日常
生きている限り人には必ず朝が来る。朝が来る以上、人は何かを食べなければなりません。と言う事で八百屋の看板娘こと私、風華は朝食の絶賛準備中です。
体の鳩尾より少し下、そこにある淀みとも塊ともどちらとも言えない物。手で押しても感じられないけど、確かにそこにあるものを意識しながら、竈の小枝に火が付くように念じる。
その得体の知れない何かが、まるでそこにもう一つの心臓があるかのように躍動すると、小枝と竹を割いた火付けから小さな煙があがった。ここからはマナではなく、自分の体の出番となる。手に持った竹筒で火種に風を必死に送った。
私はマナの扱いが上手ではないので、本来なら火打ちを使ったほうが楽なのだけど、こう雨が続いて家の中まで湿った時には、マナに頼らざるを得ない。マナを使ったせいか、少し息を吹き続けただけでめまいがしそうになる。
ここ辺境領は森が近いだけでなく、もともと森があった、呪われた地を切り開いた土地だ。困ったことに、私のような普段はマナを使わない人でも、体に蓄積するマナの影響を受けてしまう。
鍛冶屋のように、毎日マナを使って仕事をするような人たちには都合がいいのかもしれない。だが私みたいなただの八百屋にとっては、便利な力という、より月のものと同じで単にやっかいなだけだ。
十人力のマナ使いとかだったら便利だったのに。あっ、それはそれで嫁の貰い手がなくなるか……。私がそんなことを考えていると、頭上からドタドタという音が響いてきた。
居候の白蓮が三階の三角屋根の屋根裏(以前は鳥小屋だったらしい)から、やばいやばいと言われながらも、何とかまだ使用に耐えている外階段を使って降りてくる音だ。
寝坊して朝食の準備の手伝いをさぼったのをごまかすためだろう、いつもより慌てた音をたてて降りて来る。
「ふーちゃん、おはよう!」
ここ数日の森からの強風と雨続きで、私のようなマナ酔いする人間は体が重くてしょうがないのだが、マナが蓄積しないこの鈍感男はけろりとしている。
ちなみにこんなふざけた呼び名で私を呼ぶのは、この鈍感能天気男だけだ。向かいの肉屋の娘は、白蓮が我が家に居候していることについて、いつも羨ましいと言っているが、一体何が羨ましいのだろう?
「天気が悪くて、今日は休みだと思ったら、ついつい気を許してしまって……。あれ、今日の仕入れは?」
この悪天候では「森」に行くこともできない。なので店の仕入れや、棚だしを手伝ってくれるのはいいが、父ほどではないにせよ、彼の「森」からの収穫が全くないのはかなり痛い。
「ずっと天気が悪くて、農家の人たちも収穫を止めているから今日はなしよ。市場に行っても何もないだろうしね」
実際の所、この辺りは本当に庶民街なのと、ここしばらくは寂れる一方で治安も悪化しているため、店頭での売上は芳しくなかった。
この店の行く末を憂いつつ腕組みしている私に向かって、能天気に空を見上げた白蓮は、「大丈夫、明日ぐらいには晴れるよ」と、屈託のない笑顔を見せる。一応は私を励ましているつもりらしい。
思えば二か月前に父が旅立ってからこの方、この得体が知れない男のおかげで、独りぼっちだけは避けられている。
父の葬儀は本当に寂しかった。昔からの母の知り合いや、父がこの街に来てからの知り合いも、少しでも目鼻が利く人たちは、とうの昔にこの街に見切りをつけて、離れてしまっている。父は「城砦」にいた頃の人達とは一切接触を絶っており、ごく一部の親しかった客が来てくれただけだ。
父の葬儀が終わって、明日の店はどうしようかと思っていた時、白蓮がいつの間にか泣いていた私の手を握り締めて、そっと頭をなでてくれたのを思い出す。
父が旅立った後も、父が連れてきたこの男は三階の屋根裏に住み続け、そこから「結社」に行き、父に入れ替わる形で「追憶の森」へと収穫に行っている。ただ私には未だに彼が「追憶の森」に行って、普通に戻ってこれていることが不思議でならない。
「森」に入れるのはマナ使いの限られた才能を持った人が、たゆまぬ努力と経験を重ねて少しずつ奥に向かうものであり、その途中で多くの人が命を落とす。
一人で「追憶の森」に入っていた父は、娘のひいき目抜きでも相当な手練れの冒険者と言えた。たとえ「追憶の森」が「城砦」の近くにある、化け物のようなマ者が住む「嘆きの森」の一部でなくてもだ。
記憶すらもたない、大した経験もない白蓮が、いかに父の手引きがあったとしても、父と同じような収穫を得るのは本当なら不可能のはず。私が「王様のお妃になります!」の方が、まだ現実味があるぐらいだろう。
「ねぇ、白蓮。前にも聞いたと思ったけど、どこかの組には入らないの?」
組とは「結社」が「森」へ入るのを許可する人の単位で、最低でも二人、最大で五人までで森へと入る。父の体がまだ動いていた時は父と潜って(潜る、森に入ることをそう呼ぶらしい)いたが、父が亡き後は白蓮は一人で「森」に潜り続けていた。
「うーーん。ふうちゃんも知っての通り、僕は結構人見知りでね……」
白蓮はそう呟くと、小さく首を傾げながら顎に手を当てて見せる。
「ふざけないでちょうだい! 結社からあなたについて、あまりいい噂は聞こえて来ないよ。父がいなくなってから、結社の人がたまに店に来て、あなたのことを私にからかっていくのは知っているでしょう?」
実際の所、昨日も結社の若手たちが客のふりをして、この店に白蓮の事をからかいに来ていた。彼らからしてみれば、誰も弟子を取ろうとしなかった父が、全くマナも使えないのに、横紙破りで結社に入れた白蓮の事が気に入らないのだろう。
客として上得意とか言うのなら我慢もするが、せいぜいが果物の一つや二つを買って帰るだけだ。商売人としてはうまくあしらうべきなのは分かっているが、自分が言うのはいざ知らず、他人の口から白蓮の事を「八百屋」などと呼ばれるのを聞くと、なぜかものすごく腹が立つ。
「僕の事でふーちゃんに心配をかけてしまって、ごめん」
天気が悪いせいだろうか? めずらしく私の小言に、白蓮がまじめに謝ってきた。
「正直に言うと、ここ数ヶ月いろいろと頼んでみたんだけど、全部断られた。山櫂さん(父)がいたときはその義理でなんとか結社に入れてもらった感じだったし、確かに僕は得体がしれないしね」
それについては確かにそうだろうけど、誰も組んでくれないというのはどういう事だろう? もしかして私の知らないところで、こいつはとっても悪いことをしていたりはしないだろうか?
「それ以上に僕はマナが全く使えないし、収穫専門だからね。結社の人たちから八百屋と呼ばれるのもしょうがない。でもふーちゃんに文句を言うのは筋違いだな」
「ちょっと待って、自分で言ってどうするの!?」
いつもなら、彼のあるかどうか分からない矜持に少しは遠慮して、このぐらいの突っ込みで終わりにするところだ。けれども父が亡き後、彼が単独でいつまで森から無事に戻ってこられるかは全く分からない。それに今のこの町は女が一人で生きていけるほど、甘い所ではないのだ。
「そんなことを言っても、いつまでも一人では無理でしょう。それに私を一人にするつもり?」
「そうだね。領主様が変わってから……」
私は慌てて白蓮の耳を引っ張ると、店の奥へと引き込んだ。
「めったなことを言わない! 誰かに聞かれたら、衛士所の連中がすぐに踏み込んでくるわよ。たまたまうちには金も何もないから、まだ踏み込まれていないだけなんだからね!」
白蓮は小さくため息をつくと、おもむろに口を開いた。
「金が無いのは自慢にはならないと思うけど、確かに僕が不用心だった。でもそれならふーちゃんも少しは用心した方がいいね。顔に灰で皺でも書いておいたほうがいいかもしれない」
そう言うと、白蓮は自分の顔に手で皴を書く仕草をして見せた。
「あんたね!」
「いや、これは冗談じゃないよ」
そう告げた白蓮の顔は笑っていたが、その目は笑っていない。確かに彼の言う通りだ。今日も街のどこかから、建物の焼けた煤のにおいが漂っている。