それはダメ
「これが各運動部それぞれの、年間の活動計画と主要大会のリスト。これをひとつにまとめて年間スケジュールを組むから。もちろんトレーニングのスケジュールも組み込んでね」
「はぁ……そうですか」
図書室に連行された良樹は、座るやいなや机を挟んだ反対側に座った凛から、一冊のファイルを手渡された。
「アナタの才能を、どこにどう割り振るのが最も効果的か、どこをどう鍛えるのが最適解か、一緒に考えましょう」
良樹はファイルを1ページずつめくり、目を通していった。
「うへぇ。野球にバスケにサッカーにバレーに、テニスに水泳に柔道と剣道。器械体操に陸上かぁ。これホントに全部の運動部じゃん」
「そうよ。言ったでしょ。アナタは全運動部の共通部員なの。一年間、アナタのスケジュールはもうビッシリよ。覚悟しといてね」
「でもさ先輩。全部の部に入るなんて、ホントにそんなことできるのかなぁ」
良樹の、その当然の問いを聞いて、凛は少しだけ意外そうな顔をした。
「あら、自信ないの?」
「そういうわけじゃないけどさ……でも、なんか中途半端に出入りすると、真剣にその競技をやってるヤツらが、気を悪くするんじゃねーかと思ってさ」
その言葉。
それは彼が中学時代に、多くの仲間をその不器用さで傷つけてしまった、その後悔から生まれた彼なりの誠実な配慮だった。
しかし、もちろん凛はそんな彼の過去など知る由もない。
「あら、意外と殊勝な心掛けしてるのね」
「しゅ、しゅしょ? えっ? なんて?」
「大丈夫よ。気にしないで」
凛は、まるで子供をあやすように言った。
「言ったでしょ。アナタが全ての部に所属するのは一年間だけよ」
「俺は、明るく楽しい高校生活を送るつもりだったのに、なんでこうなったんだろう……」
「バカね。アナタが今思い描いている高校生活より、きっともっと遥かに楽しいものになるわよ」
そんなもんかね、と良樹は思ったが、口には出さなかった。だって、もっと楽しい高校生活が送れるなんて言われたら……。
――ワクワクしないわけねーよな。
「これはね、川島良樹という最高の原石を、最高の形で磨き上げるための学校全体の強化プロジェクトなのよ。私はそう考えて動いているし、もちろんそのことは全ての顧問と部長に完璧に理解させてみせるわ」
彼女はそこで一度言葉を切り、そして良樹の目を真っ直ぐに見つめた。
「二年生になったら、アナタが本当に輝ける部を、ひとつだけ選ぶのよ。そしてその頃には……今からは想像もできないほどの怪物となったアナタになってもらうから」
その、揺るぎない自信に満ちた瞳。
良樹は、もはや何も言い返せなかった。
「ふーん。まあいいや。とりあえず、よろしくね。先輩」
「その先輩って呼び方は、なんだかよそよそしいわね。凛って呼んでちょうだい」
「えぇ? いや、さすがに先輩を下の名前で呼び捨てとかマズいでしょ」
「私は気にしないけど?」
「俺が気にするの!」
そのあまりにもウブな反応に 凛は心の中で小さく笑った。
「アナタって、先輩である私に対してけっこうタメ口なくせに、そういうところはこだわるのね」
「俺は、先輩が思ってるより人目を気にするタイプなんで」
「竜樹の弟なのに、意外と純情でマジメなのね。じゃあ呼び方は任せるわ。好きなように呼んでちょうだい」
「なら、月島先輩で」
「却下!」
「えぇ! 好きに呼べって言ったじゃん!」
「却下よ!」
「ううーん……じゃあ、凛先輩で」
結局良樹は、先輩と付けてはいるものの、彼女を下の名前で呼ぶことを強制されていた。
「それじゃあ、今度は私の番ね。私はアナタを何て呼べばいいかしら?」
「はぁ?」
「だって、アナタとかキミって呼ぶのはマネージャーとしてよそよそしいし、川島くんって呼んだらお兄さんと紛らわしいでしょう?」
「ああ、まあ言われてみれば確かにそうだなぁ」
「こう呼んで欲しい、とかないの?」
「いや、別にないなぁ。それこそ先輩の好きに呼んでいいよ」
その無防備な一言が命取りだった。
凛は顔を上げると、にっこりと、まるで悪魔のように微笑んだ。
「じゃあ、よしくん、って呼んでもいい?」
「はあ? なんで?」
「だって、アナタの隣りにいたあの可愛い女の子が、そう呼んでいたじゃない」
そのあまりにも的確な急所への一撃に、良樹は思わず声を荒らげていた。
「いや、先輩! その呼び方はダメだ! 他の呼び方にして!」
「あら、どうして? あのコがそう呼んでいるんだから、私だってそう呼んでよくないかしら?」
「いや、ダメです。それはダメだ!」
「ふうーん……」
凛は、つまらなそうに唇を尖らせた。
しかし、その心の奥底では、ある確かな手応えを感じていた。
――思った通り、やはりあの女の子は彼にとって特別な存在みたいね。面白いわ。
「まあいいわ。じゃあ、良樹くん、で我慢してあげる」
「……それなら」
「オッケー! じゃあこれからは、良樹くんって呼ぶわね」
あまりにも鮮やかな交渉術だった。
良樹は、自分がいつの間にか彼女の掌の上で完璧に転がされていたことに、まだ気づいていない。
「ところで良樹くん、ひとつ聞きたいことがあるのだけど」
凛は、何事もなかったかのように手元のファイルに視線を落としたまま、そう切り出した。
あまりにも自然で事務的な口調だったが、 しかしその問いの内容は、決して事務的なものではなかった。
「ん? なに?」
「良樹くんの隣りにいた、あの可愛い女の子は誰なの?」
「隣りに……って、志保のこと?」
「志保ちゃんっていうんだ。名前も可愛いわね」
凛は、ファイルから顔を上げた。
そして、その全てを見透かすような黒曜石の瞳で、良樹の目を真っ直ぐに射抜いた。
「で、その志保ちゃんと良樹くんは、どういう関係なの?」
「はあ? なんでそんなこと聞くんですか」
「そんなの、当たり前じゃない?」
凛は、心底不思議そうに首を傾げた。
「そりゃあ、マネージャーとして、良樹くんのことは全て知っておく必要があるからよ。良樹くんのパフォーマンスに影響を与える可能性のある人物は、全て把握しておかなくちゃね」
「……別に話してもいいですけど。ただ俺と志保の関係って、他人から見るとメチャメチャ複雑だからなぁ。話すときっと相当長くなりますよ? それでも聞きます?」
「望むところよ。さあ、話しなさい。あなたの全てを」
まるで女王様のような命令に良樹は、もはや観念するしかなかった。
彼は、訥々と語り始める。
志保が川島家に来たあの日のことから今に至るまでの、長くて複雑な物語を。
「なるほど。つまり良樹くんと志保ちゃんは、血縁関係は無い。でも家族で『きょうだい』で、同じ家で暮らしてると。そういうことね」
良樹の長い話を一度も遮ることなく、ただ静かに聞いていた凛が、完璧にその要点を要約した。
「……だいぶ端折ってる気もするけどな……でもまぁ、そんな感じです」
そして凛は最後の、そして最も鋭いメスを、彼の心の一番柔らかい場所に突き立てた。
「付き合ってるわけじゃないの?」
その言葉。そのたった一言が、良樹の全ての思考を停止させた。
彼の脳裏に次々と蘇る。
渡辺と別れた、あの日。
神社で志保に告白された、あの雪の夜。
そして、まだ何も答えを出せていない、今の自分。
良樹が言葉に詰まった、そのコンマ数秒。
彼の瞳が、ほんの僅かに揺れ動き、視線が泳いだその一瞬。
凛は、その全ての微細な反応を、ひとつたりとも見逃さなかった。
「――ああ、いいわよ、言わなくても。もう今の反応で全部わかったから」
凛は満足そうに頷いた。
そしてその美しい頭脳の中で、彼女はたった今手に入れたばかりの全てのピースを、高速で組み合わせていた。
――これはどうやら、私が思っていた以上の素材みたいね。
規格外の身体能力。兄と同様の持って生まれたカリスマ性。
そして、その危ういまでの精神的なバランスを、たった一人で支配している運命の少女の存在。
川島良樹には、ドラマの要素が全て揃っている。
(これは……もしかすると、本気で夢を見られるかもしれないわね)
ただの高校の、部活動のレベルではない。
もっと大きな、それこそ日本中を熱狂させるような巨大な物語を、この川島良樹という原石で生み出せるかもしれない。
(でも、そうなると、私がマネージャーをやってると、彼を十分にプロデュースできないかもしれないわ)
凛が良樹のマネジメントとプロデュースを兼任でやっていては、時間が足りなくなるかもしれない。それではどちらも中途半端になりそうだ。
彼の最高のパフォーマンスを引き出すためには、彼の公私の全てを24時間体制でサポートするぐらいの、それこそ専属の現場マネージャーが必要不可欠になるだろう。
だが、その答えはあまりにも簡単だった。志保だ。
彼女は幼馴染で、彼のことを誰よりもよく知っている。
同じ家に住んでいて、常に彼のそばにいることができる。
そして何よりも、彼女自身が川島良樹のアキレス腱であり、同時に彼の力の源泉なのだから。
彼女以上にマネージャーとして最適な人材は、おそらくこの世に存在しない。
「ねえ、良樹くん。志保ちゃんはどこかの部活に入ってるの?」
「志保ですか? いや、部活にはまだ入ってないですね。高校では部活入ろうかなって言ってたけど。ただ、アイツ運動あんま得意じゃないから文化系で探してますけど、なんかピンとくるのがないみたい」
「ふうーん。それは好都合ね」
「えっ?」
「いや、こっちの話。独り言よ。気にしないで」
凛は笑顔で、そうはぐらかした。
しかしその美しい瞳の奥では、すでに次の、そして最も重要な一手が完璧に決定されていた。
(これは……いざとなったら巻き込むしかないわね。彼女が部活に入らないことを祈ろうかしら)
月島凛の、壮大な『川島良樹・プロデュース計画』
その本当の第一歩が、いま静かに踏み出されようとしていた。




