老勇者は、墓守となりて何を思う
眼前には見渡す限りの荒野と、瘴気を吹きだす毒の沼地。
そして、その中心部に座す、古く毀れた巨城があるのみ。
その古城を見上げるように建てられた粗末な砦に、一人の老人が佇んでいた。
七十代に差し掛かろうとする老体は、その不毛な光景を半世紀に渡って眺め続けてきた。
深く刻み込まれた皺を軋ませながら、孤独な男は独り言ちる。
「わしは、貴様の墓守じゃな……魔王よ……」
………
……
…
老人は、かつて勇者と呼ばれた存在だった。
今でも吟遊詩人たちが好んで主題に謳う、魔王討伐の冒険譚。
その主人公であった男だ。
(悪の魔王を討ち倒した、正義の勇者様……か…)
戯言を…と、老人は吐き捨てる。
(彼の王とわしの間に、その様な下らぬ隔たりはなかった…)
魔王が斃れた後、世界の再編をお題目にした人間たちの領土争いが続いていた。
半世紀がたったいま、もはや収拾の目処も立たず、世界は荒廃の一途を辿っている。
(とどのつまりは、奴の言った通り……我ら人間と魔族の間に、さほど決定的な違いがあったわけではないのだ…)
己が陣営の繁栄のための、際限のない武力行使。
ただ、それだけの話しだった。
(正義の為に戦うといった若きわしを、貴様は鼻で嗤いよったな…)
善悪という相対化の欺瞞を彼の王は拒絶し、あくまでも力の覇権を唱えた。
人の世は、それを悪と断じたが何のことはない。
それが誤魔化しようのない世界の真実だと、老人は思い知らされ続けた。
………
……
…
(かつての仲間も全てこの世から去り、わしに残されたのは、この不毛な光景だけか…)
老人は、かつての仲間の面影を呼び起こす。
美しい娘だった僧侶…。
(純粋な信仰心の持ち主だった彼女が、何故ああなってしまったのか…)
失望と悔恨と共に深いため息をつく。
魔王討伐の大功を足かがりに、腐敗した教会の改革を目指した彼女。
しかし魑魅魍魎の住処である宗教界は、甘いものではなかった。
やがて改革のために必要とした権力が、権力のための権力となり……彼女は堕落した。
(最後に会ったときは、最早かつての面影もなく亡者のような貌であった…)
誹謗中傷と暗殺の応酬の結果、彼女は魔女の烙印を押され、神の名の下に焼き殺された。
あれだけ信仰心の篤かった彼女だが、今では墓すら建てる事も許されていない。
遺灰は荒野に撒かれたという…。
(魔王討伐といった大功が、彼女の人生を狂わせたのだ…)
かつての思慕を再び冷たい忘却の棺のなかにしまい込み、老人は他の思い出を引きずり出す。
領土拡大戦争に赴いた戦士…。
世を捨て、隠居暮らしに逃げ込んだ魔法使い…。
どちらも、結局は袂を断った仲間たちだった。
(…といって、彼らの生き方を否定する資格も、今のわしにはない)
つまるところ、戦士は戦場があるから戦士足り得るのであって、相手が魔族か人間かは、さしたる違いはない。
それに確かに、領土の拡張や国土の防衛は、今の人の世がやらねばならぬ営みの一つであった。
(それを短絡的に悪と断じるほど、傲慢にはなっておらぬつもりじゃが…)
しかし勇者として、人の世を救う存在として生まれ育てられた自分には、どうしても人間同士の争いに加わる事ができなかった。
(できぬものは、できぬ…としか言いようがない…)
だが祖国は、そんな彼を疑問視し、猜疑の目で眺め、終いには潜在的な裏切り者と断じた。
そして、魔法使いの様に世捨て人となり、隠居生活に逃げ込む事も許さなかった。
勇者の名と力は、それだけ大きいものであり、放置が認められるほど世の中は甘くはなかった。
………
……
…
(その結果が、この不毛の大地への追放か…)
魔王復活というお伽噺をでっちあげ、その監視と称した任務…。
しかし、本当に監視されているのは他ならぬ勇者と呼ばれた男であり、誰もそんな与太話は信じていなかった。
老人が高台から見下ろすと、護衛の名目で張り付けられた兵士たちの群れが見えた。
皆、気だるそうに、退屈極まりない任務に就いている。
実際、彼らは眼前の廃墟となった古城などにはたいした興味など持ってはいない。
厄介な老人のお守りと監視のためだというのは、暗黙の了解が成り立っている。
(それでも彼らは、三年の任期を終えれば祖国に……家族の元に帰ることができる…)
老人には最早、帰るべき場所もなく、待つ家族もいない。
籠の中の鳥のように、飼い殺しの果てに消え去る運命しか残されていなかった。
そして、長き幽閉の果てに、熾火のように燻ったある渇望だけが、今の老人を生かし続けていた…。
………
……
…
突如、大地が揺れた。
古城を中心に暗雲が集まり、巨大な渦を巻く。
轟音と共に稲光が縦横に走り、空が燃える様に真っ赤に染まる。
「な、何だ、あれはッ!?」
「何が起きているッ!?」
巨獣を前にした小動物のように、砦の兵士たちは騒めき合う。
誰もが恐怖に支配され、恐慌状態を引き起こしていた。
やがて誰もが、縋る様に高台に居る、哀れな囚人へと視線を集める。
避けようのない巨大な嵐を前に、男は微動だせずに屹立していた。
「ゆ、勇者殿……あ、あれは……?」
臓腑の底から搾り出すような絶望の声も、今の老人の耳には届かない。
ただただ眼前の光景だけを見つめ続けている。
やがて、男は一呼吸すると気を吐き出した。
一日も怠る事がなかった鍛錬によって作られ、維持されてきた鋼の身体。
その駆に、膨大な魔力が満ち溢れ、天空の暗雲を切り裂く気流を生み出す。
「…………!!!!」
眼前の空前絶後の光景にも匹敵する、圧倒的な力の存在。
二つの巨大な奔流に挟まれた兵士たちは、なすすべもなく立ち尽くしている。
「そうとも……わしは、この時をずっと待っておった…」
しわがれた乾いた声が響く。
呪詛と祝福が混じり合った音色。
そう…老人は待ち続けてきた。
永遠とも思える待機の中で、この瞬間を。
長き戦いの果てに、価値観を共有した唯一の存在…。
最大の宿敵にして、最高の理解者…。
コインの裏と表…。
老人は壮絶な笑みを浮かべて、独り言ちた。
「古き友よ…」
Fin