1000億回目の出会いを、君と
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
う〜ん、本当はいけないことなんでしょうけど、公共の乗り物の中での、赤ちゃんの泣き声ってきついと思いません? これ、逃げ場がないからだと思うんですよ。バスとかぎゅうぎゅうづめの電車の中とか。冷ややかな視線をぶつけちゃうこと、今まで何度もありました。
お母さん側としても、マイナスな意味で注目を集めるなんてごめんでしょう? だから、その子が泣き止むようにする。時には叩いて、怒鳴りつけてしまう姿も見かけました。それでますます事態が悪くなることも……。
子供は何を思って泣くんでしょう? 私たち全員も、一度は通った道のはずなのに、記憶にはほとんどないんじゃないですか? きっと私たち、建前や世間体に重きを置く社会にもまれすぎて、本能的なことを忘れている、もしくは封印しているんじゃないかと思います。たいてい、素直で幼稚なことって、非難されますしね。
本能の姿のひとつ。それを考えさせられた出来事があるんですよ。ちょっと耳に入れておきません?
私が高校時代に通っていた母校は、もうこの世にありません。年々、入学する生徒の数が減っていきましてね、廃校になることが決まったんです。
地元では、他の学校に比べて大きい体育館を持っていたことが注目されたようで、工事の末に、体育館は二階建ての市民用アリーナに改修されました。立地がいいこともありましてね、ほぼ毎日、多くの利用者に恵まれたみたいなんですよ。年末年始をのぞけば、臨時の休みの時以外は、ずっと開館していましたしね。
そのせいなのか、気づくのがだいぶ遅くなってしまったんですよ。実際の利用者がいったいどれだけいるか、という基本的なことに、ね。
私の友達はいまだ実家におりまして、件のアリーナにもよく足を運ぶんだそうです。元々が河川敷の近くにあった学校でしたからね。そこの道も利用したランニングコースというものが、アリーナと一緒に作られていたんです。友達はほぼ毎晩、そのコースを走って汗を流していたらしいのですよ。
晩といっても、まだ午後7時かそこら。アリーナからは利用者の足音やボールをつく音などが、ひっきりなしに聞こえてきます。自分以外にもみんな頑張っているんだなあ、と同志を得たような気分だったのですが、年の暮れも近づいたある日。白い息を吐きながら河川敷を走る友達は、いつも通りのアリーナから響くボールの音を耳に入れていたのですが、ふと思い当たります。今日からアリーナは休館日ではなかったのかと。
コースの構造上、一時的に遠ざかっていたアリーナを見やります。そこに明かりは灯されていませんでしたが、確かに音が聞こえてきました。
友達はふと、まだ学校があった時に広まった怪談話を思い出します。
誰もいないはずの体育館で、ボールをつく音がすることがある、という非常にポピュラーなものでした。
けれども私たちの学校では、それに加えて妙な色がつけられています。「その体育館の床と1000億回目に触れ合ったものは、二度と体育館から出られなくなる」と。私たちの学校では体育館の備品が、突然なくなってしまうことがありまして、その言い訳に使っている怪談だと、噂されていました。
この1000億回という数に関しては、私たちが卒業してから水増しされたものらしいのです。
かつて同じ学校に通っており、当時から数年前に故人となっていた、友達のおばさんの場合は、100万回だったとのこと。体育館に青春を注いだおばさんとしては不本意な話で、いつかその真偽をただしてやる、と卒業してからずっと思い続けてきたとか。
この怪談、代を経るごとにじょじょに回数を増やしていったと見られていたそうです。多分、怪談を信じない派が嘘っぱちだと叫び、怪談を信じる派が、意地で水増しを重ねたんですね。嘘で終わらせないために。
廃校になる直前、何回まで膨れ上がっていたのか。そもそも怪談が伝わっていたのかは分かりませんが、友達はにわかに心配になったようです。
アリーナに近づき、学校の体育館だった時から使われている、鉄の扉に耳をくっつけてみた友達。中からは相変わらず、ボールをつく音が聞こえてきます。
一人ではありません。雑多なリズムと大きさで、てんでばらばらにボールをついているように聞こえました。ただ、目の前の鉄扉は固く閉ざされていて、中をうかがうことはできなかったとか。
このボールをつく音は、利用者がいないはずの年末年始中、ずっと続いていたそうで、友達も何度か耳にするうちに慣れてしまい、三が日が終わるころには「今日も元気だねえ」と他人事のように思っていたそうです。
そして半年近い月日が流れた日曜日。件のアリーナではミニバスケットの大会が開かれました。友達の弟が出場していて、仕事で手が離せない両親に代わり、友達が妹を連れて応援に向かったのです。
その日は決勝リーグということで、何試合も行う予定となっていました。友達はまだ三歳くらいの妹と二人で、アリーナになる時、新しく作られた二階の観覧席から、弟たちの試合ぶりを見ていたそうです。
しかし、昼過ぎ。弟の本日二回目の試合が始まって間もなく、妹がトイレに行きたがったみたいなんですよ。それも知らないところだと、確実に迷子になってしまう子なので、友達もついていくことになりました。
トイレは一階。体育館だった頃よりすこし小ぎれいになったけど、位置そのものは変わっていない。観客席の真下になったせいで、幾本もの柱に支えられた天井が設けられ、圧迫感が増していました。
妹がパタパタとトイレに入っていき、友達はその入り口の近くの柱に寄りかかって腕を組みます。出て来た時に待っていないと、妹が泣き出すそうなので。
三分、五分……時間が過ぎていきます。男同士の早いトイレに慣れている友達は、いらいらと足踏みを始めました。つい先ほどなど、別の女性がトイレに入っていき、水の流れた音がしたかと思うと、出てきたのは後から入っていった、その女性だったということがあったとか。「籠城の構えかよ。勘弁してくれよ〜」と、友達は階上の応援や、何枚かの壁の向こうから聞こえる、シューズが床をこする音、ボールをドリブルする音に、耳をゆだねながらうとうとしていたそうです。
ふと、ボールをつく音が近くで聞こえて、友達ははっとしました。
寝ぼけまなこのぼやける視界を、袖でごしごしこすりつつ見回してみますが、ボールを持っている人は近くにいません。
ドリブルの音は断続的だったのですが、どんどんスピードが速くなり、まるでミシンを動かしているかのような速さだったとか。もう少し耳を凝らしてみると、どうやら音は女子トイレの中から聞こえてくるようなのです。
お兄さんは戸惑いました。音の主はトイレの中で一体、何をやっているのか。男子トイレなら躊躇なく踏み入るのですが、女子トイレが相手では二の足を踏んでしまいます。そもそも、この異様な事態を前に、妹は無事なのでしょうか。
思い切って声をかけてみようと、友達が手でメガホンを作った時。恐ろしい速さで続いていたドリブルの音が、ピタリと止みました。ほどなく、妹が涙目で飛び出しながら、すがりついていくるのです。
事情を尋ねると、トイレの中から出られなくなってしまったとのこと。具体的には、個室を出ることができたものの、洗面所から続く曲がり角にあるはずの出入り口が、すっかり壁に閉ざされていた、と話すのです。叩いても叫んでも、なんの反応もなく、閉じ込められてしまっていたと。
目に涙をにじませながら、兄である友達を呼び続ける妹の後ろで「帰りたい?」と尋ねてきた人がいたらしいのです。
緑色のユニフォームを身に着けた、短い髪の女の子で、両手のひらをてんびんの皿のように上へ向けて、バスケットボールを一個ずつ乗せています。高校生くらいに見えたとか。
妹がうなずくと、女の子は両手でボールをドリブルし始めました。最初はゆっくりだったのですが、どんどんそのスピードは速くなり、途中で女の子がかがみこんだことで、ボールは目にも止まらぬ速さになります。
「さっき、呼んでいた名前。あなたの家族か何か?」
女の子はドリブルの速さをまったくゆるめずに、訊いてきました。妹がお兄ちゃんの名前だと教えると、ちょっと目を丸くしながら
「じゃあ、あなたの記憶は残しといてあげる。ここから戻ったら伝えておいて。1000億回は正しかったって。けれども、向こうの1000億回目をこちらで踏めば、戻ることができる。この体育館は寂しがりやだから、お友達が欲しいみたいなの。私が付き合っていても、物足りないみたいで。でも、みんなにはひどい迷惑よね。待ってて。このボールで1000億回目に触れるから」
妹は意味が分からなかったようですが、お姉さんはなおもドリブルスピードを速めます。もう床に穴が開くんじゃないかとばかりに、音がトイレ中に充満した瞬間。
お姉さんはぱっと消えました。ボールごと。まるでテレビのスイッチを切ってしまったかのごとく、唐突に。そして先ほどまで冷たい壁となっていた出入り口は、ぱっくりと開いていて飛び出してきたというのです。
友達はその女の子に見覚えはありませんでしたが、例の学校の怪談話を話した人は限られています。中でも女といったら、本当に一握りの人。
ピンと来た友達は、母親に頼み込んで後日、実家に残る家族の卒業アルバムを手にしました。妹もその場に居合わせます。例の女の子に心当たりがあったのです。
友達が手にした卒業アルバムは、おばさんのもの。高校生のものをめくっていった時、妹がストップをかけました。
それは女子バスケットボール部の少女たちの集合写真。その中の一人である過去のおばさんの姿こそ、妹がトイレで出会った女の子と瓜二つだったそうです。
例のアリーナが表向き大事ないのも、彼女のおかげかも知れませんね。




