毒りんご売りの老人
春。木原梨花は公園のベンチに座ってのんびりしていた。平日の昼間だからだろうか、他に人はいない。
梨花は今年大学二年になる。今日は講義が午後からなので、公園で時間を潰しているというわけだ。
桜の花が咲いていて、その美しさに梨花は見とれていた。
「ふぅ。綺麗だし、いい天気で気持ちいいなぁ」
桜に意識を奪われていた梨花だが、コツンと足に何かぶつかった感覚を覚えた。なんだろうと思って見れば、それはりんごだった。
「りんご?」
足元にりんごが落ちている。傷一つついていない、真っ赤なりんごだ。
手を伸ばしそれに触れてみる。その瞬間、背筋が震えた。異様な寒気がしたのだ。異様なほどの冷たさが指先から伝わる。ただのりんごにしか見えないのに、寒気がとまらない。
「おや、こんにちは」
りんごに別の手が触れ、りんごが持ち上がる。梨花は顔をあげ、手の主を見る。そこには高校生ぐらいの少年がいて、自分に向かって笑いかけている。
少年は黒いローブを身にまとっている。髪の毛は黒で、前髪が目を覆っている。前髪の間からチラチラと見える瞳は、赤だった。
「そのりんご、欲しいならお譲りしますよ」
少年はにっこりと笑い、りんごを梨花に差し出した。
「……いらない」
「そうですか? 欲しがる方は欲しがるんですけどね。この毒りんご」
少年はりんごを優しく撫で、その香りをかいでいる。
「毒りんご?」
「ええ。このりんごを食べれば、確実に死ぬことができるんです」
「な、なにそれ……変な冗談はやめてよ」
「冗談じゃないですよ」
少年はくすりと笑う。
「『毒入りりんごを食べて死ぬ人が増加』そんなニュースを見たことはありませんか?」
「……そういえば」
梨花は記憶を辿る。あれは冬の寒い時期、課題に追われ疲れた自分。気分転換にテレビをつける。ニュースが放映されていて、キャスターが話している。
『○○日午前7時。自室で倒れているところを母親が発見』
『側には遺書と思われる書き置きとりんごが転がっており--』
『りんごからは毒物が発見されたとのことです』
あの時見たニュースの一部一部が梨花の頭に再現される。
このようなニュースはしばらく続いた。新たな死亡者も現れた。少なくとも五人は毒入りのりんごを食べて死亡したらしい。それは「毒りんご自殺事件」と呼ばれ、世間を騒がせた。
最近は報道されていないこともあり、梨花はすっかり忘れていたけれど。確かにそういう事件も存在した。
「それがこのりんごなんですよ。僕は死にたいと願う人に毒りんごを譲っています」
「は? 嘘でしょ。そんなわけ」
「疑うのも最もです。そこでこれを御覧ください」
少年はローブからスマートホンを取り出し、画面を梨花に見せた。保存されたムービーが一覧となって表示されており、少年の指先がその一つをタッチする。
ムービーの中には20代と思わしき女性。その瞳に生気は感じられない。
『本当に、死ねるの?』
『ええ。簡単に死ぬことができますよ』
女性の問いに答える人物は、今目の前で話している少年だ。横顔しか見えないが、穏やかな表情をしている。
女性は嬉しそうに微笑むと、りんごを受けとった。それに弱々しくかじりつく。少しして口から血が流れるも苦痛を訴える様子はない。彼女はそのまま眠るように倒れこんだ。
「何よ、これ」
作り物だ、演技だ。そう否定すればよかったのかもしれない。だけどなぜだかその光景は本物だと梨花は確信してしまう。
「これで真実だと、理解していただけました?」
少年はスマホをしまう。
「なんのために? 毒りんごなんて……」
「苦しんでいる誰かを救うためですよ」
少年はごく当たり前のように答える。
「これ食べて死んでるじゃない。どこが救ってるの?」
梨花はあえて荒々しい口調で言うと、信じられないといったふうに少年を見つめる。
「いいえ、救ってますよ。だって僕が救いたいのは--」
少年はしばしの間を置いた後、静かに微笑んだ。
「--死にたい人ですから」
「……は?」
「このりんごの効果は、身体的な苦痛一切なく死ぬことができるというものです」
「それが何?」
梨花が理解できないといった風につぶやけば、少年は淡々と説明を始める。
「死にたい、だけど痛いのはヤダ。飛び降りでも首吊りでも窒息でも、きっとそれは身体的苦痛を伴います。そういった痛みよりも生きることが辛い、そう思った人が死を選ぶのだと考えています」
「……そりゃ痛いのは嫌でしょ」
「死にたい。痛いのはヤダ、でも生きるのも辛い。そんな板挟みで苦しんでいる人にとって、痛みなく死ねるこれはまさに救いとなる希望です」
少年はりんごを布で拭いてから、また梨花に差し出してきた。磨かれたそれはつやつやと輝いて見える。
「死なせることが救いだとでも?」
しかしその実態は食べれば死んでしまうという毒入りのりんごだ。梨花は嫌な気持ちしか感じられない。
「ええ。生きるのが辛い、そんな人に死という選択肢を与えているんです」
「バカバカしい」
梨花はりんごと少年を睨みつけ、いらないとでも言うかのように手で振り払う。
「というか頭おかしい。毒りんご食べて死んだって人は、皆あんたからりんごを買ったとでも?」
「そうですよ。皆、苦しまずに死ねると聞いて幸せそうでした」
「それ、ただの人殺しじゃない」
梨花は非難する。少年の行動を、考えを、そして毒りんごの存在そのものを否定したい気持ちでいっぱいだった。
少年は肩をすくめるようにすると、自分は何も悪くないといった風に言葉を続ける。
「僕は誰も殺していませんよ。死ねと脅しているわけでもない。ただ、死ぬ方法を与えているだけです」
その表情には一切の悪気も反省も見られない。それが梨花の気に障る。
「死ぬ方法を与えてる時点でアウト」
「実際に死ぬかどうかは、本人の選択ですよ。死にたくないなら、食べなければいいだけです」
「だいたいね、自殺なんて弱い人のすることでしょ。そんなのおかしい。辛いからって死ぬ必要はないでしょ」
「……生きるより死んでしまいたい、その苦しみがわからない人は否定するでしょうね」
梨花の主張に少年は苦笑するだけだ。梨花を非難するつもりはないようだが、かといって素直に受け入れようという雰囲気もない。
「肉体は元気でも、心が傷ついてぼろぼろな人はいます。生きている感覚がない。それでも生きてさえいればいいんでしょうか。精神がボロボロで、苦しいだけの状態であったとしても」
少年は静かな声で話し続ける。
「でも、生きてさえいればいつかは……」
「そうやっても希望を持てなかった人や、そもそも生きていくだけの気力を持てない人がりんごを求めるのです」
梨花の言葉を遮り、少年は力強く言い切った。
「飛び降りでも首吊りでもなんでも、それは痛いですよね。当たり前です。人の身体は痛みを感じるものですから」
それでも、と彼は続ける。
「自殺を試みる人はいます。これは彼らにしてみれば死ぬことよりも、生きることのほうが苦しくて恐ろしいからではないでしょうか」
少年の手にあるりんごはそこにあり続ける。
「その時思ったんです。死ぬときの痛みがなくなれば、自ら死ぬ人は増えるのではないかと。……死にたいけれど死ぬことができずに苦しんでいる人を救えるのではないか、と」
「それで本当に死ぬ人が増えるんだとしたら、なおさら毒りんごなんて許されない」
「なぜ?」
梨花の主張に臆することなく、少年は聞いてくる。
「だって……生きてさえいればきっといつか楽になるし。それに辛いのはその人だけじゃないでしょ。他にも苦しんでいる人はいくらでも」
「他に苦しんでいる『誰か』のために、自分は我慢しなければいけないんですか? じゃあ聞きますが、世界で一番苦しい人は自殺していいんですね?」
「え……」
「そういうことでしょう? 他にも苦しんでいる人がいるんだからあなたも頑張れというのは、自分よりも辛い人がいるから成り立つ言葉です」
「そんな話、今はしてないでしょ」
「そんなのどうでもいいんです。僕はただ、需要があるから毒りんごを売っているだけです。死にたい人がいなければ、いくら作ったところで売れませんから」
少年は「あなたもどうですか?」と微笑むと、ツヤのあるりんごを差し出した。磨かれたりんごは綺麗だ。とにかく綺麗だ。綺麗すぎて、かえって恐ろしくなるくらいに。
「あんた、見た感じまだ高校生くらいだよね」
そもそも人間なのだろうか、という疑問も湧く。普通の人間が毒りんごを持っていると思えないし、妙に人間離れした何かを感じさせるのだ。
「ええ。この身体は17歳です」
「まだ若いんだね。私よりも。ねえ、あんたは死ぬつもりはないの?」
「ありません。僕には世界中の苦しんでいる人に毒りんごを売るという使命がありますから」
少年は誇らしげに続ける。
「先ほどあなたが言ったように僕はまだ若いです。だけど一生、毒りんごを売り続ける自信があります。何年、何十年経過したとしても、どんなに年老いたとしても。毒りんごを求める人がいる限り」
「本気?」
「ええ。本気です」
梨花と少年は向かい合う。互いの瞳がぶつかる。しばらくそのまま時が経過した。
沈黙を破ったのは、少年だった。彼は口角をあげ、微笑んだ。
「さようなら」
強い風が吹き、桜の花びらが散る。梨花は目にゴミが入りそうになり、思わず目をとじる。
次に目を開けた時、先ほどまで向かい合っていたはずの少年の姿はなかった。周囲に目を向けても、誰もいない。
それきり梨花が少年に会うことはなかった。数十年が経過し、梨花は高齢者と呼ばれる年齢になった。
そんなある日、孫が遊びに来た。孫は困惑した様子で、こう言ったのだ。
「ねえおばあちゃん。さっき公園に、変なおじいさんがいたの。『楽に死ねる、毒りんごですよ」って私にりんごを見せてきたの。ねえ、警察に言った方がいいのかな?」
精神的な落ち込みの激しい時期に呟いたネタが元になっています。
内容はアレですが、自殺を肯定する意図はありません。
読んでいただきありがとうございました。




