005
今回から暫くマリィちゃん視点の話が続きます。ご注意下さい。
「私」の最初の記憶は、シルクのような肌触りの砂のベッドで目覚めたことだ。暗いまどろみから目覚めてみれば、目に広がるのは抜けるような青空。きちんと思考が動き出すまでぼーっと空を眺めていたら、不意に横から声が聞こえた。
「お目覚めですかお嬢さん?」
声の方に顔を向ければ、そこには若い男がいた。全く記憶に無い、見ず知らずの男。20を少し過ぎたくらいだろうか? 精悍さと幼さの同居する顔つきは何処か愛嬌があって、初対面だというのに親しみを感じさせる。
「…………貴方は?」
「俺かい? 俺はドネット・ダスト。通りすがりのいい男さ」
ドネット・ダスト……その名前に覚えは無い。少なくとも「私」の知り合いではないだろう。そもそも自分の名前を名乗ったのだから、普通に考えれば初対面のはずだ。なら何故初対面の男が私に話しかけているんだろうか? そもそもここは? 私は一体……?
「あー、問題掃除人協会のB級掃除人だ。で、お嬢さんは?」
「私? 私は…………」
自分の思考に沈みそうになった「私」に、彼はちょうど「私」のことを聞いてきた。他人から指摘されたことで、何処か繋がりきっていなかった私の記憶が急速に繋がっていく。そう、「私」は、私は……
「おいおい、まさか記憶喪失なんて言わないでくれよ? いくら何でもお約束すぎるぜ?」
「そんなのじゃないわよ。私はマリィ……そう、マリィ・マクミランよ。貴方と同じ、協会のB級掃除人……のはずだわ」
朧気だった景色が色を結び、「私」が何者であるかを告げてくる。仕事のこと、家族のこと、町のこと……様々なことが「私」のなかで結びつき、それらを持って「私」が形作られる。
「はずって言われてもなぁ……まあいいけど。掃除人なら、登録証は?」
「あるわよ。ここに……」
目の前の軽そうな男に求められて、私は懐から登録証を取り出そうとして……そしてそこに何も無いことに気づく。
おかしい。就寝と入浴の時以外は登録証は常に身につけていた。そして目覚める前の私の最後の記憶は、家の地下に見たことの無い扉を見つけて、そこを潜っていったこと。家の掃除のためだったから戦闘用の装備でこそなかったけど、それでも間違いなくいつもの汚れても大丈夫な旅装……つまり、確実に登録証を身につけていたはずだ。
だが、無い。何度手をやっても無いものは無い。一応その他のポケットや鞄の中を見てみたりしたけど、やっぱり何処にも無い。当然だ。最早習慣とすら言えるほど身につけ続けた登録証を、わざわざ他の場所にしまい込む訳が無い。
でも、無い。無いものは無い。そしてそれを見せろと言われている以上、答えなければならない。
「……無いわ。見つからない」
「おぉぅ、そうなんだ……」
目の前の男の視線が胡乱な物に変わる。登録証を持っていない掃除人なんて不審人物と同じなのだから、その理由はわかる。でも、それを向けられているのが自分だというのは決して気分のいいものじゃない。
「登録証を無くすなんて……あ、そうよ。協会に行って再発行してもらえばいいじゃない」
ふと頭に浮かんだそれは、簡単で現実的な解決法だった。戦闘中に紛失するとか、やむを得ない事情で登録証を無くす人は決していないわけじゃない。犯罪者が他人に成り済ますならともかく、私がマリィであることが間違いないなら、あとはお金さえあれば簡単に解決する問題だ。
そこに思い至って、私は再度自分の懐を探って……現金がほとんど無い事に気づいた。登録証の時と違って、こっちはそれほど不自然じゃない。大金を持ち歩く習慣なんてそれこそ無いし、大きなお金を必要とするような場所でなら、登録証を提示すれば直接支払うことができる。だから掃除人は基本小銭しか持ち歩かないし、私もそうしていた。それは懸命な判断だけど……今だけは徒になった。
「……お金が無いわ」
「ま、とりあえず落ち着いたら? ほら」
呆然とそう呟く私に、男がカップを差し出してきた。一瞬泥水かと見紛うばかりの黒く濁った液体に受け取るのを躊躇うけど、流石にそんな嫌がらせをされるほどこの短時間で嫌われたとは思いたくない。私はカップを受け取りその場に座り込むと、一口だけ中身の液体を口にして……
「……不味いわね」
「そりゃ粉珈琲だからね」
前言撤回。どうやら私は相当この男に嫌われているらしい。この苦さと酸っぱさは、嫌がらせでなければこの男の味覚が壊れているとしか思えない不味さだ。おおよそ人が飲むようなものじゃない。
「貴方は飲まないの?」
「カップはそれ1つだけなんだよ」
案の定、私の提案を彼は断ってきた。そりゃそうだ。でもやられっぱなしというのは面白くない。見た目と違って性根の腐ったこの男に、どうやって仕返しをすべきか頭を悩ませる。
「……飲む?」
「ああ、ありがと」
カップが1つしか無いというなら、私がこれを返せば飲まざるを得ないということだ。私の冴えたやり方に、ドネットと名乗った男も観念してカップに口を付けた。なのに軽く眉をひそめる程度で、その顔は辛そうには見えない。何故だろう? ひょっとしてだが、この男は本当にこんな物を日常的に飲んでいるんだろうか? だとしたら正気を疑う。性格が悪いよりもよっぽど恐ろしい。
「で、どうだい? 少しは落ち着いた?」
「私は最初から落ち着いてるわよ?」
「いや、落ち着いてる人は水の入った水筒をひっくり返して登録証を探したりしないから。どう考えても入らないでしょ」
……言われてみればそうだ。確かに何故私は水筒をひっくり返したりしたんだろう? というか、家の掃除をするつもりだったのに、何故私は水筒を身につけていたんだろう? 百歩譲って腰に付けているのはいいとしても、中身を入れたってことは飲むつもりがあったってことだ。自宅で? 水筒から水? 自分の事なのに、何だかとてもちぐはぐな感じがする。「私」という定義が、フラフラと揺れているようにすら思える。
そうやって再度思考の迷路に落ちそうになったところで、男からカップを差し出された。ほとんど反射的にそれを受け取り、両手で抱えるように持ってその中身を口にする。
やっぱり苦い。苦くて不味い。でも、だからこそ頭がスッキリする気がする。小さなモヤモヤを全て吹き飛ばすような強烈な不味さ。ひょっとして、そうするための物なんだろうか? だとしたら……いや、そうだとしても、こんな不味い物はやっぱり嫌だ。もっとこうミントとか、ハーブティーみたいなスーッとする紅茶とかを使えばいいのに。
「じゃ、改めてもう1回聞こう。落ち着いたか?」
「……そうね。だいぶ落ち着いたと思うわ」
実際、私は落ち着いていた。見ず知らずの変な男と二人きりで対峙し、泥水とどちらがマシかわからないような物を飲まされているのに、誰かと話している……誰かが「私」を認識しているという事実は、私の揺れ動く心を安定させてくれる。決してこの粉珈琲のせいではないと思いたい。こんなもので精神安定を図るのは絶対にこれっきりだ。
「で、お嬢さん。お嬢さんはここに倒れていたわけなんだが……自分が何をしていたのかとか、何でここで倒れてたのかとか、そういうのはわかるかい?」
さっきまでよりも、一歩踏み込んだ問い。私に関するその質問に、私は頭の中で自分の過去を改めて見つめ直すことを試みた。