右目
私たちは存分に『風呂』を堪能した。
これは北の街のお金持ちが家に備えるわけだ。この私でも垢を水で落とした肌はつるつるで心なしか体も軽い。きっとこの数日間に私の腰回りに増えた肉も少しは落ちたのではないだろうか? 落ちていてほしい。
あたりがすでに暗くなっているなか、私たちは井戸から汲んだ冷たい水と、夕飯用の麺麭をもらって尋問室へと引き上げた。
戻る途中の道中でいくつかのか細い悲鳴が聞こえてきた。領主館の前の天幕に集められていた人達はいまはどうしているのだろう。自分だけがいつもの生活よりもはるかにましな贅沢をしていていいのだろうか?
ちょっと軽くなった体のうちに、鳩尾の辺りにマナとは違うなにか黒いもやのような罪悪感がうごめく。私はそれから逃れるように尋問室の扉をくぐった。
何故か世恋さんの顔色は、風呂に入る前より青白く見えた。もしかしたら体を水で冷やしすぎて、具合でも悪くなったんだろうか?
頬面をかぶった衛士は私たちを見ながら、なぜか首をかしげるようなよく分からない動きをしていた。歌月さんがそれを見て、すっと衛士の前に進み出ると、
「衛士様、今宵の警護もどうかよろしくお願いします」
と媚びを売るように語ると、その豊かな胸を衛士の腕に押し付けた。今のお世辞ですよね? まあ、確かに色々世話になっていますから、鎧の上から胸を押しつけられるぐらいの役得があってもいいのでしょうか?
衛士は何やらやたら考えるような仕草をしていたが、最後はいつものように扉をしめると、鎧の音を響かせて通路の向こうへと去っていった。
バタン!
後ろで椅子が倒れる音がした。見ると世恋さんが蒼白な顔をして、倒れた椅子によりかかっている。一体何が!?
そう思っていると、風呂から出て上機嫌の百夜ちゃんが、扉のとこから世恋さんの前まで軽く跳躍するとその顔を覗き込んだ。
「おもかろい妹。風呂はよかったがはしゃぎすぎたな」
「世恋です。百夜様」
世恋さんが、とても苦しげに百夜ちゃんに答えた。私は水差しを手にすると、世恋さんの元へ駆けつけた。
世恋さんの頭を起こして、今や紫色に見える世恋さんの唇に水差しからそっと水を注ぐ。多くの水が唇の外に漏れてしまったが、世恋さんは口に入ったわずかな水を何回かに分けて飲み込むと、小さくため息をついた。
「百夜ちゃん!」
私は助けを求めるように百夜ちゃんを見上げた。百夜の左目は、はじめて結社の裏手であったときのようにらんらんと輝いている。
彼女は世恋さんの胸元に手をいれると、彼女の手にあのマ石が握られていた。そしてそのマ石を明かり窓から届く月光に掲げると、
「赤い月が昇る。この石は使えない。そしてお前は空っぽだ」
と人ごとのように世恋さんに告げた。その声は低く明瞭で『風呂』で『よい、よい』とかはしゃいでいた百夜ちゃんの声とはまったく別の何かが語っているように聞こえる。
世恋さんが、私の腕の中で何かを言おうとしているが言葉にならない。
「何かしかけはあるとは思っていたけど……。この子も何かの英雄持ちということ?」
歌月さんが世恋さんを見て呟いた。私の腕の中で世恋さんの体が小刻みに震える。何で? 世恋さんは無敵じゃないの?
「百夜ちゃん!何とかならないの!お願い!世恋さんを助けてあげて!」
百夜ちゃんは私の言葉に答えることなく、無言で世恋さんを見つめている。そこには普段の少女らしさは全く感じられない。冷酷な目をした別の何かのようだ。
「風華、これは急性のマナ病だよ。マナを限界を超えて使った者や、急にものすごい濃度のマナの影響を受けた者がかかるやつだ。舌をかまないように、口に布か何かをつめて体を抑えて、少しでも温めてやるんだ。それ以外に私たちにしてやれることはない」
歌月さんはそういうと、部屋の隅に置いてあった自分の大外套をこちらに投げてよこした。
私も自分の着ていた短外套と上着を脱ぐと、世恋さんの体を包もうとした。だけどその体の震えはとても激しく強く、私の力などでは抑えることは出来ない。
歌月さんは、大外套の衣嚢から白い布を取り出すと素早く紐状にして世恋さんにかませた。そして私の手からも外套と上着を受け取ると、それでさらに体をくるんだ。
私は長椅子をいくつか集めた。世恋さんを床に横たえたままにはできない。歌月さんが床から世恋さんの体を長椅子の上に引っ張り上げた。
世恋さんの足が暴れる。私は少しでも歌月さんを手伝おうと、その足をつかんで長椅子の上へと運んだ。毎日荷車を押して歩いていたのが、少しは役に立ってくれたのかもしれない。
「百夜ちゃん!世恋さんを助けるのにそれは使えないの?」
私は百夜ちゃんが手にしたマ石を指さした。百夜ちゃんは何も答えない。
なんて私は馬鹿だったんだろう。初日から自分が贅沢三昧していたのは、すべて世恋さんが衛士たちにお願いしていたからだと思っていた。でも世間知らずで物をしらない私でもわかる。世恋さんが何かのマナの力で私たちを守ってくれていたんだ。
本当になんてなんて馬鹿なんだろう私は……。涙が頬を伝わって止まらない。でも今は泣いている場合ではない。このままだと世恋さんが死んでしまう。
なぜなら世恋さんの姿は、私の父の最後の時と同じだからだ。痙攣の止まらない父に、白蓮は森から取ってきたらしい植物で作った緑の液体をその口に垂らした。
なんでも強力な睡眠薬とか言っていたが、私にとってそれがどんな薬なのか毒なのかは分からないし、どうでもよかった。
苦しむ父の体の痙攣が止まり、その息が眠るように小さく、小さくなっていき、そして最後は安らかに母のもとへと旅立った。
でも父はその何年も前からそれが来ることを知っていたし、私にも話してくれた。でも私とそう年が違わない世恋さんに、こんな最後が来るなんて!
これは間違いなく私のせいだ。私が居なかったら、彼女はこんな無理をしなくても、きっとここからさっさと出ていけたんだ!
「助けてお願い!」
今度の私の声は叫び声というより泣き声に近かった。無力な私には誰かに『お願いする』以外は何もできない。いま頼れそうなのはマ石をもって現れた百夜ちゃんだけだ。
彼女は私の叫びに一瞬驚いたように体をびくっと震わせた。歌月さんは無言で震える世恋さんの体を必死に抑えようとしている。
外が騒がしい。私の叫び声に反応したのだろうか? 衛士達が何人か扉の外に来ていた。誰でもいい、助けを求められるなら……。私が外の衛士を呼ぼうとしたとき扉の外から聞こえてきたのは、これまでとは全く違う会話だった。
「おい、どうしていままでこんな上玉隠していたんだ」
「隠していたわけじゃないんだがな、顔を見ているだけで満足しちまっていた」
「何をもったいないことを……。それに町娘に色っぽい姉ちゃんもいるんだろ」
聞こえてくるのは、下種な話をする男達の声だ。
「おい、鍵はどこにいった?」
「お前が持っているんじゃないのか?」
「どこだ探せ」
床に転がっている鍵束。いつの間に?
「さっき、やつらの態度がおかしかったからね。衛士から頂戴しておいた。中からはあけられないけど時間稼ぎにはなる」
歌月さんが、世恋さんの体を必死に抑えながら私に告げた。
「この子には少し借りがある。ここで死なれちゃこまるんだ」
白蓮、なんでこんな時にここにいないの。助けて。世恋さんを助けて……。そうだ扉を開けよう。世恋さんの命が助かる可能性があるなら男達に何をされてもいい。靴をなめろというなら舐めてやる!
「歌月さん、鍵を外に投げます。それで……」
「おい、赤娘」
鍵を取ろうとした私の腕を黒ずんだ手がつかんだ。
「邪魔するな!」
私は彼女をにらみつけた。だがそれ以上言葉を続けられなかった。なんだろうこの違和感。真っ黒な『右目』が私を見ていた。
その真っ黒な瞳の無い目の中に、明かり窓からかすかな光をうける私の姿が映っている。彼女の反対の手には小さな果物用の小刀が握られていた。彼女は私をこの小刀で刺すつもりなのだろうか?
「刺すなら刺せ!」
「落ち着け赤娘。お前らしくない」
いつもの百夜ちゃんとはやはり違う落ち着いた低い声。なんだろう気のせいかちょっと懐かしさを感じる。
「お前は生きたいのか?」
百夜ちゃんらしきものが、世恋さんの顔を覗き込んだ。外では衛士たちが、力づくで入ろうと扉に体当たりする音が低く響いている。世恋さんは全身が震える中、その目をかすかに開けて百夜ちゃんを見た。よかったまだ意識はある。
「我を受け入れるのだな」
世恋さんが再び震える体で、必死に目を開けようとしていた。それを見た百夜ちゃんは小さく頷くと、
「赤娘、私の手を切ってこの娘に血をのませろ」
と告げて、私の手に小刀を押し付けた。えっ、血を飲ませる?
「あまり時間はないぞ。急げ」
私は小刀を受け取ると、百夜ちゃんの手のひらをなるべく薄く切ろうとした。でも震える手は思ったより深く傷をつけてしまった。
「ごめんなさい!」
私はそこから滴る血を自分の指に這わせると、世恋さんの口元に持って行って布の間から差し込んだ。もしこれでだめなら私が口で含んで飲ませてあげる。
世恋さんの体が大きくのけぞる。抑えていた歌月さんも弾き飛ばされそうになるが、彼女は必死に大外套で世恋さんの体を押さえつけた。
これって大丈夫? まさか父の時のように……。
一体何砂(秒)の時間がすぎたのだろうか? 世恋さんの体から急に力が抜けると、ぐったりと長椅子に上に横たわった。
「世恋さん!」
慌ててその顔を覗き込むと放心状態の世恋さんの目が動いて私を見た。良かった。本当に良かった。
「それをとってやれ。もう必要ない」
百夜ちゃんの指示に、歌月さんが口を押えていた布を外すと、世恋さんの顔に浮いた脂汗と口元の血をそっとぬぐった。
「もっとも外にいるやつらが入ってきたら、今度は殺してくれと言うかもしれないがな……」
百夜ちゃん(らしきもの?)が戸の方を向いて、ぼそりと呟いた。その鋼鉄の扉からは男達がぶつかる鈍い音が続いている。