見えない亀裂と見える傷
●自宅(夜)
「……ただいま……」
と、足取り重たく玄関に入っていく。
図らずとも声質も低く、気だるい様子。
なぜなら、この自宅に帰る瞬間こそ芽島卯月が1日で1番嫌な出来事だからだ。
ゆっくり扉を閉め、カギのロック音が鈍く響く。
言わずもがな。
あの地獄耳のことだ、もう卯月の気配に気づいていることだろう。
靴を脱ぎ揃え、玄関から2階の自室へ向かう。
どことなく”邪眼殺し(メガネ)”も重たく、その縁をくいっと上げる。
「………………」
途中、リビングへの入り口に差し掛かると、扉から声が発せられた。
「おかえりなさい。ご飯つくったから温めて食べなさい」
扉、もとい母の声。
くぐもっても凛とした、それ。
卯月、足を止める。だが、扉を開けてリビングへ入らず、背中を向けて答える。
「うん。ありがと」
「お母さん、夜勤だから戸締りはしっかりね」
「うん。いってらっしゃい」
何百回、いや何千回か。同じやり取り。
昔から礼儀や作法には厳しかったわりには、最近のこの体たらくさはなんだろうか。
『人の目を見て話せ』といっていた母親の姿を見たのは、いったい何日前だろうか。
声だけのやり取り。声だけの会話。
感情もない、礼儀もない、ただの母の声。
言葉はそれでも、決して母が子を思っての声に聞こえるものか。
1度、部屋にこもり母の外出を待つ。
そして、心ともに冷めた夕食を胃に流し込む。
温めるのも面倒くさい、味付けも薄く感じ調味料を足して満足感を得るだけ。
風呂に入り、宿題もほどほどに――いや、授業中に居眠りもしているからわからないところが多いが終わらせる。
適度にゲームや漫画で息抜きをして、日をまたいだあたりで就寝。
「――あ……」
と、部屋の照明を落とそうとした瞬間。電灯に走る、不自然な1本の亀裂。
空間に1本の細長い線が入っているような、それ。
メガネの左レンズに傷が入っていること、今さらながらに気が付いた。
「……傷だ……」
――しまった。先ほどの戦いで結構動いたから何かにぶつけたんだろう。
大事な”邪眼殺し(メガネ)”なのに、と独り言も漏らしながらパジャマの袖でレンズを撫でる。
「うん、やっぱり取れない」
傷の認知。この半透明な直線がとても憎い。
まさかと思うが、この傷だけで邪眼が制御不能になるのだろうか。
「……はぁ……とにかく寝よう」
時間はすでに深夜。
今夜どうこうできる問題でもない。まずは横になり、明日の朝考えるとしよう。
心なしが眼球の奥が鈍く痛む錯覚を感じながら、卯月の意識は薄れていった。