湯治
薄明かりの風呂場。木の壁に囲まれた小さな湯殿には、かすかに薬草の匂いが漂っている。
湯は淡く緑がかっており、浮かぶ葉の上を湯気がゆらりと揺れていた。
私とわかばは、向かい合わせになる形で、薬草の湯に肩まで浸かっていた。
「…ふぅ…」
わかばが細く息を吐く。右肩の周囲には縫い傷が残っている。
「どうだ、傷の調子は」
「…温めると、少し楽になります。佐介さんも、脇腹…」
「ああ、まだ痛むが、以前よりはだいぶ良い、湿布の匂いがしなくなっただけ、マシだな」
湯の中でお互い身じろぎすると、わずかに薬草が擦れる音がした。
静かだが、心地良い音だった。
「…こうして、お湯に浸かるの、久しぶりです」
「そうだな、このところ、風呂どころではなかったからな」
わかばが小さく微笑む。
「こういう時間も、大事ですよ」
…薄く色の抜けた銀の髪が肩で濡れてまとまり、湯気の中で瞳が穏やかに潤んでいる。
普段よりも、どこか幼く、そして静かに見えた。
風呂場の天井に、湯気がふわりと上っていく。
傷も、心も、少しずつ癒えていくような、そんな時間だった。
湯に浸かって、どれほど経っただろうか。
傷口に染みるが薬草の香りとじんわり温まった湯のせいで、身体が芯からほぐれていくのを感じていた。
沈黙がしばし続いたあと、また――わかばの視線が、私の肩から胸元、腰のあたりをゆっくりと辿っていくのがわかった。
そして、ぽつりと呟く。
「…まだ成長しそうですね、佐介さん…羨ましいです」
「そうか?」
「はい…ウエストも細いのに、胸はちゃんとあって…なんか、こう…均整が取れてるっていうか、綺麗です」
「…妙な観察眼だな」
「だって、気になるじゃないですか。同じ女の子ですし」
わかばはぷくっと頬を膨らませて、ちょっとだけ拗ねたように言う。
「私なんか、胸も無いし…佐介さんは、男の子みたいな口調でも、ちゃんと見た目も女の子らしいんですもん、服装によっては美少年に見えますけどね」
「わかばも無くはないだろう…見た目も私よりは女らしい女らしさがあるから良いだろう、何が不満だ」
私はそう言いながらも、わかばの視線が妙にくすぐったくて、そっと湯に肩を沈める。
「戦うには、華奢な体は不利だ、力も持たぬ、速度も劣る…なら、せめてこの体くらいは、使えるように、考えたのだ」
「…強いなあ、やっぱり」
「…弱くなれないだけだ、そう育ったからな」
そう答える私を、わかばは不思議そうな表情で見つめたあと、小さく微笑んだ。
「…なんだ?」
「いえ…佐介さんのそういうところ、私、けっこう好きですよ」
「…そうか」
湯の音だけが、ぽこぽこと響いていた。
「…そういえば、佐介さんって、昔から今みたいな感じだったんですか?」
湯に浸かりながら、わかばがふと問いかけてくる。
「…いや幼い頃は、今とは全く違った」
「へえ…どんな?」
「年相応だ、女の子らしい、子どもだった」
「へ?」
わかばが、心底意外そうな顔をする。
「口調も柔らかかった、花や裁縫、料理を好んでいたし、人と争うことは苦手だった」
「えっ…それ、想像できないです」
「…私自身も、もうあの頃の自分を思い出すのが難しい…だが間違いなく、あれが私だった」
わかばは湯の中でじっと私を見つめていた。
何かを確かめるように、穏やかな目で。
「…父や同郷の閏間様に稽古をつけてもらったのが、10歳の頃、私には幼馴染がいた、立派な侍になるのが夢の、佐介という名前の、な」
「じゃあ、佐介って……」
「彼は病没した、私は彼の意志を継ぐために本当の名を捨て、侍を志した」
わかばが少しだけ口をつぐむ。
湯けむりの向こう、ほんのり紅潮したその顔が、真剣な色に染まる。
「…本名とか、聞いても良いですか?」
しばらく、湯の音だけがぽこぽこと響いた。
そして、私は静かに口を開く。
「…特別だ」
わずかに目を伏せて言った。
「蕾だ」
「…つぼみ…」
わかばはその名を、そっと心に置くように繰り返す。
「…なんか、綺麗な名前ですね、静かで、柔らかくて…佐介さんの本当の部分を、少し見た気がします」
「…忘れろ、その名は捨てた」
「やだ」
ぴしゃりと言い切ったわかばに、私は苦笑を漏らすしかなかった。
『佐介…嫌!嫌だよ、だって私を奥さんにしてくれるって…侍になるって言ってたでしょ…?』
『ごめん…蕾…』
佐介が生きていたらどうだっただろう…
いや、考えるのはよそう。
失ったものは、戻らない。