青竹の湯
山と山の間にある朝の竹林は、よく手入れされているようですっきりしている。
足元は石畳が続き、歩くのには困らないが、曇天ゆえに薄暗く、ぽつりぽつりとある灯籠の灯りが頼りだ。
竹の林は青々と深く、石畳は僅かな婉曲を描きながら奥へ奥へと続いていた。
我々は宿を目指し長らく歩いていた。ひんやりとした風が竹の香りを運んできて、歩き疲れた私の外套の隙間を通り抜けていった。
「噂のもてなしが受けられるという宿は…」
記者の男は少し歩き疲れたようだ。
「ええ、あと少し」
駅を降り、馬車に揺られ、さらにずいぶん歩いてきた。人の気配もまるでせぬが、そろそろ着く頃だ。ああ、灯りが見えてきた。
『青竹の湯』
簡素な門の両端に小さな灯籠の灯がともり、青竹の中に宿の名前をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「つきましたよ」
ここが、自慢のもてなしを受けられるという宿である。もてなしは、宿の主人によるもので、他に客がいないという特別な場合のみ受けられる。
もちろん、今日はわざわざそのように予約をしてある。
門をくぐり、砂利道を少し歩き、からからと軽やかな音を立てる引戸を開ける。
「ごめんください」
玄関口は竹の行灯が置かれ、明るかった。そして、すぐに宿の女将がやって来た。
「よくお越しくださいました」
きっちりと髪を結い上げ、涼しげな青みの強い緑色の着物を身につけた妙齢の女性だ。
女将は洗練された身のこなしで膝を着くと、三指をつき出迎えてくれた。
「さ、お部屋に案内致します。どうぞこちらへ」
「お世話になります」
女将の言うとおり、まずは部屋に向かうことにする。靴を脱いだところで、ポツポツと雨が降ってきたようだ。やがて雨足が早くなっていき、布を引くようなさぁぁ、という音が宿全体を包み込む。
雨が降ると深緑の香りが増す。どこからか風が入り、行灯の灯りを揺らす。それと共に重たいような、不思議と落ち着くような香りが運ばれてきた。
「雨が降ってきましたね」
窓から見えるのはどこまでも続く竹林だ。霧雨が、青く、宿の中に入ってみれば不思議と明るい竹林を静かに濡らしている。
私が呟くと、女将が振り返って言った。
「ええ、夜まで降り続けて、明日には晴れるそうですよ」
玄関口に傘があるから、外出の際にはそれを使って良いという。出かける予定はないが、ありがたい。
「こちらでございます」
通された部屋は、畳の8畳ほどの部屋と、6畳ほどの部屋とが繋がっている大部屋だった。窓は大きく、雨天の中でも部屋全体が明るい。
「人里離れた宿ですから、道中おつかれでしょう。お茶をお煎れ致します。おくつろぎください」
よく手入れされた木製の座卓に、深藍色の座布団が敷かれている。座ると目の前に、女将が熱い緑茶を置いてくれた。
荷物を下ろして緑茶を一口含めば、柔らかな香りにほっとする。
「お茶うけに、干し柿と羊羮をどうぞ」
続いて出てきたのは、大きく立派な干し柿と、こちらも大きく切り分けられた黒色の羊羹であった。
口にいれれば、干し柿はねっとりと甘く濃厚で、羊羹は瑞々しくさっぱりとした甘さであとを引く。
もう一口緑茶を飲んで一息着くと、自然とからだの力が抜けていくのがわかる。
すっかり寛いだ様子の我々を見て、女将は涼しげに微笑んだ。
「改めまして、温泉と耳掃除の宿『青竹の湯』にお越しくださり、ありがとうございます」
耳かき
そう、これが、この宿の特別なおもてなしである。
代々続くこのおもてなしは、聞けば江戸時代から続くもので、親から子へと受け継がれているらしい。
「耳かき、ですか」
物書きの青年が、不思議そうに問うた。
「ええ、当宿ではお客様の疲れを癒すため、耳かきをさせていただいております。他のお客様がいらっしゃらない日のみとなりますが…」
女将が笑顔で答え、物書きの青年は目をぱちくりとさせている。
とりあえずあとで受けてみるように勧めると、青年は不思議そうな顔で頷いた。
これは後が見ものである。
「まず、大浴場はあちらの通路奥手にございます。前室に湧き水を引いてございますので、長く浸かるようであればお召し上がりください。汗をかきますと塩分も適度にとると良いそうです。同じ場所に小梅、塩を砕いたものがございますので、お召し上がりください」
そう言って、貸し出し用の浴衣を出してくれた。浴衣は薄茶色の柔らかな肌触りの生地でできていて、それについている帯と羽織は濃茶でしっかりとした生地だ。
「本日は他にお泊まりのお客様はいらっしゃいませんので、お食事はお好きな時間で召し上がっていただけます。入浴後でよろしいですか?」
「ええ、それでよろしくお願いします」
女将の問いかけに、我々は満場一致で頷いた。食事も楽しみだが、まずは旅の疲れを癒したい。
「かしこまりました。それと、当宿の耳かきはご希望なされますか?」
もちろんだ。いちにもなく頷いた。これが楽しみで来たのだから。
「承りました。では、食事後にお伺い致します。申し遅れました、私が7代目でございます。お見知りおきのほど、よろしくお願い致します」
なんと、女将が当主だったようだ。
女将はすっかり座卓をきれいにし頭を垂れると、にこりと笑って部屋を出た。
「耳かきを身内以外にやってもらうのは、初めてです」
物書きの青年は少し怖じ気づいているようだ。
確かに、耳を人に預けるというのは緊張をともなう。しかしここの耳かきは一流だという。きっと彼も気に入るだろう。
なにはともあれ、まずは温泉だ。
我々は浴衣に着替えてしまうと、身軽になって奥の大浴場へと向かった。
大浴場の前室には湧き水だろうか、竹から伝い落ちる冷たい水が引いてあった。
水は藍色の亀に落ちて溢れると、下の石畳から流れていくようだ。
長く浸かるつもりなので、竹のひしゃくを手に取り少し飲む。
小梅は小さいながら種が小さく、果肉が多い。これは「剣先」という梅でこの地域に長く栽培されてきた種類だ。
これも、一粒口に含むと酸っぱさに唾液線が痛くなるが、非常にうまい。
塩の粒は、米粒の半分ほどの大きさの紅色の粒だ。これは大陸から運んだものだという。
長風呂の準備を終えて、湯船に向かう。
洗い場と内風呂、そして露天風呂は少し小さめの岩ぶろだった。傍らに、小さな鹿威しが風流にも置いてある。
露天風呂は屋根があって雨は降ってこない。霧雨の微かな音だけが空気を湿らし、静寂を打ち消している。そこに、コーン、と鹿威しがなると、不思議と殊更に静かだ。
湯は温めのさらりとした性質で湯の花が浮き、そろりと入ってみれば朝の雨空の下、湯の暖かさに思わずふぅ、と長く息を吐いた。
一息ついて景色に目をやれば、目の前には青々とした竹が何処までも続いている。雨の林独特の空気を胸一杯吸い込むと、毒を抜かれるような、気持ちが凪いでいくような、穏やかな気持ちになる。
そこに、こーん、と鹿威しがまた鳴った。
「正に、青竹の湯、ですな」
「ええ、清々しいですね」
すっかり寛いだ様子の記者の男と物書きの青年も、この湯が気に入ったようだ。つれてきた甲斐があった。しかし、ここの宿の真髄はこの後だ。
暫く浸かって、体を洗い、湯を後にする。明日の朝、また入りに来よう。
部屋に戻ると、丁度食事が用意されていた。ひるげである。
「竹で炊いた白米、三つ葉のお吸い物、秋鮭の焼き物、根菜の煮物、奈良漬けです」
決して豪勢ではないが、暖かい食事が用意された。
白米は竹で炊いたことにより、竹の香りが移っている。爽やかな香りに、食欲が増す。お吸い物には可愛らしい毬の麩が浮き、香り高い三つ葉が美しい形のまま浮いている。秋鮭は油がたっぷりとのり、甘い香りさえする。竹で炊いた白米と食べれば、ほどよい塩味と鮭の旨味に思わず唸るほどうまい。根菜の煮物は、よく味の染みた人参、ごぼう、里芋、そしてがんもが湯気をたてながら小鉢に入っている。箸休めに、香り豊かな奈良漬けを食べると、少し酔ったような心地だ。
それらをゆっくりと味わっていただく。
旨い食事に話も弾む。
最後に、熱い緑茶を一杯飲むと、行儀は悪いが畳に足を投げ出して寛ぐ。
「いやぁ、旨かった」
思わず食べ過ぎ、ふぅ、と一息ついてごちると、女将は微笑んで膳を下げた。
「お気に召したならなによりでございます。…差し支えなければ、このまま耳かきをさせていただきますが、いかがなさいますか?」
女将の手にはいつの間にか、小さな小箱と、そして細長いぼんてんのついた棒、耳かきが握られていた。
私と記者の男の勧めで、まずは物書きの青年から耳かきを受けることとなった。
明かり取りの窓のお陰で部屋は明るいが、さらに手元を明るくするためか女将は行灯に灯をともした。光源が増えて、物書きの青年の耳が明るく露になる。
「緊張します」
女将の膝に頭を載せ、不安げに目をさ迷わせる彼に、我々は興味津々で座して構える。大勢に囲まれて、さぞや居心地が悪いだろう。が、子々孫々受け継がれる耳かきだ、気になってしかたがない。
女将が、「では、始めさせていただきます」と言って耳かきを手に取ると、物書きの青年は諦めたように目を閉じた。
「よろしくお願いします」
女将はまず、竹の耳掻きでゆっくり耳のひだをなぞり始めた。ひだの谷は汚れがたまりやすい。薄灰色の汚れが、なぞる度に取れる。
時々つまずくように耳かきがとまる。すると、女将は銀の鑷子に持ち替えて、そこを摘まんだ。
「小さな毛穴の汚れがいくつかございます。全て取ってもよろしいですか?」
「え、あ、お願い致します」
青年はもうすでにぼんやりしてたのか少し吃りながら返事をした。
女将は鑷子で摘まんだ毛穴の頭を、ゆーっくり引き抜いた。
ずるぅっ
細長い、銀色の線のような角栓が取れた。
頭のとこだけ黒いが、それから下は5ミリほど、透明な紐がくっついてるようだ。
ぱちくりしている青年に見せてやると、驚いたような顔をしている。
「わ、なんか、…癖になりそうです」
「その気持ち、わかりますよ」
思わず答える。
女将は耳かきで耳の表面をかきながら、時々鑷子に持ち替えると幾つかの毛穴を抜いている。すっかり滑らかな耳の表面になると、今度は大きな綿棒に持ち替えて、なにやら液を染ましているようだ。
すっとする香りが辺りに漂う。
「竹の香りにございます。毛穴を引き締める成分を配合してますので、少し冷たいですよ」
ひんやりするというその綿棒で、女将は青年の耳を拭い始めた。
隅々まで洗浄され、ほんのり赤くなった青年の耳は赤ん坊のようにつやつやになった。
「では、耳つぼを押していきます」
女将は先の丸くとがった木の棒を小箱から取り出すと、青年の耳のいたるところをそっと突いた。
「わ、これ気持ちがいいですね」
青年はそういいながらうとうとしてるようだ。
「耳つぼで耳垢が緩くなりますので、この後耳穴の掃除を致します」
耳つぼが終わると、女将は先ほどの耳かきよりも更に先の小さな耳かきに持ち替えると、そろりと青年の耳に匙を差し込んだ。
女将はなにやら狙いを定めているようで、差し込んだ先でピタッと動きを止めると、ゆっくりと匙を引き抜いた。
「わわわわ…」
青年は不思議な感触に驚いているようだ。
ごそり
女将が大事に引き抜いた匙の先には、米粒を潰して乾かしたような、黄色い耳垢がのっていた。
「え、こんなに大きな汚れが入ってたんですか?」
懐紙に落とされたそれを見て、驚いた青年がぽかんとして言って、女将は何でもないように微笑んだ。
「左様にございます」
年若い青年にはばつが悪かったようで、彼は少し顔をしかめた。
「ちょっと恥ずかしいですね…」
それから、女将は巧みな匙さばきで次々汚れを取り出した。
カリ、カリカリ、コリ、コソッ
「さいごに、綿棒で表面をきれいに致します」
あらかた取り終えたのだろう、女将は今度は小降りの綿棒に液を染まして、耳穴の中を拭った。
この瞬間が一番気持ちがいいはずだ。
サリ、コソッ、コソッ、コソリ
女将は時折、青年の表情や足の先がぴくりと動くのを目ざとく見つけながら、つぼを探っているようだ。
時間をかけてたっぷり耳の洗浄を終わらすと、女将は優しく青年の肩を叩いた。
「片方が終わりましたので、反対側を致しますね」
青年はもううたた寝間際の様子で、緩慢に頭を反対にした。
「あら、」
耳を覗いた女将が、少し驚いたような声をあげた。
最初のように耳の表面を綺麗にしたあと、耳つぼをし、さっそく鑷子に持ち替えると、慎重に一ヶ所をぐっ、と摘まんで引き抜いた。
ずるぅり
「おわっ」
青年の頓狂な声と一緒に出てきたのは、ドーナツ状の耳垢だった。
「綺麗にとれましたね」
思わず女将も驚いたようで、青年はさらに吃驚した顔でそれを見ていた。
「こんなに綺麗に取れるものなのですね」
我々もびっくりだ。女将はそれも懐紙に置くと、気を取り直して綿棒に持ち変えたようだった。
あとは、またたっぷりと耳穴を洗浄する。
さいごに、青年は仰向けに寝かされ、女将は手を揉んで温めると、青年の両耳をぐにぐにと優しく揉んだ。
これはすごく気持ちが良いようで、もう半分寝たような青年はうっとりと目を細めた。
「さ、お疲れさまでございました。あとはゆっくりと休まれれば、たびの疲れも取れましょう」
もう青年は口を動かすのも億劫のようであったが、小さく返事をした。
「耳かき、最高ですね…」
そうだろう、そうだろう。
彼もまた、耳かきの虜になったようだ。宿を紹介した私に感謝も言わずに夢の国に旅だったのは、まぁ許してやろう。