夜風に誘われて
私は窓際に腰を下ろし、まだ冷めきっていない茶に口をつける。
その視線は、布団の中で寝息を立てるわかばに向けられていた。
(…ようやく眠ったか)
わかばの肩まで伸びた銀髪が、月明かりに照らされてほのかに輝いていた。
顔立ちは幼い。けれど、戦いの最中は…。
あれを思えば、彼女もまた戦いの中で生きてきた者だとわかる。
わかばの寝顔にそっと目を落とす。
わかばは姉を失い、私は故郷と家族を…。
(……あの時、誰かが生きていたなら…)
そんな未練を持つことさえ、捨てたと思っていた。
夜風に誘われて、私は人気のない裏庭へ出ていた。
月明かりに照らされた東屋には、誰かが先に座っていた。気配を消しているが、無警戒ではない。
「…君か」
「副団長」
ヒュウガは胡坐をかいて腰かけていた。足元には冷めた茶と、書簡が二通。
「夜風に当たっていた、眠れなくてな」
「…同じく」
私は隣ではなく、少し離れた石段に腰を下ろす。しばらく言葉はなかった。
ヒュウガが小さく息を吐く。
「わかばは、眠ってるか?」
「ええ、ぐっすりと」
「そうか」
風が、静かに草葉を揺らす。
「…君は、あの子をどう思ってる?」
唐突な問いだった。私は一拍置いて、答える。
「第一印象は、頼りなさそうな子だった、声も少し震えていた…正直、共に任務をするのには心許ない」
ヒュウガは黙って耳を傾けている。
「だが戦いの場では、恐怖をごまかす術を知っている、腕は立つ、瞬時に判断できる目もある、それでいて、私のことを気遣う余裕すらあった」
「…それだけの信頼を、もう築いてるんだな」
「…信頼というより…」
私はほんの少し言葉を探す。
「…何かを背負って、それでも前に進もうとしている人間に、私は弱いだけかもしれない」
ヒュウガが微笑む気配を見せる。
「…らしいな、まるで、自分を見ているみたいだと?」
「かもしれん」
風の音がまた、緩やかに吹き抜けた。
「わかばは君の姿を見て、何を感じてるんだろうな」
「…私に、姉を重ねているようだ」
「…それは、君にとって重荷か?」
「いや、悪くない、感情だ」
ヒュウガは頷き、立ち上がる。
「夜は冷える、長居するものじゃない」
「副団長こそ」
「私は、少し歩いてから戻る、それと…
アーク、いや、フォルテは俺の同期だった…今までに斃れた兵士は数知れず、だが今回は…私なら情が移って倒しきれなんだと思う…」
「……」
「…君達は本当によくやった、体を大事にな」
ヒュウガが去った後、私は東屋にしばらく残った。
風が、月下の草を撫でていく。
部屋に戻ると、わかばが衣装棚を漁っていた。
小柄な背を少し伸ばし、布の束を引っ張り出している。布の下から下着がのぞき、急いで手で隠す。
「…起きたのか?」
「どこ行ってたんですか? もう! 探しましたよ〜」
むくれた表情で、わかばが睨んでくる。肩までの銀髪がふわりと跳ねた。
「少し、夜風に当たってきた…何をしているんだ?」
「お風呂ですっ!長いこと入れてませんでしたからね…薬草風呂、佐介さんも一緒に入るんですよ?」
「私も…?」
思わず聞き返す。
「え、だって、まだ痛いでしょう?それに傷の治りには薬草の温浴が一番って、医務兵さんも言ってましたし」
「いや、そうだが…」
「個浴じゃなくて、大浴場の方ですけど、今は時間を区切って交代制なので……安心してください、誰もいません、だから、さ、行きましょ!」
わかばは小さな袋を抱え、入り口の方へとスタスタ歩いていく。
私が返答に迷っていると、扉の前で振り返り、少し頬を染めながら言った。
「…嫌じゃなければ、ですけど」
私は小さく息を吐く。
「わかった…行こう」
「ふふっ、はいっ!」
嬉しそうな笑顔とともに、わかばが扉を開ける。
冷えた廊下を二人、並んで歩いていく。
次に向かうのは――薬草の湯が待つ、寮舎の風呂場だ。
確かに初日に入った薬草風呂、肩の傷の治癒力が恐ろしいほどの速さだった。
今までは湯治などの類は眉唾物だったが、実証済みということか…。
「着替えを忘れた」
「佐介さんの分は、私が持ってます!新しい和装が支給されましたからね」
わかばから袋を手渡される。
「黒い和装、似合ってましたよ、またその姿が見れるんですね」
十両以下は軍服以外の着用が許されない、だが今は十両の待遇が適応される。
しばらく窮屈な思いをしていたが、これで解放される。
「…十両待遇とは、他に何あるのか?」
「幕下以上だと軍服の色を自由に、上に羽織るコートが許されます、十両だと軍服もコートのデザインも自由です」
「コート…?」
「コートというのはこう、長めの防寒着で…」
「陣羽織みたいなものか?」
「ジンバオリ…?」
わかばの何を言っているのだ、という表情に私は返す言葉がなかった。