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そして、彼女は微笑んだ

 月島凛の仕事は早かった。 そして彼女の仕事は、その全てが異常なまでに的確だった。


「まずはアナタの『商品価値』を、私たち全員で正確に把握するところから始めるわよ」


 そう宣言した彼女は、良樹争奪戦が繰り広げられた翌日の放課後に、ジャージ姿の良樹を体育教官室へと、半ば引きずるように連行した。

 

 教官室には、ほぼ全ての運動部の部長と顧問の教師たちが、ずらりと顔を揃えていた。

 それはまるで、プロ野球のドラフト会議のような異様な光景だ。もちろんその全ての「根回し」は彼女、月島凛が一人でやっている。


 「――というわけで、先生方。彼がウワサの川島良樹くんです」


 凛は屈強な男たちを前に、一切物怖じすることなく、完璧な笑みを浮かべてそう言った。


「彼という、この学校全体の『宝』を、特定の部が独占するのはあまりにも損失が大きい。そうは思いませんか?」

「……まあ、月島くんの言うことにも一理あるが……」


 顧問教師の一人がそう言った。


「そんなことが本当に可能なのか?」


 部長の一人もそう疑問を呈す。その疑問に対して、凛は顔色ひとつ変えずに答えた。


「もっともな疑問ね。常識で考えたらあり得ないでしょう」

「そうだろう。だったら……」

「ですから、これは私からの提案です。一年間、彼を『体育会全部』で、共同で育成する。そして、その才能が最も開花する場所を私たち全員で見極めてあげる。そして二年生に進級したところで、彼を特定の部に固定して、さらにその能力を伸ばす。それが彼にとっても、そしてこの学校全体にとっても、最も有益な道だと私は確信しているんです」

 

 それは教師たちにとっても部長たちにとっても、あまりにも大胆で、しかし誰一人否定できない提案だった。

 大人であるはずの教師たちでさえも、このたった一人の少女が作り出した完璧な空気に、完全に飲まれている。


 ――確かに、ウワサが本当なら、それだけの価値はあるのかもしれない。


 教師たちは、そのウワサが良樹の兄である竜樹が吹聴したものだとは知らない。


「まあ、まずはとにかく、体力測定で彼の基礎体力を見てみようか」

「そうだな。そもそもウワサが本当なのかどうかを確かめるのが先決だ」


 そして、地獄のような体力測定が始まった。

 

 


 最初の種目は50メートル走だった。

 

「……用意」

 

 ピストルの音と同時に良樹の体が弾かれたように飛び出し、疾風のようにゴールを駆け抜けた。

 

「……なっ!?」

 

 ストップウォッチを持っていた陸上部の部長が、タイムを見て目を見張り、思わず息を呑む。

 

「……ろ、6秒フラット……だって……?」


 その呟きに、周りにいた他の部長たちがざわめく。


「それって、スゴイのか?」

「スゴイなんてもんじゃない。とんでもない速さだぜ。全国レベルだよ」

「おい、マジかよ」

「アイツ、陸上用のスパイク履いてねえのに……」

「おまけに陸上部だったわけじゃないから、専門的なトレーニングだってしてないんだろ?」

「計測ミスじゃないのか?」

「いや。それはない。そんな初歩的なミスをするわけないだろ」

 

 まだ最初の一種目目が終わったばかりだというのに、その場にいる全員がもう良樹のポテンシャルの高さに飲まれ始めていた。

 

 

 次の種目は垂直跳び。

 良樹は深く膝を曲げ、そして思いきり真上へと跳ぶ。

 そのあまりの跳躍力に、バレー部の部長が目を見開いた。

 

「……80センチ……? 嘘だろ? うちのエース並みに跳んでるぞ……ホントに一年かよ」

 

 どよめきが、さらに大きくなる。


「もう今の時点で、サッカーとかバレーとか陸上では即戦力レベルの基礎体力じゃないか?」

「野球でも、あの足の速さは大きな武器になるな」

「いや、これは驚いたぜ。噂どおりどころか、噂以上じゃねえか」


 その後も良樹の体力測定は続く。

 反復横跳び、20メートルシャトルラン、立ち幅跳び、ソフトボール投げ……。

 ひとつの種目が終わるたびに皆の驚きはさらに増していき、全ての測定が終わる頃には、体育教官室に集まった男たちの興奮は、もはや最高潮に達していた。



 

 「なるほどね。数値上では、とんでもない基礎体力してるわ、アナタ」


 全ての測定を終えて地面にへたり込む良樹とは対照的に、凛は涼しい顔で手元のバインダーに挟んだデータシートを、指でトントンと叩いた。


「こうしてみると、一年生としては明らかに異常な数値がいくつもあるわ。部によっては、これは本当に即戦力になるかもしれないわね」


 各部の部長たちが、顧問の教師たちが、ゴクリと喉を鳴らしながら互いに頷きあっている。彼らの誰一人として、もう良樹の身体能力を疑う者はいない。

 その興奮に満ちた空気を、しかし凛は冷徹な一言で断ち切る。


 「でもまだまだダメね。原石としては最高だけれど、戦力としては、まだまだ素人よ」


 凛はデータを挟んだバインダーを、全員に見るよう促した。


「年齢平均を遥かに上回っている数値ばかりだけれど、特に脚力と、それに伴う瞬発力は目を見張るものがあるわ。俊敏性も素晴らしい。でも逆にスタミナと、あと上半身の筋力が、それに全く追いついていない。このアンバランスさが現時点での最大の課題かしらね」

「そうなんですか? 体力測定とか、中学では大したことやらなかったから、自分ではよくわかんないんだよなぁ」

「自覚がないというのは、最高の才能よ。そして、伸びしろしかない、ということでもあるわ」


 凛は、そこで一度言葉を切り、そして集まった全員に次のステップを宣言した。


「――じゃあ明日からは、それぞれの部で実際にプレーしてもらいましょう。実戦テストよ。この素晴らしい数値が、実際の競技の中でどれだけ意味のある動きに変換されるのか。それを見極めなくちゃいけないから」


 良樹も、そしてそこにいる全ての者たちが、もはやこの美しき独裁者の掌の上で、完全に転がされていた。



「よしくん、お疲れさま」

「川島、お疲れ」


 地獄の体力測定がようやく終わり、ぐったりとベンチに座り込む良樹の元へ、志保と美咲が歩み寄ってきた。

 どうやら二人は、測定の様子をこっそりと見学していたらしい。


「なんだよ、志保も江藤も見てたのか?」

「うん。よしくん、凄かったね。どの項目も全部年齢平均よりずっと上だって言ってたね。50メートル走のタイムとか、中学の頃よりずっと速くなってた」


 志保が、心からの尊敬の眼差しで、そう言ってくれる。

 そのまっすぐな瞳に、良樹は少しだけ照れくさくなった。


「アンタって、ホント体力お化けと言うか、スポーツモンスターと言うか……まあ、そのバカみたいな身体能力だけは素直に尊敬するわ」

「……江藤さぁ。オマエは俺を褒めてんのか貶してんのか、どっちだよ」

「褒めてるに決まってんでしょ。なによ、人がせっかく褒めてあげてんのに」

「オマエに褒められても気持ち悪いだけだし。それよりさ、疲れたからもう帰ろうぜ」


 そう言って良樹が、重い腰を上げて立ち上がった、その時だった。

 背後から凛の、鈴が鳴るような、しかし有無を言わせぬ声が飛んできた。


 「ちょっと待って、川島くん」


 その声を聞いた瞬間、良樹の肩が、ビクリと大きく跳ねた。

 

 (まるで、猛獣使いの前に引きずり出されたライオンみたいね)

 

 そのあまりにも分かりやすい反応に、美咲は思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。


「まだなんかあるの?」

「もちろんよ。体力フィジカルの次は、頭脳ブレインつまり座学の時間だもの」

「ざ、座学……?」

「そうよ。スポーツ栄養学の基礎、各競技のルール、今後のスケジュール、他にもアナタ自身に覚えて欲しいことは山ほどあるのだから」

「それ、今すぐじゃなきゃダメなの?」

「当たり前でしょ! さあ、行くわよ!」

 

 凛はそう言うと、良樹の腕をぐいっと掴んだ。

 その華奢な腕の、どこにそんな力があるのか。

 良樹は、なすすべもなく彼女に引きずられていく。


 「ちょっ……! 俺は、もう、帰るって……! おい、志保! 江藤! 助け……!」

 良樹の悲痛な叫びは、しかし無情にも廊下の向こうへと消えていった。


 残されたのは、あっけにとられた志保と美咲のだった。


「行っちゃったよ……」

「あっけにとられちゃったね……」


 しばらく、呆然と立ち尽くす二人。

 やがて美咲が、やれやれと、首を振って言った。

 

「どうする? あの感じじゃいつ終わるかわかんないし、先に帰る?」

「ううん」


 志保は、ゆっくりと首を左右に振った。


「私は、よしくんを待ってるよ」


 その瞳。

 それは以前までの、ただ健気に好きな人を待つ、か弱い少女のそれではなかった。

 そこには、あれが私の心に決めた人だからという、静かで揺るぎない覚悟の光が宿っている。


 「……そう言うと思った」


 美咲は、その親友の新しい『顔』を見て、満足そうに頷いた。

 

 「しょうがない。アタシも付き合うよ。志保を一人で待たせるわけにはいかないものね」

 

 美咲の茶化すような、しかし、どこまでも温かい言葉。

 志保は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた後で「ありがとう、美咲ちゃん」と、嬉しそうにはにかんで笑った。

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