紅白戦
紅白戦が始まった。良樹は先攻の紅組で、1番セカンドを任された。
「ノックではショートだったのに、紅白戦ではセカンドなの?」
「監督が、オマエのセカンドでの守備を見たいんだってさ」
「ふうん。なんで?」
「そんなの俺が知るかよ」
「1番なのは、多分少しでも多く打席が回ってくるようにだぜ。紅白戦は5イニングだからさ」
「1回でも多く打席が見たいってわけか。そんなの1回目の打席で結果出してやるのに」
「……その身体能力じゃ自信満々になるのもわかっけどさ、自信が過ぎると書いて過信になるんだからな?」
先輩部員の一人が、そう言って良樹に釘を刺した。
「だいたいオマエ、硬球打ったことあんのか?」
「いや、ないなぁ。そんなに違うもん?」
「当たり前だろ! 気い抜いてると大ケガすっから、気合入れろよ。それから打ち損じると手がエラいことになるけど、ビックリすんなよ?」
「脅かさないでくれよなぁ」
そう言う良樹を、紅組の部員たちはニヤニヤしながら見ている。
「よっしゃ! じゃあ1番バッターだし、ちょっくら行ってくるわ」
良樹はそう言って、バットを片手にバッターボックスへと向かった。
(金属バットなんて初めてだけど、まあ別に木のバットと変わらねえだろ)
10年ほど前から、高校野球では公式戦での金属バット使用が許可されていた。折れる木製バットが全国の高校野球部の資金的な負担になっている側面を考慮してだ。
だが一般にはまだ木製バットが主流で、良樹は金属バットを手にしたはもちろん、見るのも生まれて初めてだった。
マウンド上のピッチャーが投じた第一球、右打席に入っていた良樹は積極的に打ちに行った。
だがバットにボールが当たった瞬間、彼の両手にビリビリと物凄い衝撃が走る。
「いってぇぇぇぇ!」
打球はファール。途端に紅白両軍の部員たちからドッと笑いが起こった。
「やっぱりやったかぁ」
「まあ、誰でも一度は経験するもんよ」
良樹は痺れる両手に目をやりながらキャッチャーに「なんでこうなんの?」と尋ねた。
「これが硬球だよ。ちゃんと打たねえとそうなるんだ」
「マジか。ちゃんと打つって、どう打てばいいんだよ」
「バットの芯で打つんだよ。ズレたとこで打つと手が痺れるんだ」
「ホントかよ。金属なのに芯なんてあるの? 木のバットにあるのは知ってるけどさ」
「あるんだよ。あとは思いきりバットを振り抜くんだな。ボールの勢いに負けても痺れるぞ」
「んだよ、それ。難易度高くない?」
こんな痛い事よくやるね、とブツブツ言いながら良樹は再び打席に立った。
(芯で捉えて思いきり振り抜く……ね)
そう言われても、木製バットの芯がどこかだってよくわからないのに、ましてや金属バットの芯がどこかなんてわかるわけがない。なにしろ生まれて初めて見た代物なのだから。
(だったら、思いきり振り抜くことだけ意識すっか)
だが、ピッチャーが投じた二球目はカーブだった。
初めて目の当たりにした変化球に、良樹のバットはピクリとも動かない。まさに呆気にとられた状態になっていた。
「ちょ、ちょっと待った! 変化球アリなの?」
「アリに決まってるだろ。素人か?」
良樹があげた抗議の声に、キャッチャーがそう答えた。
「素人だよ! 野球は遊びでしかやったことねえわ!」
「なんだ。じゃあカーブを見たのは初めてか」
「当たり前じゃん。こんなん打てるわけねーじゃん。いくらなんでもハードル高すぎ! せめて変化球ナシにしてくれよ」
「おやおや。川島竜樹の弟ともあろう男が弱音を吐くのかよ」
キャッチャーのその一言が良樹の癇に障り、酷くイラつかせた。兄は関係ないだろう、と。
「オマエの評判は、もう散々聞いてるよ。それほどの男なら、初めて見る変化球にも軽く対応して欲しいもんだな」
良樹は誰の目にも明らかなほど不快さを隠さない表情をしていた。
キャッチャーが挑発しているのはわかっている。わかっているが、兄の名前を出されてしまっては逃げるわけにはいかないだろう。どれほど困難なことでもやるしかない。
そして挑発してきた相手の鼻を明かしてやるのだ。
「……わかったよ。やってやろうじゃん。変化球はカーブだけ? 他にあんの?」
「さすがに無理だろうから、カーブだけにしてやるよ」
「……そりゃどうも」
素っ気ない礼を言いながら、良樹のはらわたは煮えくり返っていた。
(そっちがその気なら、やってやるよ。見てろよ、こんちくしょう)
そう言うからには変化球勝負なんだろ、と良樹は考えた。バッターボックスの中で二度三度とバットを握り直す。
――だったらそのカーブを打ってやる。
三球目はストレート。ボール。四球目もストレート。ファール。カウントは1ボール2ストライク。
――次は絶対にカーブが来る。間違いねぇ。
五球目は読み通りにカーブが投ぜられたが、やはりタイミングが合わず態勢を崩されてしまう。
だが良樹は、とっさにバットを止めた。
「ボール」
審判のコールを聞いたキャッチャーが「よく止めたじゃん」と声をかけるが、良樹は何も答えなかった。
(ちくしょう。カーブが来るってわかっててもタイミングが合わねぇ。こんなに態勢崩されたんじゃ打てるわけねえじゃん。クソ)
初めて見るカーブは想像以上に手ごわい。良樹は思考を切り替えることにした。
(変化球だろうがなんだろうが、要はストライクゾーンを通るんじゃん。難しいこと考えたって敵いっこないんだ。球種なんか関係ねぇ。シンプルにストライクゾーンに来た球を思いきりひっぱたけ。どうせ今の俺にはそれ以外できねぇんだから)
六球目。続けてカーブが来た。良樹は思いきりバットを振る。だが金属音を残した後、打球は力なく一塁側にフラフラと上がる。
一塁手がギリギリまで懸命に追うが、打球はかろうじてフェンスを越え、ファールとなった。
「ちくしょう! 打ち損ねた!」
良樹は心底悔しそうに、そう吐き捨てた。
そんな彼をキャッチャーは冷静に見つめていたが、彼の内心は驚きでいっぱいだった。
(コイツ、いま一瞬バットを出すタイミングを遅らせたよな。カーブが来るって読んで合わせたのか? しかも初めてカーブを見たハズなのに、三球目でもうバットに当てやがった。噂通りのとんでもないセンスだ)
「川島! オマエいま、カーブが来るってわかってたのか?」
キャッチャーの彼がそう尋ねると、良樹はこともなげに「そうだけど?」とだけ答えた。
「そんなの見てりゃわかるだろ? みんなそうやって打ってるんじゃないの?」
「オマエ……ずいぶん簡単に言ってくれるじゃん。今日初めてカーブ見たくせに」
「カウント的にも配球的にも絶対カーブだって思ってたよ。でも打ち損ねた。次は絶対打つし」
キャッチャーの彼は良樹との会話で、背中に冷たいものが走るようなゾクッとする感覚を覚えた。それはもう戦慄と言っても過言ではないだろう。
(コイツ、初めて見たカーブを3球目でバットに当てただけじゃなくて、ピッチャーのフォームを見てカーブの時のクセを見破った上に、カウントと配球からカーブが来るって読み切ってやがったのかよ。バケモンか!)
キャッチャーはしばらく黙って良樹を見つめていたが、やがてゆっくりとマスクを外した。
「なあ、川島。ひとつ聞いていいか」
「なに?」
「オマエ、ピッチャーのどこを見てた?」
「どこって……全体? でもしいて言えば、グローブかな」
「グローブ? 球種を見破るなら普通は、リリースポイントとか指の使い方を見るんだぞ」
「そうなの? でも俺にはグローブの使い方の方がわかりやすかったんだよな。カーブの時だけ、構えた時のグローブの角度が微妙に違うから」
キャッチャーの手からマスクが、カランと音を立てて落ちた。
「……グローブの、角度?」
「そうだよ。ほんの少しだけど、でも絶対に違う。あとはカウントと配球でカーブが来るってわかったんだ。みんなそうやって見破って打ってるんだろ? じゃなきゃ打てる気しねーし」
良樹はそれだけ言うと、もう一度バッターボックスに入る構えを見せた。まるでたった今の会話が、世間話でしかなかったかのように。
キャッチャーは、拾い上げたマスクを持ったまま動けずにいた。
(グローブの角度……プロはそんな些細な違いを見破るって聞いたことはあるけど、そんなの正直話半分だと思ってた。でも実際に気づく人間がいるのか。バッターボックスから、しかも今日初めて見た球種を何球か見ただけなのに)
バックネット裏では坂井が、試合そっちのけで良樹とキャッチャーのやり取りをじっと見ていた。
もちろん二人の会話は聞こえないけれど、良樹が何か問いかけられ、それに答え、そしてキャッチャーがマスクを落とした。その一連の流れだけで、坂井にはおおよその察しがついた。
(やっぱりそうだ。あのコは見ているだけじゃない。配球も読んでるんだ)
坂井は静かに腕を組んだ。鳥肌はもうとっくに引いている。
代わりに胸の奥で、長い間冷えていた何かが、ゆっくりと熱を取り戻してくるのを感じていた。
七球目。ピッチャーが投じたのはストレートだった。
良樹のバットが、鋭く空を切る。空振り三振。
「くっそ! 騙された!」
「ははは。読まれてると思ったら、こっちだって対策するだろ」
キャッチャーが笑いながらそう言うと、良樹も悔しそうに笑った。
「なるほど。読み合いってやつか。面白いじゃん、野球」
良樹はバットを持ってベンチに戻りながら、独り言のように呟いていた。
「次の打席は絶対打つ。ストレートとカーブの見分け方、もう一度整理すっか」
誰に言うでもない、ただ自分に言い聞かせるような声だった。




