宵越し分の稼ぎ
●商店街/ぎんぶち眼鏡店
「おや、いらっしゃい」
確か、と。記憶を模索する店主。客数は少ないが顔覚えがいいのが自慢である。ましてやその学生服は近隣の中学のもの。
そして、顔立ちに対して若干大きめな丸縁メガネ。ガンメタリック調の黒鉄のメタルフレーム。店主が目利きし、仕入れて販売している商品であった。
それが今は彼――生憎と、名前は年のせいで記憶が薄れてしまったが――の手元にある。見間違うわけもない。
「今日はどうしたんだい?」
と、柱時計を一瞥する。まだ授業中だろうに、という言葉は飲み込んでおく。
「……あの……ちょっと相談がありまして……」
学生服の彼、芽島卯月は、恐る恐る眼鏡屋の店主に近づいてくる。挙動や落ち着かない様子だが、おそらく緊張しているのだろう。
「これ……直りますか……?」
「どれどれ? 少々拝見するよ」
小さな卯月の顔から、細いメタルフレームが外される。テーブルに置かれた”邪眼殺し”(メガネ)を、手慣れた手つきで観察し始める店主。
フレーム、ネジ、鼻パッドを見つめ、レンズの裏表を照明の反射で確認する。
「これは、レンズの傷を直してほしいってことかい?」
「はい、そうです。片方のレンズに入っちゃって」
透明な左レンズ。この厚みだと度は入ってなさそうだ。
そこに、鋭利なものでひっかいた1本の縦線。そこまで表面を抉っているわけでもないからか、素人目でみればそれほど気に掛けることでもないほど。
「右は大丈夫そうだけど、左のこんな小さな傷が気になるのかい?」
「はい。すごく……その、視界に入って嫌なんです」
と、伏し目がちに答える。
「……ふむ」
本人が気になるとなれば、別にいいか。この状態ならそれほど大事ではないのだが。
と、店主自身、心の中でつぶやく。
「レンズの交換になるね。片眼でも、両眼でもお金かかるよ?」
「いくらですか……?」
「まぁ交換したいレンズによるけど、1番安くて1万円かな。あ、片方だけでね」
「両方変えると?」
「まぁ1万5千円かね」
レンズ代、片方1枚が5千円。交換する工賃も5千円。
つまり最低でも1万円だ、と内訳を説明する。
「今、手元がなくて……先払いですか?」
「後払いでもいいよ。途中キャンセルは承れないけれど」
わかりました、と頷く卯月。
終始、左目を瞑りながら歯を食いしばっている。具合でも悪いのだろうか。
「だったらお金おろしてきます。すぐ修理できますか?」
「できるよ」
修理というより、レンズ自体を入れ替えるので言葉が正しくないだが。取り留めて上げ足をとるところではないからいいだろう。
店主、近くのペン立てケースに指していたドライバーに手を伸ばす。左側のレンズを抑えていたリムロックのネジを緩める。
「うん、状態もいいしネジは外れたからレンズ交換できるよ」
ネジを緩めた瞬間、レンズとの隙間から手のひらに塵芥が落ちる。その中で薄っぺらい血のりカスが見受けられた。ネジを戻し、気にせず話を続ける。
「大事に使ってくれてありがとうね」
どんぶり計算で、卯月がこのメガネを購入して1年くらい経ったろうか。まだ真新しい学生服だったのはかつての記憶だ。
「本当にコレがないと生きていけないくらい大切ですから大事にしますよ」
と、一時的に突き返されたメタルフレームを顔の定位置に戻す。
「先にお金おろしてから、また来ます。そしたらすぐできますか?」
「そうさね、そのくらいだったらできるよ。同じ度なしでいいんならね」
「はい、問題ないです」
卯月は眼鏡屋を後にして、姿を消す。
店内で彼を待つこととなった店主は、また深く椅子に腰かける。
度付きで見えなくて困る、という理由なら理解できる。
だが、彼の持つメガネに度は入っていない。いわゆる度なし、伊達メガネだ。
学生服の少年は、それを急ぎで欲しいという。
お客になる人間の主訴を馬鹿にするわけではないが、店主の個人店ではあまりにも珍しい。
なぜなら度なしメガネなど、昨今どこにでも安く売っているからだ。
彼自身、おしゃれで伊達メガネをかけているとは思えないが。
いくら過去に購入した店でも、度なしレンズだけで1万円以上もするのは採算が合わないだろう。
「そういえば……あのフレーム買った時もひどく急いでたんだっけ……」
霞む記憶から、うっすらと思い出したそれ。
真っ青な顔して、汗だくで店主に相談してきたのだったか。
「……まぁこれで今度の飲み代が稼げるってものか……」
と、重たい腰を上げ奥の部屋に入る。そこには、レンズを削り加工する機材が鎮座していた。
そのコンセントを電源に指し、機材を起動する。
「……さて、もう一仕事しますかね」