旦那様には最愛の人がいるようなので、傍若無人な侯爵夫人を目指します!
「悪いが、あなたを抱くつもりはない」
そう言って旦那様は、すぐに踵を返した。
初夜を迎えるはずの夫婦の寝室で、決して言うべき言葉ではない。
けれど私は、無感情にその言葉を受け止めた。
泣くか、怒るか、必死に縋るか。
そのどれかをするのが普通だろう。
実際、過去三回の私は、そうしてきた。
しかし四回目ともなれば、もう何の感情も湧かない。
私の想いは、もうすっかりなくなってしまったのだから。
「絶対、離婚するわ」
ぱたりと閉まる扉を見つめて、そう呟く。
一人きりの部屋で、私は密かに決意した。
**
私の名前はユリア・バーリー。
この王国の伯爵令嬢だ。けれど今日、ユリア・ケールになった。
レオナルド・ケール侯爵と結婚し、侯爵夫人となったのだ。
彼と結婚するのは、これで四回目。
何故だか分からないが、結婚して三年目の夏、必ず初夜に回帰している。
最初は、旦那様を心から愛していた。
先代の領地運営の失敗で勢力の衰えてしまったケール侯爵家と、事業の成功で数代前から有力貴族となっているバーリー伯爵家では、正直結婚のメリットは伯爵家側にはない。
それでも私が嫁ぐことになったのは、夜会で一目惚れして以来、ずっと旦那様を恋い慕ってきたからだ。
経済的支援を期待してか届いた求婚状に私は飛び付き、父を必死で説得した。
彼と一緒になれればそれだけで良かったし、きっといつか愛は伝わるだろうと思っていた。
しかし。
それは大きな間違いだったと、過去三回の回帰で嫌というほど思い知った。
旦那様には、最愛の人がいる。
前ケール侯爵夫人のアンジェリカ様だ。
前ケール侯爵は、旦那様のお兄様であるライオネル様。
私と旦那様が結婚する二年前、ライオネル様は乗馬中の事故で命を落とし、旦那様が爵位を継いだのだ。
アンジェリカ様は、ライオネル様の奥様だった。
つまり旦那様にとっては義理の姉にあたる。
アンジェリカ様が侯爵家に居ることは、結婚する前から知っていた。
元々体が弱かったアンジェリカ様は、ライオネル様の死で気力を失い、一日のほとんどをベッドの上で過ごしている。
旦那様はそんなアンジェリカ様を哀れみ、屋敷に置いているのだ。
最初は、それを旦那様の優しさだと考えていた。
阿呆らしい。とんだ世間知らずだ。
旦那様のその行動が普通でないことくらい、少し考えれば分かるものを。
普通、自分が当主となり妻を娶るなら、前侯爵夫人は別の屋敷に送るのが普通だろう。
いくら力を失ったといっても、歴史ある侯爵家だ。
領地と王都のものを合わせて、三つは屋敷があるはずなのに。
移動が体によくないからと、アンジェリカ様を別の屋敷に送ることもなく、自分もほとんど領地に帰らない。
それは優しさなどではなく、執着だ。
初夜に早々と部屋を出て行った旦那様は、その足でアンジェリカ様の元に向かった。
翌日、執事のペリラスに聞いたのだ。
ちょうど結婚式の後、アンジェリカ様の体調が悪くなったからだそうだ。
ならば仕方ないと、喉につかえる違和感を、過去の私は呑み込んだ。
結局、それから三年経っても、私がアンジェリカ様より優先されることなど、ただの一度もないとは知らずに。
一人夫婦の寝室に横たわり、これからどうしたものかと考えを巡らせる。
もし結婚前に回帰出来ていれば、何としてでも結婚をやめたのに。
既に結婚後の今となっては、どうしようもない。
この国で貴族が離婚をするのは、容易ではない。
特に女性側から離婚を切り出すのは、まず不可能だ。
旦那様の方から、離婚を切り出してもらう他ない。
バーリー家からの支援を切ることも、持参金を返すこともしたくないからだろうが、過去には一度も離婚を切り出されたことはない。
だがもしも、私が傍若無人な態度を取ったらどうだろう。
こんな嫁は願い下げだと、バーリー家からの経済的支援を棒に振ってもかまわないから離れたいと思えるほど、迷惑をかけたら。
過去の私は、必死に侯爵夫人としての務めを果たそうとした。
そうすればいつか、旦那様が私を見てくれるのだと信じて。
けれど、もうそんなことは期待しない。
絶対に、離婚を切り出させてやる。
取り急ぎ、やるべきことは、明日。
旦那様と共に食事をした回数は、あまり多くない。
しかし初夜の翌日の朝食は、過去三回とも一緒に食事をしたはずだ。
かつては旦那様を振り向かせようと必死に機嫌を取ったものだが、今回は決してそんなことはしない。
もうこんな結婚など続けたくないと思えるように、私の傍若無人さを見せつけてやる。
そう固く決意をして、広いベッドに一人、満足して眠りについたのだった。
**
翌朝。
私は悩んでいた。
傍若無人に振る舞うには、一体何をすればいいのか。
まず最初に考えたのは、「食堂に行かない」ということ。
せっかくの誘いを無下に断れば、きっと旦那様は腹を立てるに違いない。
けれど、それでは私が昨日の旦那様の態度に傷心しているか、いじけていると思われるかもしれない。
それは癪だ。
次に考えたのは、「朝食に手を付けない」ということ。
バーリー家の食事と比べて貧相でとても食べる気にならないと言えば、旦那様のプライドは酷く傷付くだろう。
けれど、この選択肢は絶対にありえない。
何故ならケール侯爵家の食事は驚くほど美味しいからだ。
それに、コックのマルベリーはとても良い人だ。
というより、ケール侯爵家の使用人たちはみな良い人なのだ。
旦那様から蔑ろにされている私にも、とても親切にしてくれていた。
普通なら、家の主人に愛されない夫人など、使用人から粗末に扱われるものだろうに。
彼らが居なければ、このケール侯爵家で三年も、それも三回も過ごすことは出来なかっただろう。
そんな使用人たちを、マルベリーを貶すようなことは、私には出来ない。
結果、私が実行することにしたのは、これだ。
「……そんなに腹が減っていたのか?」
「元々よく食べる方なのでふ。ケール家の料理は絶品でふね」
名付けて「行儀が悪すぎて侯爵夫人に相応しくないぞ作戦」!
口いっぱいに料理を詰め込み、すごい速さで料理を平らげていく。
まさしく、淑女にあるまじき行いだ。
壁際に控えているマルベリーなど、ハンカチを握りしめて目を潤ませている。
まさか自分の作った料理が、こんな風に食い散らかされるなんて思いもよらなかったに違いない。
ごめんなさいマルベリー。本当はもっとちゃんと味わいたいのよ!
でも許して!
不味そうと言うよりは、美味しくて止まらないと言った方が、あなたの名誉は守られるはずよ!
「……これも食べるか?」
「それは旦那様のものでひょう! せっかくの料理なんでふもっと食べないといけませんよ!」
まだ食べ足りないだろうと思ったのか、おずおずと自分の料理を差し出す旦那様をぴしゃりと叱りつける。
今のはかなり良かった。
旦那様のプライドを傷付けることが出来ただろう。
「そ、そうか……っ」
旦那様がふいに顔を手で覆って、肩を振るわせている。
私への怒りを必死に抑えているようだ。
かなり上手くいっている。
そうだ。
ここでもう一つ、ジャブを決めておこう。
「そう言えば、昨晩はアンジェリカ様のご加減は大丈夫でひたか?」
ごくんとベーコンを飲み込んでから、余裕な表情でそう告げる。
「初夜に花嫁を放置してどこに行ったのか知っているぞ」という意思表示だ。
案の定、旦那様は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
こんな旦那様の表情を見るのは初めてだ。
「何のことだ。昨日は義姉さんの所には行っていないぞ」
なんと。
初夜にあんな言葉を投げ付ける旦那様にも、それなりの罪の意識というものがあるのだろうか。
私のことなど廊下の埃程度にしか思っていないだろうから、すぐに認めると思ったのだけれど。
「そうなのですか? てっきりアンジェリカ様の所に行かれたのかと」
出来るだけ、感情を乗せずにさらりと言う。
過去三回の私であれば、こんな風には言えなかっただろう。
でももう、今の私には旦那様への想いはこれっぽっちもない。
いつまでも旦那様を恋慕っていると思われるのは、私の矜持に関わることだ。
旦那様はぱちぱちと目を瞬き、首を傾げている。
思っていた反応と違う。
てっきり嘘を言い募って誤魔化すか、だったら何だと突き放すかだと思ったのに。
それではまるで、本当に心当たりがないかのようではないか。
「結婚式の準備で仕事が溜まっているから、昨日はそれを処理していただけだ。それに、義姉さんの所に行く理由がない」
「そう……ですか」
旦那様がこんなに嘘が上手いとは思わなかった。
過去三回、必ず旦那様はアンジェリカ様の所に行っていたのだ。
今回は違うなんてことは、ないはずなのに。
「随分と元気そうだ。今日は執事のペリラスに屋敷を案内させよう」
そう言うと、旦那様はナプキンで口元を拭いて立ち上がる。
心持ち楽し気な様子だ。
「まだ食べ足りないようなら、ゆっくりしていくといい。ではまた夕食に」
今、なんて?
もしや、「また夕食に」と言ったのか。
これまでの三回の人生で、初夜の翌日、夕食に誘われたことは一度もない。
一体なぜ?
困惑を隠しきれない私を残し、旦那様は颯爽と食堂を去っていった。
**
食事を終え、私はうーんと唸っていた。
お腹がはち切れそうだからではない。
過去の三回と、どうにも流れが違うのだ。
なぜ旦那様は急に夕食に誘ってきたのだろう。
私の行儀の悪さに、二度と食事を共にしたくないと思うはずではないか。
いくら頭を捻ってみても、さっぱり理由に思い至らない。
食後の紅茶を飲みながら唸っていると、執事のペリラスが食堂にやってきた。
「レオナルド様より屋敷の案内を仰せつかりました。もし奥様がよろしければ、ご案内してもよろしいでしょうか」
既に通算九年間を過ごした屋敷だ。
案内も何も必要ないが、私が屋敷の構造を理解していてはおかしい。
そしてペリラスは過去三回とも私の力になってくれた人物だ。
今回も出来るだけ早く親しくなりたい。
それに、流石に満腹すぎて少し歩きたいところだ。
「ええ、頼むわ」
私は笑顔で答えた。
ペリラスはどちらかというと男らしい顔立ちだ。
涼やかで美しい旦那様と並ぶと、余計それが際立つ。
年齢は近いけれど、旦那様は銀髪で色白、ペリラスは黒髪で肌も浅黒い方だから、まるで真逆で面白い。
既によく知っている屋敷を案内してもらいながら、そんなことを思っていた。
「そしてあちらが……前侯爵夫人のアンジェリカ様が住まわれている別館です。奥様は、あまり近寄られないよう、ご注意ください」
屋敷の東側の廊下に差し掛かると、とても気まずそうな顔でペリラスは言った。
窓の外、彼の視線の先には、こぢんまりとした二階建ての建物があった。
過去も、旦那様は私に別館の立ち入りを禁じた。
二人の時間を邪魔されたくないか、私がアンジェリカ様に何かするのではと思っているのだろう。
しかしペリラスがそう言うのは、アンジェリカ様の元に通う旦那様の姿を見せないようにという、配慮もあるのだろう。
二回目の人生の時、わざと一人で別館に赴いたことがある。
その時に見てしまったのだ。
見たことのないような笑顔でアンジェリカ様に寄り添う旦那様を。
二人は別館の二階にあるテラスに出ていた。
椅子に座るアンジェリカ様の肩に、旦那様は優しくそっとショールを掛けていた。
二人の顔が、酷く近かったことを覚えている。
美しい旦那様と儚げなアンジェリカ様が並ぶと、まるで絵画のような美しさだった。
私は思わず逃げ出した。
それ以来、別館には近づいていない。
またあの二人が一緒に居るところを見るのが嫌だったのだ。
私にはついぞ見せたことのないあの笑顔を、旦那様がアンジェリカ様に向けているところを見るのが怖かった。
実を言えば、旦那様とアンジェリカ様が一緒に居るところは、その一度しか見たことがない。
けれどアンジェリカ様には、何度かお会いしている。
過去三回とも、私が回帰する前日。
アンジェリカ様は無理を押してまで私に会いに来て、こう言うのだ。
「私のレオを取らないで」と。
初めてその言葉を聞いた時、やっと私は理解した。
このケール侯爵家で、私は邪魔者でしかないのだと。
けれど。
「なんで私が遠慮しなければいけないの?」
私は侯爵夫人。この家の女主人だ。
その私が、何故遠慮しなければならないのか。
「それにアンジェリカ様は体調が良くないのでしょう? 私が気にかけてさし上げないといけないのではないかしら」
「ですが……アンジェリカ様のことは、レオナルド様が気にかけていらっしゃいます。奥様の手を煩わせる必要は」
「つまり、私は手を出すなということ?」
これまで、はっきりとそう言われたことはない。
常に言外にそう匂わされていて、私がそれを察していただけのこと。
でも今回は、察してなどしてやらない。
はっきりさせた上で、それに否を突き付けてやる。
「いえ、そういう訳では……。ですが……その、レオナルド様はよくこちらの別館にいらしています。それこそ、昨日も……」
ペリラスがしまったという顔で口ごもる。
つい口を滑らしてしまったようだ。
「なんだ。やっぱり昨日もアンジェリカ様の元に行かれていたのね。朝食の時には否定していらしたのに」
やはり過去と同じだったのだ。
少しばかり、今回は違ったのかと思ってしまった。
そんなはずないのに。
「レオナルド様に、尋ねられたのですか?」
一人納得していると、ペリラスが驚いたようにそう言った。
どういう訳か、動揺しているような声だった。
「ええ。あなたが来る前に」
「そ、そうですか。レオナルド様が否定されたのなら、私の勘違いだったかもしれません」
一瞬焦っているようにも見えたけれど、ペリラスはすぐに笑顔になった。
既に旦那様が否定して誤魔化したことを暴露してしまったことで、焦ったのだろう。
いくらペリラスが私に良くしてくれたとしても、結局旦那様の味方には違いない。
これは、私の方から先制攻撃を仕掛けた方がいいかもしれない。
「そうだ。いいことを思いついた」
「奥様、どうなさいましたか?」
「いいえ、なんでもないの。独り言よ」
見てなさい旦那様。
絶対に離婚すると言わせてやるんだから!
**
「来てやったわ! 勝手に!」
それから数週間後、私は単身、別館に訪れていた。
侍女にもペリラスにも言わずに来たから、完全に不意を突けるはずだ。
私はずっと、このタイミングを窺っていた。
今日、旦那様が別館に行くことは把握済みである。
ペリラスが別館を管理する侍女と話しているのをたまたま聞いたのだ。
旦那様の言いつけを破るだけでなく、二人の甘い時間を邪魔すれとなれば、きっと私のことが嫌になるに違いない。
「たのもーー!!」
以前東洋の書物で見た道場破りよろしく、私は別館の入り口の扉を開いた。
しかし勢いだけで入ってきたものの、別館の間取りが分からない。
何せこれまでの通算九年間、一度も別館に足を踏み入れたことがないのだ。
ただ、アンジェリカ様の部屋の位置は予想できる。
旦那様と一緒に居るところを目撃したあのテラスがある場所だ。
おおよその当たりをつけ、ずんずんと進む。
途中、すれ違う使用人たちがみな一様に驚き、必死に止めに入る。
けれど力づくで追い出すことは出来ないのか、ただ困惑しながらぞろぞろと私に付いてくることになってしまった。
内心申し訳ないと思いつつ、ここまで来たらもう、後には引けない。
「いけません奥様! この部屋には入ってはなりません!」
「そう、じゃあここにアンジェリカ様が居るのね」
とある部屋の前に差し掛かった時、アンジェリカ様の侍女が私の前に立ちはだかった。
助かった。アンジェリカ様を守るつもりが、答えを教えてくれたようだ。
「悪いけれど、そこをどいてくれる?」
「旦那様から奥様を通してはならないと仰せつかっています。いけません!」
「いったい何の騒ぎだ?」
かちゃりと侍女の後ろの扉が開く。
中から旦那様が顔を出し、私を見て目を丸くした。
「ユリア!」
「私どうしても納得がいきません! アンジェリカ様に会わせてください!」
私は旦那様をキッと睨みつけた。
我が強い女に見えているだろうか。
本当にアンジェリカ様を傷つけようとしているように見えるかもしれない。
それでいい。それが目的だ。
それに、もう一度、旦那様とアンジェリカ様が一緒に居るところを見たいという気持ちもあった。
ずっと旦那様を恋い慕ってきた、自分へのけじめとでも言おうか。
旦那様が真に愛する人はアンジェリカ様であると、しっかりと確認したかった。
「ユリア、どうして……」
「レオ? 誰か来たの?」
まるで小鳥の囀りのような、美しい声。
間違いない、アンジェリカ様だ。
虚を突かれたようにぽかんとしている旦那様の脇をするりと抜けて、私は部屋の中に足を踏み入れた。
「お初にお目にかかります。先日旦那様……レオナルド様に嫁いで参りましたユリアと申します。前侯爵夫人のアンジェリカ様に、ご挨拶に上がりました」
流れるような動作で、精一杯の虚勢を張ったカーテシーを披露する。
侯爵夫人としての矜持だ。
アンジェリカ様はベッドに入ったまま、上半身を起こしていた。
「前侯爵夫人……? 何を言っているの? 私は今でも侯爵夫人だわ」
嫌味などではない。
当然のことだと言うような、そんな口調だった。
がんと頭を殴られたような衝撃を覚える。
今でもこの家の女主人は自分だと、そう思っていたのか。
「ねえレオ、この方何を言ってるの? この方はレニーの奥様になったのでしょう?」
「……義姉さん。お願いだ。もう受け入れてくれ。私はレオナルドだよ」
アンジェリカ様の手を取って、旦那様は諭すように言った。
酷く、辛そうな顔をしながら。
これは、一体どういうことか。
二人の言葉が理解できず、茫然とする。
すると、遠くから誰かが走ってくる音が聞こえてきた。
「奥様! 勝手に中に入られたら困ります!」
ペリラスが大慌てで部屋の中に飛び込んでくる。
それにしても、いささか焦り過ぎではないだろうか。
「いいんだペリラス。もういい」
「旦那様! しかし!」
「ユリア、すまない。義姉さんはある問題を抱えているんだ。結婚前に明かさずに、申し訳ないことをした」
必死のペリラスの言葉を制して、旦那様はそう告げた。
まるで罪を告白するように。
「問題、ですか? お体が弱いということではなく?」
「ああ。確かに義姉さんは体が弱い。だがそれ以上に、心に問題を抱えているんだ。義姉さんは、私のことを兄さんだと思っている。義姉さんの時間は、兄さんが死ぬ前の時点で止まっているんだ」
あまりの衝撃に、私は言葉を失った。
アンジェリカ様は旦那様のことを「レオ」と呼んでいた。
当然、レオナルドという名前の愛称だと思っていたけれど、旦那様のお兄様の名はライオネル。
ライオネルの愛称も、レオだ。
じゃあ、あの言葉は——。
かつて聞いた、アンジェリカ様の「私のレオを取らないで」という言葉。
あれは、旦那様を、ライオネル様だと思っての言葉だったのか。
「だから初夜に」
「レオ、なんでその女とばかり話してるの……? 私を無視して……! ねえ!! なんで私を無視するのよ!!」
旦那様の言葉を遮り、急にアンジェリカ様が激昂する。
と思うと、布団を跳ね除けるようにしてベッドから飛び出し、あっという間に私の目の前に迫った。
「私のレオよ! 近寄らないで!!」
「やめるんだ義姉さん」
アンジェリカ様が私に掴みかかろうとした、瞬間。
旦那様が、私の前に立ちはだかった。
「彼女は私の妻だ。傷つけることは許さない」
「あなたの妻は私よ!!」
「いいや違う。兄さんが死んで、もう二年も経った。医者も言っていただろう。義姉さんはただ、その事実を受け入れられないだけだ。本当は分かってるんだろう」
アンジェリカ様の肩を掴み、旦那様が優しく諭す。
そこには、懇願する気配も漂っていて。
旦那様がこれまで、相当に苦労してきたことが窺えた。
私は頭を鈍器で殴られたような衝撃で、ただ立ち尽くすしかなかった。
これまでの三回の人生で、ずっと信じてきたこと。
それが全て勘違いだったのだと知り、足元が崩れ去るような感覚を覚えた。
旦那様の気持ちは分からない。
けれど少なくとも、二人の関係は、私が思っていたものとは全く異なるものだったのだ。
「……レオナルド様。おやめください。アンジェリカ様に、これ以上負担をかけてはいけません」
しばしの沈黙を破り、そう口にしたのは、ペリラスだった。
「アンジェリカ様は十分に苦しまれました。良いではないですか。それで幸せに過ごせるなら。レオナルド様はアンジェリカ様にもっと寄り添われるべきです。そもそもこの結婚自体、あり得ない。金の為に結んだ婚姻など、このケール侯爵家には相応しくありません」
ふつふつと、内に秘めた怒りを吐き出すような、その声。
明らかに、私という存在を疎んでいる。
この結婚に、彼は反対だったのだ。
「ペリラス! お前はなんということを!」
「だってそうでしょう! 金に物を言わせてこの家に入り込んで、アンジェリカ様の安寧を脅かすなど!」
「やめろ!! ユリアは私が選んだ女性だぞ!」
「こんな毒婦はすぐに排除すべきです!」
「やめないか! 今すぐこいつを連れていけ!」
徐々に声を荒げるペリラスに旦那様も激昂し、そう命じた。
いつの間にそこに居たのか、侯爵家に仕える騎士たちが、すぐさまペリラスを掴み、その場を去っていった。
その間ずっと、ペリラスはアンジェリカ様を讃え、私を罵倒し続けていた。
「すまないユリア……」
アンジェリカ様を侍女に預け、私と旦那様は別室に向かった。
客間と思しき部屋で、向かい合いソファーに座ると、旦那様はぽつりと謝罪を口にした。
「義姉さんと会えば、あなたが傷付けられるかもしれないと思った。だから遠ざけたかったのだが……」
旦那様が別館への立ち入りを禁じた、本当の理由。
それは、私の為……?
「あなたにとっては、受け入れがたいことだろう。義姉のことだけでなく、ペリラスまで……。もしもこの結婚をやめたいというのなら、そう言ってくれ」
まるで罪人のように肩を落とす旦那様を、私はただ困惑しながら眺めていた。
「……何故、初夜であんなことをおっしゃったのですか」
「それは……まだ、あなたに義姉のことを打ち明けられていなかったからだ。それまでは子どもが出来るようなことは避けなければと思ったのだ」
そういう、ことだったのか。
あまりに不器用な人だ。
旦那様は口下手なのだと思う。
結局、過去三回とも、何も話してくれることはなかったのだから。
……いや。
もしかすると、それもペリラスの仕業だったのかもしれない。
私がこれまで旦那様とアンジェリカ様の仲を勘違いしていたのは、何故か。
全てペリラスが仕組んだことだったのだ。
お前などこの家の女主人ではないと、そう思い知らせるために。
初夜の晩、旦那様は別館には行っていないと言っていた。
きっとそれは本当なのだろう。
過去三回、そして今回も、ペリラスは嘘をついていたのだ。
思い返せば、二回目の人生で旦那様とアンジェリカ様をテラスで見かけたあの時も、ペリラスの言葉がきっかけで別館に向かったはずだ。
まるで口を滑らせたように、「昼頃ならレオナルド様は別館にいらっしゃいます」と私の前で言ったのだ。
だから私はあの日、別館に向かった。
そういえば、別館から出ることのないアンジェリカ様が私に会いに来るのもおかしかった。
きっとペリラスが手引きしたのだろう。
全て、ペリラスの掌の上で踊らされていたのだ。
「旦那様……私は離婚しません」
過去三回の人生で、旦那様への愛は、もう尽きた。
そう、思っていたけれど。
「私、それでも旦那様を愛しているようです」
結局、旦那様への愛が尽きたというのは、ただの虚勢だったのだろう。
全て勘違いだったと分かった途端、こんなにも気持ちが溢れてくるのだから。
「……私も、あなたのことを好ましく思っている」
少し逡巡して、けれどしっかりと私の瞳を見て、旦那様は言った。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
今、なんと?
「ほ、本当に……?」
「ああ。私は嘘はつかない」
確かに、旦那様は大事なことを言わないことはあっても、嘘をついたことはなかった。
だとしても、その可能性は、微塵も考えていなかった。
「元より、あなたを好ましく思ったから求婚状を送ったんだ。だからこそ、嫌われるのを恐れて義姉のことを告白することができなかった。私は不器用な男だ。またあなたを傷つけるかもしれない。こんな私だが……このまま夫婦で居てくれるだろうか?」
過去三回の人生を振り返れば、確かに傷つくことばかりだった。
それに、アンジェリカ様やペリラスのこと、まだまだ解決しなければいけないことはたくさんある。
それでも。
「はい。あなたと一緒なら」
こんな二人でも、信頼して手を取り合っていくことが出来れば——。
何故私が四回も人生を回帰したのか、結局理由は分からない。
けれど今回の人生は、きっともう繰り返さない。
そう確信していた。