枕草子(まくらのくさし)
宮崎県の山間の民家の蔵にて見つかった書物。
……かもしれない。
現代語訳版 枕草子
御儀乃彌戸陽中将
第二段 草生えるもの
春は新生活。
新しい場所で生活を始めるときに、初対面の人々とあいさつをして、自分の趣味を言う時に、「さすがにいきなりヲタクとは言えないなぁ」と思って、「読書と散歩である」などと見当違いなことを言ってしまうのは草。
また、バイト先で周りがみんなにぎやかな人たちなのに、先のことを趣味といってしまうと浮いてしまい、ラインのグループがいつの間にか自分抜きで作られているのは草生える。
ただ、台風などで急に休みになった時に、自分は知らずにバイト先にいったら、店長に、「ラインでまわしときますねっていってたけど」と言われる時、バイトリーダーはグループにしか送っていなかったときはさすがに草もはえず、ただ驚きあきれるほどである。
子供の時に遠足に行ったときには、城山の桜がみごとに咲いているなかにかかわいらしい鳥の姿を見て、「よくよく見れば趣のあることだよ」と思うけれども、毎回毎回教師が「遠足は家に帰るまでが遠足です。」などと必ず言ってくるのは草。
それならば、歩いて帰っていた時に、どうしても我慢できず、「もうすこしだ、もうすこしだ、」と言いながら歩いていても道の駅まで間に合わず漏らしてしまった場合は遠足の途中で漏らしたということになるのだろうか、いや、ならないだろう。
そのほか、自分が新入りの場合ではなくとも、新しく入ってきた後輩が明らかに自分のことだけを舐めているのは草生える。
そうはいってもやはり、後輩が入ってくるとかわいいと言っている人びとは多いものである。私は自分に面識のない後輩はかわいらしいと思うが、自分の直接の後輩をかわいいと思ったことはない。これは先輩に対しても同じような感じである。
自分がいなくなる時に、後輩からの寄せ書きの内容が薄いことばかり書かれているときなどはもう大草原である。
夏は夜。
夏休みなどは言うまでもなく草が生え散らかす。
思うに、純粋な夏休みというのは小学生までなのではないかと思われる。地区のプールに午前中からあほのように行ってバシャバシャ泳いで、昼になったら家に帰って森田一義のグラサン(もしくは南原清隆)をみてまた昼からプールに行くのである。南原バンバンバンは草。春日俊彰なるものが椅子をうちこわしてしまったのにも草が生えたが、驚きあきれるほどであった。
あと、地区のお祭りに行くと、顔見知りが当然のように私が買ったフライドポテトをつまんでいくのは草生えず。とてつもない怒りを感じることだよ。また、夜の熱気と人々の謎の狂気を彩る屋台の明かりのなかで、すこし橙がかった裸電球に照らされるリンゴ飴を見るのはしみじみと心惹かれることであるよ。
ただ、祭りとなるとどこからともなく現れて、通りを我が物顔で闊歩する者には僻易とする。いつだっただろうか、そういった輩が祭りの会場となっている学校のグラウンドでロケット花火を水平に撃ったところ、友人と歩いていた同級生の女子のお尻に当たるという事態が発生した。たいそう草が生えたことだよ。
夏になるとみな何かしらやらなくてはいけないという気持ちが心の中で湧き上がり、やれ今年は痩せたいだとかやれ今年はきれいに焼きたい、映画観たい、海行きたい、なら山も、どうせなら恋人といきたい、すてきな恋がしたい、ああ、恋がしたい、もういっそ一人で線香花火がしたい、私はアニメの水着回的な合宿がしたい、あれも、これも、などと言っているうちにあっという間に夏が過ぎ風あざみである。すぐに担任に「おげんきですか? 」と聞かれるのが関の山だ。
だいたい夏のはじめに立てた目標なんて大概達成できないのだ。あのつよポンでさえ夏の前に「バイクの免許欲しいなぁそしたらバイクも買わなきゃ」などと言っておいて結局ウダウダして夏が終わり、しかも二年後もその目標は実現せずに相変わらず同じことを言う始末。ここまで来るともう恐怖である。本当に怖い。イワコデジマイワコデジマ! と、私もそうはいってもやはりなんらかの希望を夏に対して抱いてしまう。もしかしたら夏の物の怪とやらのせいであろうか。不思議なものである。
現代語訳 津田山祥吉