インスティンクト
その男はとても剽軽な性格で、何事も苦労なく、スマートにこなす人だった。
「就職活動で困ったことないでしょう?」
と聞いてみると、
「あるよ。なんでもそれなりにやれちゃうから、何になりたいのかがよくわからなくて困った」
と、贅沢な悩みを聞かされた。
中学時代から続いている友人、雪嶋一弥は当時から優等生だった。運動も勉強もできるし、性格だっていい。今時こんな子がいるのだろうか、中学時代の自分でもそう思うほどよくできた子だった。
「雪嶋くん、進路の紙ちょうだい」
当時学級委員をしていた千尋が彼にそう言ったとき、彼は両手をぱん、と合わせて「あともう一日待って!」と言った。
忘れ物をする男でもないのに、珍しく忘れたのか? そう思っているとがさがさと机の中から進路の紙を取り出して唸っている。
「親に見せてないの?」
「いや。好きな進路にしていいって、サインだけくれた」
たしかに下を見ると、親のサインが入っている。随分いい加減な親だという思い半分、信頼されている一弥が羨ましい思い半分。
「じゃ、てきとうに進路書いてよ」
「長谷川さんはてきとうに書いちゃったの?」
「てきとうに自分の偏差値に見合った学校書いた」
「僕はどこに行こうかなあ。長谷川さんと同じ学校にしようかな……」
何故学年トップクラスの男が自分と同じ高校なんかに行くのだ? そう思いながら話を聞く。
「誰にも進路を邪魔されない、行こうと思えばどの高校にでも行ける、だけどやりたいことがわからないって、贅沢?」
「うん、贅沢」
千尋はあっさりそう言った。自分は早くこの紙を回収して休み時間中に先生のところに行きたいのだ。
「いいじゃん、てきとうに書けば」
「じゃあ、長谷川さんどこの学校に行くの?」
「四葉台高校」
「じゃあ僕もそこでいいや」
結局一弥は四葉台と書いて、紙を千尋に渡した。四葉台は進学高校としては下のほうにある高校である。普通に大学に行くには困らない範囲のことは教えてくれるが、エリート大学にはいるのは不可能だ。
「本当にこれでいいの?」
「てきとうに書けって言ったの長谷川さんよ? 責任とって高校ではよろしくー」
一弥はそう言ってにっこりと白い歯を見せて笑った。
長谷川千尋と雪嶋一弥の付き合いはここから始まった。
一弥は本当になんでもできる。やりたいと思ったことはなんでも実現する力がある。だから女にモテたし、男友達にも人気があった。
だけど一弥は放課後になると必ず千尋の教室を訪ねて、「帰るよ、千尋!」と言うのだ。
お前は私に気があるのか? 千尋はそう思ったが、聞き返せなかった。なんとなく関係を壊すのが怖かったから。そのかわりに夏はアイスをどっちが奢るかじゃんけんし、冬はあんまんをどっちが奢るかでじゃんけんした。
一弥はあまり噛まずに食べる。あまり吟味せずに選ぶ。悪口は言わないけれども人を褒めることもあまりない。不平は言わないけれども幸せだとも言わない。
ただ、友達の前ではムードメーカー的におどけてみせる。どこまでも道化のフリが得意な男だった。
だけど彼がとても頭がいいこと、そして人に思いやりがあることを千尋は知っていた。
彼に告白してきた女の子を断った日、彼は千尋にこう言った。
「僕さあ、条件で選ぶ女って嫌いなんだよね。僕にはこれができるあれができる、こんな性格でこんな顔で……みたいな。顔なんて整形すれば変わるし、性格なんて偽れるもんじゃない?」
あはは、と笑う一弥に千尋は同意できなかった。
顔はたしかに整形すれば変えられるけれども、性格は偽れるものなのだろうか。
「一弥は私の前でも偽ってるの?」
思わずそう聞いてしまった。一弥は極上の笑みを浮かべて、
「僕は千尋が大好きだから本当のことを言ってあげる。偽ってるよ」
と言った。なんとなく嘘をついている気がしなかったので、千尋はがっかりした。
本当の雪嶋一弥とはどんな性格をしているのだろう、その頃からそう思うようになった。
高校を卒業して、大学に入った頃、一弥は知り合った友達の強引な推し進めで年上のお姉さんと付き合うようになった。
その女性は年上とは言っても、ぐいぐい引っ張っていくようなタイプではなく、とてもデリケートで思いやりのある女性に見えた。
一弥は一見、その女性とうまくいっているように見えた。少なくとも、問題は起こしていなかった。
ある日、一弥から深夜に電話がかかってきた。他愛もない話からスタートしたけれども、千尋にはそれがただの暇電でないことくらいはわかっていた。
「千尋ちゃん、僕はもう疲れました。サービスするのも、道化でいるのにも、優等生であるのにも全部疲れました。全部放り投げて、僕に戻りたいよ」
彼は笑ってそう言った。
「戻ればいいじゃない、誰も責めないよ」
千尋はそう言った。
「戻れたらいいのにね、戻れたらいいんだけど、僕は自分ってどんな人だったかすっかり忘れちゃったよ。性格を偽りすぎて本音ってどこにいっちゃったの? みたいな」
あはは、と笑う声がする。何故そこで笑うのだ、普通泣きたい気分になるだろうに。
「好きなことしていいよ。私は一弥のこと嫌いにならないから」
一弥は笑って言った。「千尋ちゃんが僕を嫌いにならなくても、みんな僕のことを嫌いになるよ。僕は最低な男なんだ、最低な自分の本性をまるごと全部隠しておかないと、人を傷つけるんだよ。いいかい千尋ちゃん、僕は人を平気で裏切る人だし、薄情な男で、彼女のことを愛してもいないのに付き合うような、そういう男です。僕らしさなんて出したらいけません、そんなことをしたら親も友達もみんな悲しんでこう言うよ『お前って最低だ』ってね」
低い声で呪詛のように聞こえてくる彼の本音の吐露。千尋は唇を噛んだ。
「人に悪い顔するのが苦手なんだ?」
「そうかもね」
「最低って言われたくないんだね?」
「うん、そうそう」
「みんなそうだよ。何もかも素直に生きている人なんていない。どこかで人のこと考えるからみんな付き合っていけるんだし。だけど全部が全部相手のことだけ考えていたら、息が詰まるよ。一弥」
電話の向こうから沈黙と、幽かな呼吸の音が聞こえた。くすっと笑う声がして「ありがとう」と一弥は言った。
「千尋は僕の安定剤。ごめんね、夜中に電話しちゃって」
一弥はそう言うと、電話を一方的に切った。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。しかしそうだとしたら最後に「ありがとう」なんて言わないだろう。
数日後になってわかったこと。一弥は大学を休学して、彼女と別れて、アルバイトで貯めた金でインドに行ってしまった。
メールにインドのタージマハルの写真が送られてきた。けっこう旅行を楽しんでいるみたいだ。
――千尋へ。
旅行はとても楽しいです。インドはとても暑い、そして空が高い! どうして日本にはここまで美味いカレーがないんだろう。あと紅茶も美味しい。だけどおやつはまずい。正直食べられたものじゃあないよ。
日本ってすごいところだね、お金でなんでも手に入るんだ。豊かな国に慣れすぎていたのかも、手に入るものだらけで本当に欲しいものが見えなくなっていたんだね。
僕はやりたいことを探すよ。格好悪い生き方でもいいから、僕らしく生きることにした。
そんなメールが来た数ヵ月後、一弥は真っ黒の肌になって帰ってきた。おみやげはなし。元彼女のアフターケアーもなし。最低だと言う人もいたけれども、一弥は今まで以上に楽しそうだった。
なんとなくわかっていた。
なんでもできる、思いやりのある、やさしい性格の、そんな顔の裏には荒々しい本性が眠っているだろうってことくらい。
だけどそれがすべてではない。人のことを思いやることも、やさしくできることも、全部一弥の一部だ。
嫌われたっていいじゃあないか、お前の人生なのだ。人に捧げるくらいならば全部自分のものにしてしまえ。
「千尋ちゃんはやさしいね」
一弥がそう言ったので、千尋は意地悪そうに笑ってこう言ってやった。
「あんたがそう思っているだけかもよ?」
自分だって、ただの人間だ。
(了)