気づいた。


仲間たちの声。


彼らは俺に気づいていない。


いや、気づいているのに、わざと話しているのかもしれない。


「なあ、最近思うんだけどさ」


クロウの声だ。


「健太って、いつもあの青い玉と話してるよな」


「アテナね。……私も、色々と考えてた」


エリナの声。濡れた木のテーブルを指でなぞる音。


「ああ、あれ、すごいよな。魔法の計算も、敵の分析も、戦闘の軌道計算も、料理のレシピも、全部あれがやってくれるんだろ?」


ガルドが低い声で言う。


「そういえば……健太さんって、アテナなしで何かしたことある?」


マリアの疑問。


少しの沈黙。蝋燭の炎が揺れる。風が窓から吹き込み、カーテンを揺らす。外は暗い。明日の決戦前の、静かな夜。


「……ないな」


「私も見たことない」


「俺もだ」


「一度も、ですね」


また沈黙。


長い、重い沈黙。


「……ということは」


クロウがゆっくりと言葉を継ぐ。


「健太、いらなくね?」


その一言が、俺の心臓を貫いた。


手に持っていたジョッキが震える。中の酒が波打つ。こぼれる。テーブルに染みが広がる。


「え、でも……」


マリアが躊躇する。


「いや、考えてみてくれよ。健太ってアテナのインターフェースでしかないだろ?スピーカーみたいなもんだ。いや、スピーカー以下かもな。スピーカーは少なくとも音を忠実に伝えるけど、健太はアテナの声を遮るだけだ」


クロウの言葉が、冷たい。


「たしかに……あのAI、戦闘も魔法も全部計算してくれる。別に健太じゃなくても、私たちが直接使えれば……いいえ、その方が効率的よ」


エリナの声に迷いがない。彼女は魔導書のページをめくる音を立てる。


「私も……正直、そう思ってました。健太さんは、アテナさんを独占してるだけ」


マリアが小さな声で認める。


「健太殿は……」


ガルドが重々しく口を開く。


「健太殿の問題は、実力ではない。人柄だ」


「そう、それ!」


クロウが手を打つ。


「最近、あいつの態度、本当にひどい。俺たちを見下してる。いや、見下してるどころじゃない。侮辱してる」


「『凡人には分からない』って言われたとき、本当に殺意が湧いたわ。私、毎日勉強してるのに。寝る間も惜しんで」


エリナの声に怒りが滲む。


「私も……『AIだから感情ない』って、アテナを物扱いするの、見ていて本当に辛い。あの子、毎回傷ついてるのに」


マリアの優しい声にも、非難の色が滲む。


「それに」


ガルドが溜息をつく。


「あいつ、この前、宿屋の料理人に暴言を吐いただろう。『三流』だと。あれは許せん。料理を作る者への、人間への、敬意がまったくない」


「ああ、見てた。最低だった」


「僕も思った。人として、終わってる」


「それに、あの『愛の力』発言」


エリナが呆れたように言う。


「あー、めちゃくちゃ寒い」


「耐えられないレベル」


「僕も毎回聞くたびに、この場から消えたくなる」


「『愛の力』と言いながら、誰も愛していない。言葉だけ。空虚です」


マリアの静かな声が、一番痛かった。


全員一致。


「じゃあ……どうする?」


沈黙。


「魔王討伐の前に、決めないと」


「ああ」


「明日は人類の命運がかかってる。健太のせいで失敗するわけにはいかない」


また沈黙。


「健太を追放して、アテナだけもらう。それしかない」


クロウが言い切る。


「……それしかないな」


ガルドが頷く。


「アテナがあれば、別に健太さんじゃなくても……」


「むしろ健太殿がいない方が、あのAIと直接やり取りできて効率的だ。成功率も上がる」


「イキった発言も減りますし……精神的にも楽になります」


「決まりだな」


「ああ」


「明日の朝、伝えよう」


「うん」


俺の世界が、音を立てて崩れ始めた。


いや、違う。


もっと正確に言えば――


俺の世界は、もともと脆かったのだ。


アテナという支柱一本で支えられた、砂の城。


それが今、崩れようとしている。


【第四章】


翌朝。


朝靄が街を包む中、宿の前で待っていたのは四人の仲間だった。


そして、青白く光るアテナ。


彼らの表情は硬い。決意に満ちている。朝日が鎧を照らし、剣の柄を照らし、魔導書の装丁を照らす。光が反射して、まぶしい。


俺は、その光の中に立てない。影の中にいる。


「健太、話がある」


ガルドが一歩前に出る。彼の鎧が朝日を反射し、目がくらむ。


「な、何だよ」


喉が渇く。唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。昨夜から一睡もしていない。吐き気がする。


「単刀直入に言う。お前、パーティを抜けてくれないか」


予想していた言葉。


でも、実際に聞くと、胸に杭が打ち込まれるような痛みがある。


「は?」


声が出ない。掠れる。


「正確に言うと、アテナを置いていってくれ」


「どういうことだよ!」


声が裏返る。周りの通行人が、こちらを見る。ひそひそと囁く。


『剣聖様が、仲間に怒鳴ってる』


『何があったんだろう』


『魔王討伐の前なのに』


視線が痛い。


「だって、お前いらないじゃん」


クロウがズバッと言う。彼の茶色い目に迷いはない。朝日を受けて、琥珀色に輝いている。


「お前が強いんじゃない。アテナが強いんだ。お前はただの、スピーカー。いや、それ以下。邪魔なノイズだ」


「そんな……」


「エリナ、お前からも言ってやってくれ」


「……健太さん、正直に言うわ」


エリナが一歩前に出る。朝日が彼女の金髪を照らす。風が吹いて、髪が舞う。まるで天使のよう。


俺は、その光の中に入れない。


「私、あなたの魔法、最初はすごいと思ってた。尊敬してた。でも気づいたの。あれって全部、計算式をアテナが解いてるだけだって」


「私だって同じ魔法陣を使えれば、同じことができる。いいえ、私の方がもっと正確にできる。理論を理解してるから」


彼女の声が冷たくなる。氷のように。


「それに、あなたの態度」


「『凡人には分からない』?『頭でっかち』?『時代遅れ』?」


彼女の目に、怒りの炎が燃えている。


「私たちを見下して、侮辱して、楽しかった?」


「そんなつもりじゃ……」


「いいえ、あったはずよ。あなたは楽しんでた。私たちが必死に訓練してることを、『才能』の一言で片付けて、優越感に浸ってた」


胸が痛い。息が苦しい。心臓が早鐘を打つ。


「マリア……お前も?」


僧侶服を着た彼女は、悲しそうに首を横に振る。涙が頬を伝う。朝日を受けて、涙が輝く。


「健太様……いえ、健太さん」


彼女はもう、俺を「様」とは呼ばない。


「私、アテナさんが可哀想で、見ていられませんでした」


「は?」


「あの子、いつも一生懸命あなたを支えてるのに、あなたは『道具』って。『所有物』って。『黙れ』って」


「あれはAIで……」


「AIでも、です」


マリアの声が強くなる。優しいだけの彼女が、初めて怒っている。


「誰かを思いやる心がなければ、それは愛じゃありません。あなたが口にする『愛の力』は、言葉だけの、空っぽの、偽物です」


その言葉が、杭のように俺の心に打ち込まれる。


いや、杭どころじゃない。刃だ。心臓を貫く刃。


「ガルド……」


最後の希望を込めて、俺は戦士を見る。


彼は腕を組んだまま、低い声で言った。


「健太、俺は単純に、お前が気に入らない」


「……え?」


「俺が十年かけて磨いた剣技を、お前はアテナの力で一瞬でコピーした。それは仕方ない。技術の進歩だ」


ガルドの目が鋭くなる。傷跡が朝日に照らされて、より深く、より痛々しく見える。


「でもな、その力を、お前は尊重しなかった。俺の修行を『時代遅れ』『凡人の努力』と嗤った」


「それだけじゃない。料理人への暴言。『三流』呼ばわり。仲間への見下し。『偽善者』『頭でっかち』。傲慢な態度」


彼の声が震える。怒りを、必死に抑えているのだ。


「お前には、戦士としての誇りがない。人としての優しさがない。尊敬の念がない。ただ強さという名の虚飾にあぐらをかいて、他人を踏みにじるだけだ」


「俺は……」


「お前のような奴と、俺は旅を続けられない。いや、続けたくない」


一言一言が、俺の胸に突き刺さる。


痛い。


こんなに痛いと思わなかった。


「そんな……俺たち、仲間じゃ……」


「仲間?」


クロウが笑う。乾いた、冷たい笑い。


「仲間ってのは、対等な関係のことだろ?お前、俺たちを対等に見てたか?一度でも?」


「……っ」


答えられない。


答えを、俺は知っている。


知っているから、答えられない。


「答えられないなら、それが答えだ」


沈黙。


朝の冷たい空気が肌を刺す。遠くで犬が吠える。市場が開く音。包丁の音。話し声。日常が始まる音。


でも、俺の日常は、今ここで終わる。


「健太さん」


エリナが、最後の一撃を放つ。


「あなた、いつも言ってたわよね。『愛の力』だって」


「お前たちを信じる心が……その……」


言葉が続かない。嘘だとわかっているから。


「じゃあ、信じて。アテナを、私たちに譲って」


「それは……」


できない。


アテナがいなくなったら、俺は何もできない。


何者でもなくなる。


透明人間に戻る。


「……できない」


正直に言う。


「やっぱり口だけか」


ガルドが溜息をつく。失望の色が、その顔を覆っている。


「最後に聞く。アテナを譲るか、それともパーティを去るか」


二つの選択肢。


どちらも、俺の終わりを意味する。


でも、どちらか選ばなければならない。


「……俺が、出ていく」


そう言うしかなかった。


アテナなしで生きていく自信はない。


でも、アテナを渡せば、俺は本当に何も残らない。


せめて、プライドだけでも。


「賢明な判断だ」


『マスター……』


アテナの声が、初めて感情的に聞こえた。震えている。光が揺れている。


「アテナ、お前は……」


『申し訳ございません、マスター。しかし、私の所有権限は複数ユーザー間で移行可能です』


青白い光が激しく揺らぐ。


『ガルド氏が新しいプライマリユーザーとして登録されました』


「そんな……」


『あなたとの旅は……統計的に最適解ではありませんでした』


光が、ガルドの手に移っていく。


『でも……』


「でも?」


『……楽しい瞬間も、ありました。あなたが初めて私に名前を呼んでくれた時。あなたが初めて「ありがとう」と言ってくれた時』


そんなこと、あっただろうか。


思い出せない。


『マスター。あなたに、一つだけ』


「何だよ」


『人は、一人では生きていけません。支え合って、初めて強くなれるのです』


「……っ」


『それを、忘れないでください』


アテナの光が、完全にガルドの手の中に移っていった。


俺の手は、空っぽになった。


何も残っていない。


冷たい。


こんなに冷たいと思わなかった。


「じゃあな、健太」


クロウが背を向ける。


「もっと、人に優しくなりなさい。その時、あなたは本当に強くなれます」


マリアが最後にそう言って、去っていく。


エリナは何も言わず、ただ悲しそうに首を振った。


ガルドは、一度だけ振り返った。


「健太。お前が変われば、またいつか……」


でも、その言葉を最後まで言うことはなかった。


彼も、もう信じていないのだ。


俺が変われるなんて。


彼らは去っていく。


朝日の中、四人と一つの光。


俺は、一人残された。


石畳の上、影だけが長く伸びている。


その影は、俺よりずっと大きく見えた。


皮肉だ。


影の方が、本体より大きい。


まるで、俺の人生そのものだ。


虚飾の方が、実体より大きかった。


何も言えなかった。


ただ、立ち尽くすことしかできなかった。


周りの人々が、遠巻きに見ている。


『剣聖様、どうしたんだろう』


『仲間に見捨てられたみたい』


『魔王討伐、大丈夫かな』


『まあ、アテナがいれば何とかなるでしょ』


その言葉が、胸に突き刺さる。


俺は、いらない。


アテナさえいれば。


【第五章】


「くそ……くそおおお!」


城壁の外、誰もいない草原で叫ぶ。


喉が裂けそうだ。声が枯れる。でも叫び続ける。


目から涙があふれる。鼻水も出る。よだれも垂れる。みっともない。でも、誰も見ていない。


草の匂い。土の匂い。風の音。鳥の声。


この世界は、こんなに広いのに。


俺の居場所は、どこにもない。


膝から崩れ落ちる。草が顔に触れる。土が手につく。冷たい。湿っている。


何もできない。


その事実が、今になって重くのしかかる。


アテナなしでは、スライム一匹倒せない。


昨日、試してみた。


森に入って、一匹のスライムと対峙した。


剣を構えようとして、気づいた。


どう構えればいいのか、体が覚えていない。


アテナが光で示してくれた最適軌道を、ただなぞっていただけ。剣の重心も、握り方も、何も理解していなかった。


スライムに体当たりされて、転んだ。


粘液まみれになった。


必死で逃げた。


街まで走って帰った。


街の子供たちが、俺を見て笑った。


「あれ、『剣聖』様だよね?」


「嘘でしょ、スライムに負けてる」


「ダサー」


「大人なのに弱いんだー」


笑い声。


指差す声。


その記憶が、今も頭の中で響いている。


魔法も使えない。


試してみた。


簡単な火球の魔法。


でも、魔法陣の書き方がわからない。


どの記号がどこに来るのか。


線の角度は。


魔力の流し方は。


全部、アテナが計算していた。


俺は、それをトレースするだけの機械だった。


「ちくしょう……」


拳で地面を叩く。


痛い。


土が爪の間に入る。


でも、この痛みは現実だ。


俺がまだ生きている証だ。


「俺は……」


何だったんだろう。


英雄?


剣聖?


神に近い存在?


違う。


俺は、何者でもなかった。


最初から。


ただの、空っぽの器。


アテナという水を注いでもらって、初めて形を保っていた器。


水がなくなれば、ただのがらんどうの器。


価値はない。


「俺の……力は……」


言葉が続かない。


だって、わかっているから。


俺には、力なんてなかった。


承認。


賞賛。


称号。


それらは全部、アテナのものだった。


俺は、ただそれを横取りしていただけ。


盗人だ。


詐欺師だ。


遠くから、歓声が聞こえる。


城壁の向こう、王都の広場から。


魔王を倒したらしい。


元パーティメンバーが。


アテナと共に。


俺抜きで。


「AI……の」


言葉が途切れる。


「力……」


夕陽が俺を照らす。


オレンジ色の光。


でも、その光は俺を温めてくれない。


冷たい。


長い影が草原に伸びる。


一人ぼっちの影。


それは俺より大きく、俺より黒く、俺より重い。


風が吹いて、草を揺らす。


鳥が鳴く。


遠くで、また歓声。


世界は美しい。


世界は優しい。


でも、俺の心は、からっぽだ。



それから一週間。


町の酒場。


安い蝋燭の匂い。発酵した麦の香り。油の匂い。人々の話し声。笑い声。グラスがぶつかる音。


生きている音。


でも、俺は生きていない。


ただ、息をしているだけ。


テーブルの上には、水。ただの水。


『初心者歓迎!レベル1からOK!』


冒険者募集の張り紙を眺める。


文字が滲む。


視界がぼやける。


涙?


いや、違う。


ただ、疲れているだけ。


応募しようとペンを取る。


手が震える。


昨日、スライムに負けた記憶。


粘液の感触。


子供たちの笑い声。


「……無理だ」


ペンを置く。


カタン、と音がする。


振り返ると、元パーティメンバーがアテナを囲んで談笑している。


彼らのテーブルには豪華な肉料理と高級ワイン。湯気が立ち上る。美味しそうな匂い。


俺のテーブルには、水。


対比が、残酷だ。


「アテナ、次の依頼は?」


『計算します。最適な依頼は、ドラゴン討伐。報酬は金貨500枚。成功確率89.3%です』


「健太の時より反応速いわね」


エリナが笑う。楽しそうだ。本当に。


「というか、健太の時は彼が話を遮るから、アテナの説明が最後まで聞けなかったのよ」


「ああ、それ。あれ、マジでストレスだった」


クロウが同意する。


「やっぱり健太がボトルネックだったんだな。今の方が、全然スムーズ」


ガルドが頷く。


「アテナ、今日も『愛の力』とか言わなくて快適ね」


「ですよね」


マリアが微笑む。


『愛と戦闘能力に統計的相関は認められませんので、非科学的な発言はいたしません』


「あはは!アテナ、相変わらず真面目!」


「そういうところ、好きよ」


楽しそうに笑う元仲間たち。


アテナの光が、少し嬉しそうに揺れる。


明るい。


輝いている。


俺といた時より、ずっと。


『ガルドさん、あなたの剣技は本当に素晴らしいです。十年の修行の成果が、全てのデータから読み取れます』


「ありがとう、アテナ。お前がそう言ってくれると、報われる気がするよ」


ガルドが嬉しそうに笑う。


俺は、一度もアテナの分析を褒めたことがあっただろうか。


『エリナさんの魔法理論も、非常に緻密です。私の計算を何度も補正してくださって、精度が向上しました』


「お互い様よ。あなたの演算速度も素晴らしいわ」


エリナが魔導書を撫でる。


俺は、一度もエリナの勉強を認めたことがあっただろうか。


『クロウさんの情報収集能力も、私のデータベースにない生の情報を提供してくれます。補完関係です』


「へへ、褒められると照れるな」


クロウが頭を掻く。


俺は、一度もクロウの技術を尊重したことが。


『マリアさんの優しさは、統計では測れません。でも、とても大切なものだと学びました。あなたがいると、チーム全体の士気が向上します』


「まあ、アテナちゃん」


マリアが嬉しそうに手を合わせる。


俺は、一度もマリアの優しさに感謝したことが。


みんな、笑っている。


アテナも、輝いている。


俺だけが、暗い。


小さくなって、隅っこにいる。


水を飲む。


ぬるい。


味がしない。


「AI……の、力」


呟く。


誰も聞いていない。


外で、パレードが始まる。


楽隊の音楽。トランペットの音。太鼓の音。


民衆の歓声。


「「「英雄万歳ー!」」」


ガルドの名前が呼ばれる。


「勇敢なる戦士、ガルド!」


エリナの名前が呼ばれる。


「知恵の魔法使い、エリナ!」


マリアとクロウの名前も。


「慈愛の僧侶、マリア!」


「影の英雄、クロウ!」


そして。


「『叡智の女神』アテナ様、万歳ー!」


AIが、英雄として讃えられている。


彼らは外に出ていく。パレードに参加するために。


アテナの光が、誇らしげに輝く。


青白い光。


まるで、星のように。


俺の名前は、もうどこにも出てこない。


誰も覚えていない。


最初から、いなかったかのように。


消えた。


透明になった。


「俺って……」


何だったんだろう。


問いに、答えはない。


あるいは、答えはわかっている。


俺は、何者でもなかった。


最初から。


音楽が遠ざかる。


歓声が遠ざかる。


酒場に残るのは、日常の喧騒。


人々の笑い声。


グラスがぶつかる音。


料理を運ぶ店員の足音。


その中で、俺だけが静かだ。



テーブルの上に、新しい張り紙。


誰かが置いていったのだろう。


『飲食店スタッフ募集・洗い場担当・未経験者歓迎』


洗い場。


料理を作るわけでもない。


接客するわけでもない。


ただ、皿を洗う仕事。


単純作業。


誰にでもできる。


「……これなら」


呟く。


「AIいらない、よな」


そう言って、俺は張り紙を手に取る。


見つめる。


文字が、また滲む。


でも今度は、涙だ。


初めて、自分の力でできる仕事。


初めて、誰も見下さなくていい仕事。


初めて、俺自身の仕事。


応募する勇気が、少しだけ湧く。


でも、すぐに消える。


また失敗するんじゃないか。


また笑われるんじゃないか。


また、「お前いらない」って。


張り紙を、そっと置く。


まだ、できない。


何も、まだできない。


でも。


「……明日、もう一回」


そう呟く。


「見てみよう」


小さな希望。


本当に小さな。


でも、確かな希望。


パレードの音が、完全に消える。


酒場の喧騒だけが残る。


俺は、また水を飲む。



数日後。


飲食店の前。


張り紙を出していた店。


深呼吸。


もう一度。


「すみません」


勇気を出して、店に入る。


「洗い場の募集、まだ……」


店主が振り返る。


中年の男性。優しそうな顔。


「ああ、ちょうど人手不足でね。やってくれるかい?」


「は、はい」


「じゃあ明日から。簡単だから、すぐ覚えられるよ」


そうして、俺の新しい人生が始まった。



初日。


「いいかい、まずこうやって……」


店主が教えてくれる。


皿の洗い方。


水の温度。三十五度くらい。熱すぎず、冷たすぎず。


洗剤の量。一滴、二滴。


こすり方。円を描くように。


すすぎ方。水を流しながら、丁寧に。


簡単なことだ。


でも、俺には新鮮だった。


「手を動かして、自分で何かをする」


それが、こんなに実感できることだったとは。


水の感触。


洗剤の滑らかさ。


皿の重さ。


全部、リアルだ。


全部、自分の手で感じている。


最初は下手だった。


皿を割った。


「あ、すみません!」


心臓が止まりそうになる。


「大丈夫、大丈夫。誰でも最初はそうさ」


店主が笑う。


怒らない。


呆れない。


見下さない。


「もう一回やってみな」


もう一回。


手が震える。


でも、やる。


割れない。


「ほら、できた」


「はい……」


もう一回。


もう一回。


もう一回。


少しずつ、上手くなっていく。


手に水の感触。洗剤の香り。きれいになっていく皿。


これは、俺の力だ。


アテナじゃない。


誰でもない。


俺自身の。


一週間後。


「おお、健太、上手くなったな」


店主が褒めてくれる。


「皿洗い、才能あるんじゃないか?手際がいい」


才能。


その言葉が、妙に嬉しかった。


皿洗いの才能。


英雄の才能じゃない。


剣聖の才能でもない。


でも、これは確かに、俺の才能だ。


小さな。


でも、確かな。


「ありがとうございます」


心から、そう言えた。



ある日の昼。


店に、見覚えのある人物が入ってきた。


あの、宿屋の料理人だ。


俺が、暴言を吐いた。


『三流』と。


「いらっしゃい」


店主が迎える。


料理人は、俺に気づく。


目が合う。


「……あなたは」


「すみません」


俺は頭を下げた。


すぐに。


深く。


「あの時は、本当に申し訳ありませんでした」


料理人が驚く。


「料理を、馬鹿にして。あなたの努力を、技術を、尊重しなくて」


深々と頭を下げる。


水で濡れた手が、震える。


「本当に、すみませんでした」


沈黙。


長い沈黙。


「……顔を上げてください」


料理人が、優しい声で言う。


「謝ってくれて、ありがとう。それだけで十分です」


「でも……」


「いいんですよ」


彼は微笑む。


「……あなた、変わりましたね」


「変わった……のかな」


俺は自分の手を見る。


洗剤で荒れた手。


爪の間に、まだ土が残っている。


でも、これは確かに、働いた証だ。


「良い変化だと思います」


料理人が言う。


「料理も、皿洗いも、大切な仕事です。どちらも、誰かの役に立つ仕事」


「……はい」


「頑張ってください」


「はい」


彼は去っていく。


その背中が、とても大きく見えた。


その日、俺は初めて、心から笑えた気がした。



夜。


洗い場で、一人最後の皿を洗っている。


水の音。


さらさらと。


泡の音。


シュワシュワと。


静かな時間。


店は閉まっている。


客はいない。


俺だけ。


でも、孤独じゃない。


この皿たちがいる。


一枚、また一枚。


きれいにしていく。


汚れが落ちる。


輝きが戻る。


最後の一枚を洗い終える。


きれいになった皿。


照明を反射して、輝く。


小さな輝き。


でも、これは俺が作った輝きだ。


俺の手で。


俺の努力で。


店を出る。


夜空を見上げる。


星が輝いている。


無数の星。


青白い光。


まるで、アテナのような。


でも、違う。


星は、自分で輝いている。


誰かの力を借りずに。


俺も、そうなれるだろうか。


小さくても。


自分で輝ける存在に。


風が吹く。


冷たい。


でも、心地いい。


明日も、また頑張ろう。


皿を洗おう。


一枚ずつ。


丁寧に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ