第四十二話 ナース
女の子が泣いていた。
その子は声を押し殺し、服の袖で零れ落ちる涙を乱雑に拭き取りながら此方へと近づいてくる。
彼女が涙を見せる時。
それは自分ではどうにも出来ない理不尽に襲われた時だ。そして人前では決して見せる事のない辛さを、彼女は僕の前でだけは隠さない。
彼女は棚の上に座っていた僕を両手でそっと持ちあげ、そしてその手を離す。
彼女の両手から解放された僕は、重力に従って真っ逆さまに床へと落下していった。
このまま何もなく床へと着地できたなら、僕はどれだけ幸せだろうか。
しかし現実は無情だ。
残念ながら願いは天に届く事なく、僕の体は地面に落下しきる直前に跳ね飛ばされる。少女が放つ、無慈悲かつ強力なローキックによって。
勢い良く蹴り飛ばされた僕は体をくるくると旋回させ、壁に二、三度ぶつかり跳ねてから顔面から地面へと着地する。だがこれで終わりではない。視線を上げると、彼女の足が再び僕の眼前へと迫っていた。
ボコ!ボン!ボン!ガシャ!グシャ!
軽妙な音を立てながら僕の体は何度も跳ね返り、着地する。再び彼女の足元へと。
これは偶然などでは無い。
壁からの反射角度や減衰率を完全に把握した上での、狙い澄まされた完璧なる蹴り。それを目の前の10にも満たぬ少女は、泣きながらも寸分たがわず決めてくるのだ。
そして再び僕の体は間髪入れず跳ね上がる。
儀式続く。
彼女の心の中のブラストレーションが収まるその時まで。
何度目かのループを終え、遂に最後の一撃が僕へと叩き込まれる。文字通りラストアタックだ。
その威力はそれまでの比ではなく、圧倒的な破壊力の込められた一撃。
僕はこの一撃を全てを貫く一撃と名付けた。
「ほげぇ!!」
ほげぇ?
自分のあげた間抜けな声に驚き、目を覚まし体を起こす。辺りを見回すと、白衣の女性が驚いた様な表情で此方を見つめていた。その顔に見覚えはない。
「……」
初対面の女性に変な奇声を聞かれた為、死ぬほど気まずい。この危機的状況を打破すべく、俺はベッドに横になり目を瞑る。
必殺寝ぼけてました作戦だ!
「ゆ、勇者様!お目覚めになられたんですね!」
勇者様?誰のことだ?
俺はしがない召喚士だ。
ひょっとしたら目の前にいた女性も寝惚けているのかも知れない。
見覚えのない女性は俺に近寄り、肩口を掴んで揺すってくる。寝たふりでやり過ごそうにも、勇者様を連呼しながら揺すられ続けると流石に難しい。仕方ないので観念して目を開けるーーと、そこは天国だった。
ボインボイン!
ボインボイン!
目の前で跳ね躍る。
何がとは言わない。
ボインボインボイン!
ボインボインボインボイン!
マーベラス!
ここはどこで彼女が誰かなど、最早どうでも良くなってきた所で揺れが突然収まってしまう。
「良かった!お目覚めになられたのですね!」
どうやら起きたのがバレてしまった様だ。
こんな事なら薄目にしておけば良かったぜ。
ガッデム!
「あー、えっと。勇者って誰?」
とりあえず勇者って何の事だか分からないので尋ねてみた。
その際、恥ずかしがり屋の俺は相手の目を真っ直ぐ見れずに、視線を落としてしまう。
自然と豊かな双丘が視界を占領するが、恥ずかしがり屋さんだからしょうがないね。
「何を仰ってらっしゃるのですか?勇者様は勇者様ではありませんか」
ありませんかと言われても、残念ながら俺はしがない召喚士。パーティーの中核を担ってガンガン闘うとか、俺には絶対無理だ。
そういうのは彩音がーーそうだ!彩音達はどうなった!?
「えっと看護婦さん」
「ユーリとお呼びください。勇者様」
顔近!
ナースキャップを被ったユーリが顔をずずいと寄せてくる。
「えーとですね…」
「何なりと仰って下さい。ユーリは勇者様の為なら何でもいたしますわ」
そういうと、何を思ってかユーリは俺に覆い被さってくる。
「ちょちょちょちょちょ!ユーリさん!?」
彼女の体は柔らかく良い匂いがする。
餡たッぷりの二つのお萩の感触もたまらん!
が、流石に初対面の相手にこんな事をやられたらドン引きだ。
俺は彼女の肩を掴んで体から引き離す。
「あん、勇者様。照れなくても良いんですのよ」
「いや!照れてないから!?」
ユーリは体をくねらせ、再び押し付けてくる。俺はそんな彼女を両手で押しのける。
そして揺れる胸。
正直本気で跳ね除けようと思えばできた。
だが揺れるユーリの胸を見せつけられては、いかんせん力が入らない。
くっついては離れ、離れてはくっつくを繰り返していると、急に体の上から重みが消える。
「何してるんですか?たかしさん?」
「きゃああ、勇者様助けてぇ」
見るとユーリの体にリンのアホ毛が絡みつき、彼女を高々と持ち上げていた。
「リン無事だったか!良かった!他の皆んなは!?」
「皆さん全員無事ですよ」
「良かった。皆んな無事か」
本当に良かった。
彩音と融合した後の記憶が全くないが、どうやら上手くいってくれた様だ。
「で?」
「で?」
目出度い再会のはずなのに、リンの顔が能面の様で超怖い。
リンに何か有ったのかと思い、恐る恐る聞いてみる。
「な、なあリン。何か有ったのか?」
「私は何もありませんよ。そんな事よりたかしさんは、さっきこの人と何をやっていたんですか?」
「下ろして下さ〜い」
視線を上げるとユーリが空中でブラブラと揺れている。
「あー、えっと。それはあれだ……お医者さん…ごっこ?……ほげぇ!!」
頭に衝撃が走り。
俺はしたくもない二度寝をする羽目になった。




