近所の魚屋に行ったら人魚に助けを求められたんだが……
小説の書き出しの練習。魅力的な書き出しって難しいですよね
『Help Me』
「……」
目の前の大型水槽の中、その底に敷き詰められた石を並び替えて書かれた文字を、俺――島谷雄介は無言で眺めていた。
そして、その文字の上で物言いたげなシマアジが、無言でこちらを見ている。
え、なにこれ?
どういうこと?
俺が一時呆然としていると、再びシマアジは石をくわえて、文字を作り変えてゆく。
『たすけて』
いや、英語読めなくて困惑してたわけじゃなくてな?
何でちょっとドヤ顔なの、この魚。
君、何気に余裕あるよね?
「何なんだよ、これ……」
『大学の研究にかまけてまともに食事もとってないんでしょ? たまには魚もたべなさいよ』と、電話越しに口うるさく言ってきたお袋の忠言を実行するため、近所の鮮魚屋に来た訳だが……。
刺身でも食べるかと色々と物色してる途中、妙に視線を感じると思って振り返ると、水槽の中のシマアジと目が合った。
小説では、感情のない目を『魚のような目』とか表現するけど、それが嘘っぱちだと思うほど、凄い眼力でこっちを見ていた。
いや、ほんとマジで。眼力で水槽割れるんじゃねーかと思ったもん。
何が悲しくて魚と熱く見つめ合わなきゃいけないんだと思ったが、一時の間、シマアジとにらめっこを続けていると……あちらが痺れを切らしたように、石文字を書き始めた、という訳だ。
「助けてって、その水槽から出たいのか?」
これ、端から見たら不審者そのものだよなーとか思いながら、躊躇いがちに言うが……シマアジはジッと俺を見たまま。
ああ、水槽の中に入ってるんだもんな、そりゃ声も聞こえないわ。
どうやってコンタクトを取ればいいのか……そう俺が悩んでいた時だった。
(きこ……え……か?)
「おぉ?」
え、今なんか、妙にぼやけた感じで声が聞こえたんだけど!?
こう、プールに入った後に耳に水が入った状態で、話しかけられたような感じ。
(きこえます……か?)
うわ、今度はもっとはっきりと!?
声は高めの女性の声……周囲を見回すと、頭頂部が寂しくなりかけているオッチャンと、腰の曲がった婆ちゃんしかいない。
あの婆ちゃんが実は声優だったとかトンデモオチがない限り、こんな声を出せる人間はここにはいない。
と、言うことはだ……。
俺はそっと視線を戻すと、水槽の中では相変わらずシマアジがじぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっと俺のことを見詰めていた。
いや、怖いってば。
(聞こえますか? 聞こえていたら右手を高く上げてください)
やばい、聞かなかったことにしたい。
でも超見てる。シマアジ超こっち見てる。
俺はしぶしぶと言った感じで、右手を高く上げる。
すると、俺が手を上げたのを見かけたオッチャンが近寄ってきた。
「はい、お客さん。何かご入り用ですかい?」
(そう、そしてそこの店主にこう言うのです。『そこのシマアジを買いた――)
「あ、そこのサーモンの切り身を二切れ、包んでもらえますか?」
(そうそう、この寒い時期はホイル焼きでほくほくっと、って、ちょっとぉぉぉぉぉっ!!)
脳内で猛烈な突っ込みが入った。
いや、やっぱり君ちょっと余裕あるよね?
包んでもらったサーモンの切り身を買い取った後、再び水槽の前へ。
なんだろう、気のせいかシマアジの視線が殺意を帯びた気がする。
(ここまで必死に頼んでるのに、なんで助けてくれないんですか!?)
「いや、だってなぁ……」
想像してみてくれよ。
魚屋に行ったら、そこの魚が話しかけてくるんだぞ?
物語の中ならまだしも、直接そんなミラクルな現実に直面したら、素知らぬ顔で素通りしたくなるってば。
「というか、君、何なの?」
俺は最も根本的な質問をすることにした。
ここで『ただのシマアジです』とか返ってきたら、帰ることにしよう。
(よくぞ聞いてくれました、陸の民よ)
シマアジがすごい厳かに告げる。
(私の名前はアカネシア・フィアノ・シス・クレアノーブル・オリンと申します。太古の昔より海の底で繁栄し続けてきたマーメイド族の第一王女にして、古代の英知を護る――)
「ちょっとすみませーん! このシマアジ、どこら辺で釣れたんですかね?」
「ああ。沿岸部の定置網に引っかかったやつですね」
さて、帰ろう。
(あ、ちょ、帰らないで! スミマセンでした!! ものっそい見栄張りました!! 本名はアカネで、上にはお兄ちゃんが二人と、お姉ちゃんが一人の四人兄姉で、人魚族の中でも中流階級の家で育ちました!)
三枚に下ろすぞ、このシマアジ。
というか、人魚って所は否定しないのな。
「人魚ぉ?」
(あ、そこは本当です。今は幻術で魚の姿をしていますが、正真正銘の人魚です。こうして貴方の脳内に語りかけているのも、そうして幻術の一つです)
「人魚ってあれだよな、歌で船を沈めるっていう?」
(そうですね)
「人間の男を誘惑して海の底に沈めるとか一部地域では言われてるっていう?」
(そ、そうですね)
「パイ○ーツ・オブ・カ○ビアンでは牙をむき出しにして人間を貪り食ってたっていう?」
(そ、そうです……ね)
「帰ります」
(うわぁぁぁぁぁぁぁん! 待って! 本当に待って! 本当の人魚は人間の目に留まらぬようにひっそり暮らす大人しい種族なんですよぅ! 信じて、信じて本当なのー!!)
「嘘こけ。一説では人魚は邪悪な存在として認知されてて、神様に認められなかったからノアの方舟に乗れなかったとも言われてるんだぞ」
(何で人魚に対してネガティブな方向に詳しいんですか!?)
小説書きの卵舐めんなよ。
色々と小説の内容に説得力を持たせるために色々と調べものしなきゃならないんだよ。
ただ、この場では言わないけど人魚に対して好意的な伝承なんかも腐るほどある。
結局の所、創作の生き物は人間の感情や理屈を反映して、正悪併せ持つ生き物になるもんだしな。
ドラゴンとかもその良い例だし。
ただ……こうして本当に人魚がいるとは。
いやまぁ、こうして目の前にいるのはシマアジだし、コイツが言っていることが本当か、分かんないけどさ。
(うぅぅ、お願い……信じてよぉ……。こうして波長が合って話しかけられたのって、奇跡みたいなものだし、もう貴方しか私が話しかけられる人はいないんだよぉ……)
水槽の底に沈んで、不貞寝しちゃったよ。
あーもう、しょうがないなぁ。
俺がここで見殺しにしたら、コイツ、たぶん三枚に下ろされるんだろうなぁ。
ため息の一つもつきたいが……このまま放っておいたら目覚めが悪いし、しょうがないか。
「すみませーん、このシマアジ一匹ください」
(……ふぇ?)
俺の声に応じて奥から電卓を持ったオッチャンが出てくる。
「おお、ありがとうございます。一匹4,980円ですね」
うげ!? 高い!?
あーそう言えばシマアジってアジ類では最高級の魚なんだっけか。
ぐおぉぉ。貧乏学生に5,000円近い出費は鬼きついぞ。
出費を抑えるために近場のスーパーでは、夕方の半額惣菜とかを狙ってるというのに……これまでの節約が大幅に吹っ飛ぶ勢いだ。
俺は明日からのことを考えながら、血のにじむような思いで財布から5000円札を取出した。
「ありがとうございます。それでは、〆てきますので、少々お待ちください」
(え? あ、ちょ、なんかおじちゃんが近づいてきますよ?)
さて、明日からどうしよう。
とりあえず、肉類は半額シールが貼ってあるのを冷凍庫に保存してるから、次のバイトの給料日まではもつはず。
問題は野菜と米だな。
(網が! 網が下りてき――ぶ、ちょ、あの、助けて! 考え込んでないで、止めて!)
米のストックが少なくなってきて、ちょうど買い足さないと、と思っていた矢先のこの出費だ。
スーパーじゃなくて、ディスカウントショップの少し古い米なら安くで売ってるから、そっちで妥協するしかないか。
最悪、近所の米屋においてあるインディカ米というのも視野に入れて置く覚悟も必要だな。
(やぁぁぁ!? お願いだから気が付いて!! 隣でおじちゃんが出刃包丁研ぎ始めてるの! しゃーこしゃーこやってるの!)
あと、最近は野菜が高いからなー。
とりあえず、もやしをメインに据えて生活するしかないかな……って、あれ?
シマアジはどこに行った?
(日本語聞こえてますかー!! ぷりーず、へるぷみー! はりー! はりあ――――っぷ!!)
うわ、オッチャンが出刃包丁もってシマアジに近づいてる!?
「あ、すみません! それそのままで! 生きたままください!!」
「ええ、活け締めですから問題ありませんよ」
(それ、脳死みたいなもんですから! 生きてるけど脊髄切れちゃってますから!)
やばい、人間に置き換えると意外とエグイなコレ。
「そうじゃなくて、もう、本当にそのままの姿で……」
「分かりました。それでは、少々お待ちください、氷締めにしますね」
(あばばばばばばばばばッ!?)
オッチャンがシマアジを発布スチロールの容器に閉じ込めると、製氷機の中から、これでもかと氷をぶち込み始めた。
サービスが行き届いている上に良い人だなぁ、このオッチャン。
値段も良心的だし、次から魚買う時はこの魚屋に来るとしよう。
(た、たす、助け……ああ、何だか眠く……)
うわ、5,000円が……じゃなかった、シマアジが!
結局、俺は何とかオッチャンに頭を下げて、そのままの形でシマアジを買いうけると、発泡スチロールを抱えて、えっちらおっちらと帰ることになったのだった……。