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逃亡

「柚安君、そろそろ起きてくれないかな? 時間がないんだ」


 柚安は鼻先に、何やら強烈な匂いがするものがあるのに気がついた。


「げほっ、げほっ……」


 その強烈な匂いに、柚安は盛大にむせた。だがそのせいか、意識が次第にはっきりして周りが見えてくる。柚安の視線の先には白い顎髭を蓄えた遠見卿の顔があった。


「私は不眠症でね。どうも自分を基準に薬を入れたら、入れすぎてしまったらしい」


 遠見卿はそう告げると、柚安に向かって済まなそうな顔をして見せた。


「まだ生きているということでいいですかね?」


 柚安の言葉に遠見卿がくすりと笑って見せる。


「あの手の番犬は意外と素直だからね。私の意味のない肩書もちょっとだけ役に立つ。とは言っても、おそらく見張りはついているだろう」


「では服の交換を頼むよ」


 遠見卿が医事方の看護組の制服らしきものを着た男性に声をかけた。


「柚安君、悪いが君のその眼鏡もお借りするよ。それは女性の目を欺くための伊達眼鏡だろう?」


 遠見卿にはすべてばればれですね。眼から眼鏡をはずして看護組の男性に渡す。


「古典的な手だが、まだ君が寝ていると思われている間に彼と入れ替わって、ここを出て行き給え。君達はなるべく談笑するなりして自然に出て行くように頼むよ」


 遠見卿が看護組の制服を着た、4名ほどの男女に向かって声をかけた。


「了解です、遠見卿」


「遠見卿、ここを出ても私には行く当てが……」


「めんどくさい話だが君の実家の隊商は使えない。最初に疑われるからね。定期便の者に君を関門の外に運ぶように頼んである。悪いが、台車下の道具入れの中で我慢してもらうよ。その馬車は整備のために関門の業者に引き渡される。そこの主人までは話は通してあるが、私に出来るのはそこまでだ。そこから先は君の才覚次第というところだね」


「分かりました。お手数をおかけします」


 柚安は遠見卿に向かって頭を下げた。


「一応、金は持って行き給え。君はあまり苦労したことはないと思うが、結構大事なものだよ」


 遠見卿が柚安の手に金貨袋と小銭袋を押し付けた。それにはどこかの街の住人であることを証明する証明札も入っている。どうやら彼は誰かを逃がす準備をすでに整えていたらしい。いや、それを私以外の誰かに使うつもりだったのかもしれない。


「何から何までありがとうございます。この借りはいつか必ず返させていただきます」


「もしそれを返すつもりがあるのなら、どっちに転んでも事が終わったら城砦を訪ねて欲しい。それは私がここに居なくなってもだ。さっきも言った通り、君の能力が必要になるのはむしろこれからなんだよ」


「了解です、遠見卿」


「では、良き狩り手であらんことを!」


「遠見卿、私は事務官ですよ」


「たとえ君が事務官でも、私達の挨拶はこれしかない」


「はい、良き狩り手であらんことを!」


「そして森があなたを無事に返してくれることを!」


* * *


「気が付きましたか?」


 女性の声だ。ぼやけた視線の先には、なにやらすこしくすんだ白いものがある。目の焦点が合うに従って、それは布のようなものだというのが分かった。頭を動かすと後頭部に鈍い痛みがある。


 そうだ!


 実季さんは、実季さんはどこだ。痛む後頭部を抑えて起き上がると、自分は組み立て式の簡易寝台の上に寝ていて、隣の寝台には実季さんの寝顔があった。世恋さんの家で桃子さんに襲われて……そういえば、桃子さんは?


「まだ、混乱していると思いますよ」


 微かに聞き覚えがあるような気がする男性の声も響く。慌てて反対を見ると、組み立て式の卓の上で、中年の、だけど細身の女性と少し体つきのいい男性が向かい合ってお茶を飲んでいる。銀色の髪をした女性だ。柚衣さんが年をとったら、そうなるのではないかと思えるような感じの女性だった。


 足元は地面だ。これはどこかで見たような気がする。そうだ、関門で城砦に行く交渉をした時の天幕だ。


「痛たたた」


 無理に動かした頭がズキズキと痛む。


「無理に動かないほうがいいですよ。後頭部に大きなたんこぶが出来ていましたからね」


 男性は椅子から立ち上がると、私の元に水が入った木の器を持ってきてくれた。


「風華さんですね。初めまして、私は若芭(わかば)という者です。この男から頼まれて、あなたを保護した者です」


 女性が私に向かって声をかけてきた。保護? よく分からないけど、とりあえずはちゃんと挨拶をしないといけない。


「若芭さん、初めまして風華と申します」


 慌てて寝台から足だけでもおろして頭を下げた。やはり後頭部がズキズキと痛む。これは桃子さんにやられたものだろうか?


「ここは何処でしょうか?」


「私の指図する隊商もどきですよ」


 女性が答えてくれた。もどき? よく分からないけど隊商なのは間違いなさそうだ。


「ここは城砦の近くですか?」


「まさか。もう関門からだいぶ北に来ました。ちょっと強い薬を使ったそうだから、頭痛や吐き気はまだ残っているかもしれないですね。この男の言う通り無理はしないことです」


 この男? 誰だろう? 会ったことがあるような気がするのだけど、記憶にない。


「そうそう、ささやきさん。この子に伝言があったのでは?」


 ささやきさん? あだ名だろうか?


「そうでした。桃子さんから風華さんと実季さんに伝言があります。『ともかく遠くにお使いに行きなさい』だそうです。そして、『城砦(ここ)には二度と戻ってこないように』ともつけ加えられました」


 お使い、戻ってくるな……。


「桃子さんは、桃子さんは無事ですか!」


 男性の元に進もうと寝台から降りたが、足が言うことを聞かない。思わずよろけて倒れそうになる。私が倒れるより先に、男性が私の体を支えてくれた。


「相変わらずですね。何も変わっていない」


 男性が空いていた椅子を引くと、そこに私を座らせてくれた。相変わらず? やっぱりどこかで会ったことがあるのだろうか? でも「ささやき」なんて名前は記憶にない。そんなことより……


「残念ですが、桃子さんは亡くなられました」


 男性の言葉に、心臓が何かで握られたようにギュッとしぼんでしまったような感じがした。体から力が抜ける。死んだ? あの桃子さんが? 死んだ!?


「ど……どうしてですか?」


「もちろん貴方達を助けたからですよ。殺しに来たものが殺す相手を助けたりしたら、殺されるに決まっています」


 女性がはっきりした口調で答えた。


「大司教閣下、大変僭越ではありますが、お言葉が率直過ぎませんか?」


 大司教閣下? この女性はとても偉い人なのだろうか?


「ささやき、貴方にもその言葉使いを止めなさいと何度言ったと思っているの?」


 男性が女性に向かって両手を上げて見せる。


「桃子さんは私達を助けるために犠牲になったんですね」


「はい、そうです」


 男性が答えてくれた。つまりそれはもう取り返すことができないと言うことだ。


「桃子さんからの伝言をありがとうございました。また、私たちを助けて頂きまして、本当にありがとうございました」


 男性と若芭さんと名乗った女性のそれぞれに深く頭を下げた。頭を下げる度に、目から落ちた涙が足元の地面に小さな染みを作る。


 でも桃子さんが自分を犠牲にして私たちを救ってくれたのなら、今はめそめそ泣いている訳にはいかない。そんな事をしたら、桃子さんに遠いとこからぶっ飛ばされる。いや桃子さんだけじゃない、多門さんにも山ほど説教される。それに私にはやることがある。


「あの男が言った通りね。確かに舞歌を思い出す娘さんだわ」


 頭を下げた私を見て、若芭さんがどこかで聞いた事がある様に思える名前を口にした。そうだ。確か歌月さんのお母さんの名前のはずだ。この人達は歌月さんの知り合いなのだろうか?


「私には礼はいらないよ。君が私にしてくれようとした事のお礼のようなものだからね」


 お礼? もうさっぱり訳が分からない!


「ごめんなさい。どこかでお会いしたのかもしれませんが、どうしても思い出すことが……」


 男性が少し驚いた顔をした後に納得した顔をした。


「ああそうか。今日の化粧と声色は別物だったね。これは大変失礼した」


 男性は内衣嚢(ポケット)から折り畳み式の手鏡に、何やら化粧道具のようなものや、小さな綿の塊を取り出すとしばし手鏡を見ながら顔をいじっている。


「これならどうかな? 少しは見覚えがあるかい?」


 この顔とこの声にはもちろん覚えがある!


「生きて、生きていたんですか!」


「まあ、幽霊じゃ……おいおい!」


 気が付くと私は彼に抱きついていた。


「良かったです。本当に良かったです。碧真(あおま)さん!」

291部とサブタイトルを入れ替えました。

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