003
ヒビ……そう、ヒビだ。黒い闇と瞬く星の満たす空間に、白い亀裂が走っている。それは徐々に大きくなり、やがて空の一欠片がポロリとこぼれて世界に溶ける。
「そんな、あり得ない……」
おそらく今の状況を最も良く理解しているであろうミリィちゃんの口から、そんな言葉が漏れ零れる。
「装置停止時の進捗率が9割を超えていたというのなら、残存するエネルギーで多少の影響がでる事はあったかも知れません。ですが、私達があの技術を止めた時、進捗率は7割ほどでした。これではどう考えてもこちらからだけで世界の壁を破るほどの効果が発揮されるはずがありません」
「あー……つまり、あのヒビの向こう側からもこっちに来ようとしてる何かがいるってこと?」
「おそらくは」
ミリィちゃんの返答は、意外と言うほどでは無い。「大変遷」の時だって魔術と一緒にドラゴンがやってきたって話だから、今回も何かがこっちに出てこようとするならそういうこともあるだろう、くらいの感覚だ。
なら、問題はどんな奴がやってくるのかと言うこと。正直ドラゴンみたいな存在が大挙して吹き出して来たりしたら、俺たちとしては逃げるしか無い。その場合はここまで来てジェイの完全勝利で終わるわけだが、出来ないことは出来ないのだ。諦める、見切りを付ける。物語の主人公なら失格の行為だが、現実を生きる俺たちにとって妥協を受け入れないのはただの馬鹿だ。
「一応聞くけど、あれ何とかして塞いだりできるの?」
「当初の計画では、こちらの世界から魔術が消失した段階で下位世界への『法則』の流出が止まり、そうやって世界観を繋ぐ流れが無くなれば自然と閉じるということらしいですが……」
「つまり、任意で閉じる方法は無いわけね。雑だなぁ……まあ目的を考えればそれが最適なんだろうけど」
実際には、この亀裂を塞ぐ方法は間違いなくある。「大変遷」の時に塞いでいるんだから、効果だって実証済みだろう。だがそれがどんな方法であったとしても、今この場にある設備、人員で実行できるかと言えば、答えは否のはずだ。少なくとも今から手探りで情報を集める余裕があるとは思えない。
そんな言葉を交わしている間にも、徐々にヒビが裂け目へと変化していく。穴が少しずつ大きくなり、向こう側からこちらに向かって何かを叩き付けているかのような衝撃が伝わってくる。
全員が警戒し、それでも何が出来るわけでも無く見つめる中、やがてそれは一際大きな衝撃を発して――
ガシャーン!
まるで硝子が砕けたときのような高い破砕音を発して、世界に穴が開いた。だが、当然それだけで終わるわけじゃない。
予想外なことに、穴の向こう側は真っ暗闇とかウネウネした謎空間とかではなかった。真っ赤な空に、灰のように煤けた大地。まばらに立っている細く長い物体は、おそらくは木なんだろう。俺の目線からすれば荒廃して見えるが、それでも十分に世界として認識できる場所だ。
だが、そこから出てきたものは俺の予想を上回る。それは、黒くて長くて平べったい、見たことの無い存在。強いて言うならミミズとトカゲを合わせた物と言った感じだろうか?
「うわっ、何だありゃ? サンショウウオ?」
「さん……? タカシ、アレのこと知ってるのか?」
「いや、ちょっと似てるなって思っただけだよ。オレの知ってるのはあんなにでかくないし、長くもないし」
首を振るタカシに、俺は奴に視線を戻す。そう、奴の最大の特徴は、胴が異常に長いということだ。それは地平の彼方まで続いているようで、終わりが全く見えない。足下から頭までの高さは俺の身長の倍くらいだが、長さの方は想像すらつかない。
「単体の生命でこれほどの巨体とは……この大きさで生命活動を維持出来る理由が不明です」
「そんなことどうでもいいわよ! ほら、動くわ……っ!?」
奴がその口を大きく開き、何かを吸い込むような動作をする。その瞬間、俺の体からガクンと力が抜けた。
「な、何だ!? 力が!?」
「ぐへぁ!? 何ですかこれ……!?」
それは他の仲間も同じだったらしい。ミリィちゃんは比較的平気そうだが、ジェシカは俺と同じく膝をつき、タカシはより苦しそうに両手を前に崩れ落ち、パレオに至っては完全にその場に倒れ込んでしまっている。
「くそっ、何をされた!?」
物理的には、そよ風ひとつ起きていない。だが確実に何かを吸われて……いや、喰われている。
「個々人への影響の差違や、主の目的などを鑑みた結果、極めて高い確率であれは魔力……魔術を喰っていると思われます」
「そう。ならさしずめ魔術食いってところね……」
そう言いながら、ジェシカが辛うじて立ち上がる。だが残りの二人はそうもいかないらしい。
「タカシ、パレオ、大丈夫か?」
「アニキ……ヤバイ。体に力が……いや、違う。多分これ、身体能力が日本にいた時のに戻ってる……うわ、オレこんなに虚弱だったのか……」
「駄目です。ちょー気持ち悪いです。頭がグルグルして、今にも吐きそうです……」
「そうか。きついな……」
タカシの方は、腕や足をプルプルさせてはいても意識はしっかりしているようだからまだいい。だがパレオの方は、かなり調子が悪そうだ。ジェイの話から鑑みれば、人間から離れれば離れるほどその存在が魔術と密接に関わっていると言える。であれば人型ではあっても肉体の構造すら違う夜魔族は、あるいは獣人などよりも魔術の影響を強く受けていると言えるんだろう。実際、ジェイは魔術が無くなれば人間以外は死滅すると言っていた。
「てか、これどうすりゃいいんだ? 穴が開いちゃった時点で、もう手遅れってことなのか?」
「いえ、一応最終安全装置が働いているので、対処は可能なはずです」
「というと?」
「この空間は、擬似的に『小さな世界』として認識されるようになっています。本来はこの後天井を開いて外と繋ぐ予定でしたが、逆に言えば天井を開かない限り、この空間内の魔術が無くなれば理論上『空間の穴』は塞がるはずです。ただ、そのためには……」
「向こうとこっちの間に居るアイツを押し返さなくちゃいけないってわけね」
キッと、ジェシカが魔術食いを睨む。あの馬鹿でかい巨体を完全に切り裂いてこっちと向こうに分けるってのはあまり現実的じゃない以上、それが一番確実だろう。当然だが、どれだけあるのか解らない奴の全身をこっちに引き込む選択肢は無い。
「あれ? でもそれだと一端この部屋から魔術が全部無くなるんじゃないですか? え、私は貴い犠牲ですか? うぅ、それはあんまりです……」
「いえ、魔術食いが居なくても緩やかに魔術は向こうに流出するはずですから、奴を押し返した後パレオだけ下の階に運べば問題無いと思います。むしろ今すぐパレオを下の階に放り込んで来たいところですが、この状況で一番動けると思われる私がそれをするのはリスクが高すぎます」
「扱いが酷いです。でも死ななくて済むなら我慢するです……うぅ、ぎぼぢわるい……」
地に伏して尚いつもの調子が変わらないことに、俺は少しだけ安心する。この様子なら、少なくとも今すぐに命の危機、ということではないだろう。であればもうしばらくは我慢して欲しいところだ。
「なら、やることは決まったな」
「ええ、そうね」
「了解しました。認識を戦闘モードに切り替えます」
俺たちはそれぞれ武器を構え、目の前にいる大口を開けた間抜け面に攻撃を開始した。