霞
集落を避けつつ夜の間に馬を駆った私達は、明け方近くに森の近くまで到達していた。必死に前を見ていても、襲ってくる眠気に船をこぎそうになる。
目の前には沈みゆく月のかすかな明かりに照らされて、真っ黒な森の輪郭がかすかに見える。広大な追憶の森の西側にあたる森だ。
この辺りは収穫が終わった耕地が広がっており、身を隠すところがないので東の空が白む前にあの森の近くまでたどり着かないといけない。
少しだけ白みをましつつある東の空の方に見える家々の影は静かで、特に変わりがあるようには見えない。この辺りの村は初期に入植された村々で、その家の作りはみな立派だ。
また結束が強く頑固な人たちが多い。そのため父も私も、この辺りの農家からの仕入れには苦労していた。どんなに豊作でも彼らは値を下げようとはしない(ほんと頑固者!)。
また毎年仕入れないと翌年は売ってくれなくなるので、豊作だからその年はそこから仕入れないという訳にもいかず、ご機嫌をとるのもやっかいな人達だった。
疲れと徹夜による眠気もあるが、森が近づくにつれて、全身がなんともいえない倦怠感のようなものにつつまれる。
森が近づいているということは、マナの濃度も濃くなっているはずで、私のようなマナ酔い体質の者にはそれが如実に分かる。まるで森から私の方に何かが流れ出て手を伸ばしてきているかのようだ。
実際、何かが背中をのぼり、頭のうしろから入ってこようとしているような嫌な感じがする。マナ酔いがおきる前の前兆だ。でも今日のそれは、いつもとは違うもっと嫌な感じがした。
おかしい、何かがおかしい……。
私は心の中で『出ていけ、私から出ていけ!』と必死に抵抗を試みたが、それは少しずつ私の中に入り、中から私を支配しようとする。一体これは何だろう。
よく見ると馬の足元をぼんやりと照らす角灯の灯の中に、黒いにぶい光を放つ靄とも液体とも分からない何かが、馬の脚を伝わって自分の体へと昇ってきているのが見えた。
慌ててあたりを見渡すと、それは前方に見える森から農道やあたりの耕地へと、まるで何本もの腕を広げるかの様に這い出て来ている。その腕からは別の腕が枝分かれして辺りをすべて覆いつくそうとしていた。
悲鳴をあげようとするが、まるでその黒く光る霞によって口が塞がれてしまったかの様に、声を絞り出すことができない。まとわりつく何かを必死に振りほどいて辺りを見渡す。
白蓮は、他のみんなはどうしているのだろう。振り返って、背後に続いているはずの白蓮を探した。
背後を歩む栗毛の額に流星のある馬。白蓮が駆っている馬だ。馬が胸元につけた角灯のぼんやりとした灯が、その足元にうごめく、にぶく黒く光る霞を照らしている。
馬の歩みにはまったく不審なところはない。だが馬の背には、誰も、誰も、乗ってはいない。その何もない空間の先に、その馬の後ろを進む、手綱を持つ世恋さんの姿が、黒い影となって浮かんでいる。
黒い霞は世恋さんの足元からその腰を背を伝わり、うなじへと登っていく。それはまるで世恋さんの体を嬲り犯そうとしているかのように見えた。
白蓮がいない!
私は息を飲んだ。助けを求めようと前を行く歌月さんの方を振り返った。その黒く光る靄は歌月さんの馬の後ろ脚を這いあがり、歌月さんの背中にもその縮れた手を伸ばそうとしている。
「百夜ちゃん!」
私はうごめく黒い手を口元から振り払い叫んだ。私の声に歌月さんの前に座っていた百夜ちゃんが、身をよじるとこちらを振り返った。
「どうした、赤娘?」
馬を這いあがった黒い霞が、百夜ちゃんの周りで何かにはじかれるかのように、その身に触れることができずに、百夜ちゃんの周りをのたうちまわっている。その先端は、まるで赤子の手がいくつもいくつも必死に何かに向って手を伸ばしているかのように見えた。
「何を恐れる?」
暗闇の中でも何故かはっきりと鮮血色をしていると分かる唇の端が上がり、にんまりとした表情でこちらを見た。そしていつもは充血した白目が微かに見えるだけの右目が、私に向けてゆっくりと開かれようとしている。
「どこにいるの白蓮!」
* * *
「ふーちゃん、ふーちゃん!」
誰かが私を呼ぶ声がする。その声に目を開けるとおさまりの悪い髪の影が、目の前にいる男が白蓮だと教えてくれた。
その背後でまもなく夜明で有る事を告げる、東からの風が頭上の木々の暗い影を揺らしている。その木の葉のゆれる音が自分が現実の世界にいると私に気づかせてくれた。
「歌月さんがひどいマナ酔いだって言っていた」
身を起こそうとするが、体が何かに引っ張られているように重い。あの黒い霞が体に張り付いているのではないかと慌てて手で体を払うが、体には何も付いてはいなかった。
「大丈夫? 随分うなされていて心配したよ。ふーちゃん!」
あれは、私が見たのは、全て夢だったのだろうか? 子供の頃、同じような黒いものに追いかけられる夢を何度も見たような気がする。もっとも悪夢というものは全てが同じで、何かに追いかけられる様なものなのだろうけど。
「ここは?」
「追憶の森の手前の林の中。ここでちょっとおなかに何か入れて、ふーちゃんの体調がよくなるまで休憩ってところかな?」
「他の人たちは?」
「百夜ちゃんはそこで寝ている。他の3人は周囲の偵察に行ったけど、多分すぐに戻ってくると思う」
枕代わりの背嚢から頭をあげて白蓮が指さした方を見ると、背嚢を枕に地面にうつ伏せに百夜ちゃんが寝ている。だが、ちょっと見には行き倒れの死体にしか見えない(寝てるんですよね?)。
「ふーちゃん、辛いときは、辛いって言ってくれていいんだよ」
枕元に置かれた覆いを落とした角灯のかすかな光に照らされた白蓮が、私にはめったに見せない真剣な表情で私をのぞき込んだ。
「そのために、僕や、皆はいるんだから」
なにこれ?
白蓮が白蓮じゃないみたいだ。それとも自分がいつもの自分じゃないのだろうか? 耳の後ろが熱くなる。
「気分が悪いなら早く言ってくれないと。馬から落ちそうになったふーちゃんを支えたら腕がつって大変だったよ。もしかして僕がいない間に少し太った?」
はい、さっきのは私の単なる勘違ですね。白蓮はいつもの白蓮だ。だけどその言葉に私は少しだけ、心と体が軽くなった気がした。