渦中の人
竜樹と志保に肩を貸されて保健室にたどり着いた良樹は、そのままベッドに横たわった。
保健の先生が手際よく、アイシングなどの処置をしてくれる。
「ただの攣りのようだけど、こんなにあちこちが攣るなんて、全身の筋肉が悲鳴を上げてる証拠よ。いったいどんな無茶をしたのかしら?」
保健の先生が呆れながらも、優しい言葉をかけるが、良樹は頭をかきながら「ははは」と笑ってごまかした。
竜樹はベッドのそばの椅子に座り、ポツリと話し始める。
「痛むか?」
「あ、いや、今は落ち着いたかな。さっきまでは、攣ったとこをかばうと別のとこが攣ってさ。俺の身体、どうなっちゃったの? って思ったけど」
「それはオマエ、身体の限界を超えちまったからだよ」
「でも、そんぐらいしないと兄貴は抑えられないからさ……満足はしてるよ?」
「そうか……なあ、良樹。オマエ、いつの間にあんなことができるようになったんだ?」
それは王様としてではなく、一人の兄としての驚きと、ほんの少しの嫉妬と、そして誇らしさが混じった問いかけだった。
「あんなことって?」
「どれもこれもだよ。ディナイディフェンスにしてもビハインドバックパスにしても、ろくな練習もしてない付け焼刃で上手くできるもんじゃねえんだよ」
良樹は「あー、あれそういう名前のプレーなんだ?」と言って笑った。
「オマエ、知らないでやってたのか?」
「なんか身体が勝手に動いたんだよね。あんなパス、やったことないしさ」
「ぶっつけ本番かよ。 ディフェンスも、勝手に身体が動いたのか?」
「ディフェンスの方はさ、兄貴の動きの癖とか、呼吸やタイミングとか、なんとなくわかるんだよ。兄貴のことをずっと見てたからかな」
「ちぇっ、俺にはイヤミにしか聞こえねえよ」
竜樹はそんな憎まれ口を叩くが、その口元は少し緩んでいる。
「なんにせよ、恐れ入ったよ。オマエのことだから素直に負けるわけねえとは思ってたけど、この俺がまさかおまえに振り回されるとは思わなかったぜ」
「通用したのは兄貴にだけだから。他の人にマンツーマンだったら、たぶん手も足も出なかったんじゃねぇかな」
「オマエ、それじゃ俺がヘタクソみてーじゃねーか」
竜樹は笑いながら良樹の頭を軽くこづいた。こづかれた良樹も笑っている。それは先ほどまで火花を散らしあっていたとは思えない、普通の仲が良い兄弟にしか見えないやり取りだった。
「なあ、良樹。真剣にバスケ部に入らないか?」
竜樹が、不意に真面目な顔をして良樹をバスケ部に誘った。
ろくなトレーニングもしてこず、ただ本能と感性だけであれだけのプレーができるなら、本格的に鍛え上げたらどんなプレーを見せてくれるのか。それを考えただけでもワクワクしてくる。
竜樹は、そんな弟と一緒にプレーしてみたいと本気で思った。
だが良樹は、少し考えたあと、残念そうな顔でその申し出を断った。
「誘ってくれるのは嬉しいけどさ、俺はいろんなスポーツをやるのが性に合ってるみたい。いま、なんかすげえ楽しいんだ。だから、凛先輩の言う通りにしばらくやってくよ」
「楽しいのか」
「ああ。なんかいろんな競技をやるって、俺の性に合ってるのかもしんねぇ。今さ、すごく楽しくて仕方ないんだ」
「……そうか、楽しいか。楽しいのはいいことだよ。悔しいけど、月島に感謝しなきゃだな」
そのやり取りを、志保はハラハラしながらも嬉しそうに見守っている。
そんな彼女の耳元で美咲が「ねえ志保。アンタたち、もうすっかり普通の兄妹みたいになったんじゃない?」と囁いた。
それを聞いて志保は、ニッコリと笑って「うん」と答える。
彼女の中では、もう竜樹は「竜樹さん」ではなく「お兄ちゃん」だ。まだ照れくさくてそれほど口にしてはいないが、その変化は美咲にわかるほど、表に現れているのだろう。
それが志保には、たまらなく嬉しい。
「よしくん、足の具合はどう? まだ痛い?」
「ああ、まだちょっと攣りそうになるけど、さっきよりだいぶラクになったよ」
「そっか。よかったぁ。大きなケガだったらどうしようって、ドキドキしちゃったよぉ」
よほど心配していたのだろう。志保はそう言って、心の底から安堵した表情を見せた。
「俺はもう行くけど、気をつけて帰れよ。志保、良樹を頼むな」
「うん。任せて」
じゃあな、と言って竜樹は保健室を出て行った。
「それにしても、竜樹さんじゃないけどアタシも恐れ入ったわ。アンタ、どんだけスゴイことやってのけるのよ」
さすがに美咲も今日は茶化さない。彼女も今日の良樹には心底舌を巻いていた。
「最初のサッカーからそうだったけど、その後の野球もバレーも活躍してたもんね。それで今日のバスケでしょ? アンタ、もしかしたら団体競技の方が向いてるんじゃない?」
「そうかもしんないな。なんか団体競技の方が戦術とかあるし、頭使ってプレーするから面白いんだよな」
「バカのくせに、頭使うのが面白いんだ」
美咲が悪戯っぽく笑いながらそう言うと、良樹は「うるせー」と即座に返す。そんなやり取りを志保がニコニコしながら見ている。
バスケ部が練習を終えた後の体育館。生徒たちがほとんど帰って静まり返ったその場所で、凛が一人、スコアボードや自分のメモを見返している。そこへバスケ部の監督がやってきた。
「あら、監督。お疲れ様でした」
監督は、苦笑いで凛に話し始めた。
「完敗だよ。いや、恐れ入った。君の言った通り、彼はとんでもない逸材だ。竜樹を封じてみせた上に、8分間とはいえAチームを圧倒したんだから。正直言って、今すぐバスケ部に欲しいよ。そして私の手で育ててみたい。彼がいれば都大会どころか全国も夢じゃない。そう思わせてくれる魅力が彼にはあるよ」
監督のその心からの賛辞に、凛は静かに答えた。
「いいえ、監督。どうやら私の見立て違いでした。彼は『逸材』などという、既存の枠に収まるような存在ではないかもしれません」
「どういうことかね?」
監督に問われた凛は、興奮を抑えながら、しかし確信に満ちた声で言う。
「彼は、特定の競技で頂点を目指す純粋な『アスリート』ではないのではないかと」
「アスリートじゃなかったら、彼はいったいなんだって言うんだい?」
「彼は、あらゆる状況の“最適解”を瞬時に見つけ出し、ゲームそのものを支配する『支配者』つまりコントローラーなんです。私の計画は、根本から見直す必要があるかもしれません」
凛はこれまでの、どの部活が彼に合うのかというテストが無意味であったことを悟っていた。
そして彼女の頭の中では、全く新しい、そしてより壮大な『川島良樹・唯一無二化計画』が、今まさに産声を上げていた。
「まずは、彼のまだまだ脆すぎる身体を、その規格外の頭脳に見合うレベルまで引き上げなくてはね。そのための特別メニューが必要だわ。体育教師だけではダメね。外部のプロの力も借りなくては」
凛はひとり、もうすでに先の先を考え始めていた。
翌朝良樹たちが登校すると、周囲の反応が妙だった。
「おい、あれが川島の弟だぜ?」
「マジかよ、昨日8分でバスケ部のレギュラー陣をボコったっていう、あの川島かよ」
「俺、昨日見てたけどさ、マジでスゴかったぜ」
「サッカー部でもヤバかったらしいぞ」
「バレー部でも、レギュラー相手に互角の勝負したって言うじゃん」
廊下や昇降口ですれ違う生徒たちが皆、良樹を見てヒソヒソと噂話をしている。
「なあ、志保。なんか妙な雰囲気じゃないか?」
「そうだね……みんな、よしくんのこと見てるみたい」
「アンタ、もうすっかりこの学校の有名人だね。もう顔を知らない人、いないんじゃない?」
どうやら噂に尾ひれがつきまくって、良樹はすでに「学園の英雄」あるいは「謎の怪物」として認識されているようだ。
良樹はその注目度にウンザリして「もう普通に学校生活送れないじゃんか……」と頭を抱えた。
「まあ、有名税ってやつじゃない? せいぜい頑張りなさいよ、ヒーローくん」
美咲がニヤニヤしながら、そう言ってからかう。良樹はムスッとした顔で「勘弁してくれよ……」と呟いた。
「ねえねえ、あれが川島くんだって」
「あの、スポーツ万能だっていうコでしょ?」
「なんかちょっと、カッコイイかも」
「誰か付き合ってるコ、いるのかな?」
女子生徒たちの噂話も三人の耳に入ってきた。
「あれあれぇ? 女の子たちも川島の噂してるなぁ」
美咲がニヤニヤしながらわざと少し大きな声でそう言うと、良樹と志保の肩がピクッと動く。相変わらずわかりやすい二人だった。
(……そっか。そうだよね)
志保は、自分の心臓がキュッと小さく縮こまるのを感じていた。
(よしくんは、カッコイイもん。優しくて、強くて……昨日の試合だって、あんなにすごかったんだから、そりゃあ女の子からも注目されちゃうよね。私だけがよしくんの特別を知ってるなんて、そんなのただの思い上がりだったかも)
あの日、神社で良樹に伝えた気持ちは、今も少しも揺らいではいない。何があっても、ずっと良樹のそばにいたい。その覚悟は本物だし何も変わらない。
けれど覚悟を決めた心とは裏腹に、実際に他の女の子たちが良樹に注目しているのを見ると、胸の奥で小さな棘がチクリと痛むのだ。
今まで自分と美咲くらいしか知らなかった良樹の凄さが、どんどんみんなに知られていく。
嬉しいし誇らしい。それなのにどうして……。
(……なんだか、よしくんが遠くに行っちゃうみたい……ヤダな)
ふとそんな寂しさが胸をよぎり、志保は無意識に良樹の制服の裾を、指先でほんの少しだけ掴んでしまった。
「ん? どうした、志保?」
裾を掴まれて、不思議そうに振り返る良樹の顔を見て、志保はハッと我に返る。
「う、ううん! なんでもない! ゴメンね。なんか、フラッとしちゃっただけ!」
慌てて手を離し、ぶんぶんと両手を顔の前で左右に振る。そんな志保の様子を、隣を歩く美咲だけが全てお見通しだと言わんばかりに、優しくて、そして少しだけ意地悪な目で見つめていた。




