逼塞
何かがひっくり返る音や争う音。それらは一体どれだけ続いたのだろう。誰かが落とし戸を開けようとする、引っ掻く音がする度に、私は体をびくびくとさせ続けた。
どこにも持ち手がない落とし戸を、誰も開けることは出来なかったらしい。気が付けば、私と白蓮のはく息以外は何も聞こえなくなっていた。取れるものは全部持って行ったと言うことだろう。
火を付けられたらどうしようかと恐れていたが、流石にそこまでする人はいなかったらしい。こちらも焼け死ぬだろうが、この通りも全て道連れだ。
父と暮らしていた頃の「三日月通り」は、裕福とは言えないが、気さくな人たちが暮らす街だった。思い返せば、父が健在だった頃から、色々な人が父に、早くここから離れたほうがいいと言っていたのを思い出す。
実際、父の体が利かなくなった頃から、多くの店が扉を閉め、行く当てのある人達からこの街を出て行った。でも残っていた人達だって、みんな子供の頃からの顔見知りだ。
だけど今、私の横に居てくれるのは、ある日突然現れた、自分の素性すらも知らない人。その人だけが私を守ろうとしている。
なぜだろう。泣きたいのに涙が出てこない。怒り、悲しみ、自分が感じるはずのものは、一体どこに消えてしまったのだろう……。
「ふーちゃん」
白蓮の声に我に返った。
「時間がない。金物屋の話が本当だとすれば、何も策なしには町からは脱出できそうにないね。それに街を出た後で、身を隠す場所も考えないといけないな。森に逃げ込むぐらいしか……」
私は首を横に振って、白蓮の言葉を遮った。
「それは無理。森に入った途端、マ者から確実に狙われるわよ。それどころか、皆がそれをやったら、マ者が森から溢れて、黒の帝国と同じ運命でしょう」
なぜ結社があるのか? なぜ彼らが森を管理しているのか? それはそこに「マ者」、人よりはるかに強く、恐ろしい存在が居るからだ。
彼の者たちは森の中で、マナを持たないものは無視して生きている。だが熊や鹿と違い、人はその体にマナを取り込んでしまう。そしてマナを取り込んだ人間は、彼らにとって極上の獲物なのだ。
極少数の人数であるならば、「マナ除け」と言う草を煎じた物を大量に使って、その目をごまかすことが出来る。だがそれも、せいぜい五人程度までと言われていた。それ以上の人間が一定の地域にいると、マ者は人間を確実に察知して、すべてのマ者が我先にと襲い掛かってくる。
それどころか、余りにたくさんの人が森に入ると、マ物はご馳走に目がくらむのか、森から溢れ出して、あたりの街や村を根こそぎ襲う。父はそれを「崩れ」と呼んでいた。一度それが起きてしまえば、人の力など無力だ。かの黒の帝国でさえも、最後はマ者の力に屈したのだ。
私達が夜に親から聞く怖い話、森に入ってはいけないという話は、決しておとぎ話などではない。この地に暮らす者の不文律だ。
その一方、「マナ」は人が生きていく上で、大事な道具でもあった。日常の火起こしなど、体に蓄積するマナを使うことで、人の肉体だけでは出来ないことを可能とする。
マナを上手に使える人は「マナ使い」と呼ばれた。その最たる仕事が冒険者で、少数の人数で森に入ってマ者を狩る。私の父のかつての仕事だ。
だがマ者を狩る以前に、「森」に入ること自体がとても危険なことであるため、「森」にはいる人間は必ず結社に属す。結社は「森」に入る冒険者の間で、いつ何をどれだけ狩るのかを調整した。
そしてここ復興領は、かつての黒の帝国が滅んだ時に広がった「追憶の森」を、百年以上かけて、少しづつ、少しづつ、切り開いてきた土地だ。故に私達のここでの生活は、森抜きに語ることなど出来なかった。
残念な事に、マナ使いの力は親から子には引き継がれない。父の説明によれば、人は生まれてからマナを取り込むからだそうだ。
そしてマナの力がどう発揮されるのかは、人によってかなり違う。なので十人力とか、風使いとか、マナ使いの呼び名には色々なものがあった。私はマナがほとんど使えないうえに、使うと酷いマナ酔いをする。
もっとも適性があっても、それはすぐに使えるというものでもないらしい。鍛冶屋がマナで火力を上げるのも、最初はできなくても、十年、二十年すると、うまく使えるようになるそうだ。
子供のころ、おとぎ話のマナ使いにあこがれて、真剣にマナ使いになるにはどうすればいいかを父に聞いた事がある。
「要は何も分っちゃいないのさ。あの黒の帝国だって、そうだったに違いない」
父は幼い私に色々と説明を試みたが、最後には答えになっていない答えを返してきた。それ以来、父にマナについて聞くのを止めた。マナ酔いがひどかったし、どう考えても、自分がマナ使いにはなれそうに無いことを悟ったからだ。
そんな昔の事に思いを馳せていた私の横で、何かを掻きむしる音が聞こえた。白蓮が灰色の髪を両手でかき乱している。
「ここに隠れていても、いずれは見つかるだけだしな。金で何とか出来ればいいのだけど……」
悩んでいる時の彼の癖だ。もっとも彼のおさまりの悪い髪は、それをやる前も、やった後も、大して変わりはしない。でもそんな彼のいつもの癖が、私の緊張と焦燥を少しはほぐしてくれた。
「日が昇ったら、すぐに結社に行こう。申し訳ないが、親父さんのもので、結社で金に換えられそうなものがあれば、そこで変えてもらうぐらいしか思いつかない」
「そうね。私が持っていても役に立たないし。それより父が防火用と言っていたおろし戸って、実は防犯用だったのね……」
私は自分たちを守ってくれた、樫の木でできた大きな板を見上げた。
「外側に把手はないし、内側から開けるのだって、重しを落とさないと開けられないから、変だとは思っていたのよね。 ちょっと待って……。これって、重しの紐が上げる時に切れたりしたらどうなるの?」
「閉じ込められるね。それに梁が折れたら生き埋めかな?」
私の質問に、白蓮は天井の梁を見上げると、躊躇なく答えた。こいつに何かを聞いた私が間違いだ。でも現実感がない、この正体不明男の間抜けな答えに、ちょっとだけ、いつもの自分が戻ってきている気がした。