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二 警護

 雪のないスキー場を臨む避暑地に立つホテルの一室で、水木学はモデル事務所の人間二人とともに警護員たちを出迎えた。

 茂は葛城を普段見ているので、特に感銘は受けなかったが、一般的には水木はかなりの美形と言えるだろう。茂より少し背が低く、本当に女性のように繊細で、むしろ儚いという表現がふさわしい。

 黒い髪は少年のように短いが、女性のベリーショートの髪型のようにさえ見える。

 モデル事務所の人間二人は背の低い中年女性と若い男性だったが、いずれも葛城を見て感銘を受けていた。

「写真を見ただけでも驚きましたが、本物はさらに・・・・」

 茂と高原と葛城にコーヒーを勧めながら男性スタッフが興奮気味に話す。

「うちのモデル事務所へスカウトしたいという気持ちが、一層強まりましたよ。是非ご検討くださいね、葛城さん。」

 茂たちはとりあえず営業スマイルを浮かべた。

 そして茂は、目の前のクライアントを見ながらつい考えてしまう。こんなに細くて弱そうで綺麗な人間が、どうやったら人殺しなどできたのだろうかと。

 六人は翌日の土曜から月曜までの二泊三日間のスケジュールを最終確認する。

「明日の土曜日は終日制作会です。三会場に分かれてます。水木も長時間のポージングになりますが、出入りするのは予めリストをお渡しした人間だけですので。リストの末尾のこの三名が、モデル事務所の見習いモデルです。葛城さんは彼らと共にいてくださるということですが・・・」

「高原と河合は事前にお伝えしたとおり事務局スタッフに扮しますが、河合は室外、高原は室内に立ちます。通信機器で我々三名は常時連絡可能です。」

「制作会は午前三時間、午後三時間。変更なしですね。」

「はい。日曜日は午前は自由時間ですが、希望する先生を街へ事務局がご案内します。こちらがそのメンバー表です。このとき、先生たちのご希望で、水木を含めモデルたちも同行することになっています。交通手段は予定と変わり、タクシーではなくバスになりました。人数が増えまして。」

「時間は予定通りですね。」

「はい。その後もずっと。昼食の後、ホテル内の会場で展示会とワークショップ、そして夜は懇親会です。翌日月曜朝に解散になります。」

 さっきから水木が一言もしゃべらないことが茂は少し気になった。

「重ねてのお願いになりますが・・・・」

 葛城が、水木と、スタッフたちの顔を順に見ながら言った。

「水木さんには私が必ず近くにつきますが、万一緊急の事態となったときも、私の言うとおりに行動してください。」

「大丈夫だよね、学。」

 男性スタッフが水木のほうを見る。

 水木はゆっくり頷いた。か細い声が初めて聞こえた。

「はい。よろしくお願いします。」



 土曜の昼過ぎ、高速道路を一台の軽自動車が走っていた。

 酒井は助手席で煙草を遠慮もなしに吸いながら、運転席の同僚のほうを見た。

「板見、すまんな。送ってもらってしもて。」

「それは構いませんが・・・・。」

 運転席の板見は、大きな宝石のような目で前を見て運転しながら、少し不審そうな表情をしている。

「なんや?」

「酒井さん、こんなに遅くなって大丈夫なんですか?」

「ああ、祐耶はもう夕べから現地入りしとるからか?」

「はい。」

「遠足の朝に早く目が覚めるガキみたいなもんや。嬉しくて待ちきれへんかったんちゃうかね。」

「はあ」

「今日の夜着いても十分やで。俺は後は一通り下見したら終いやもん。あいつも似たようなもんのはずや。」

 酒井はゆるゆるとした関西弁で、めんどくさそうに話す。

「うち以外の人間に、先にターゲットを殺されてしまうんじゃないかって、深山さんは心配なんじゃないですか?」

「はははは。まあな。ほかに二者いるからな。でも祐耶も言っとったけど、うちを除けば、あと事実上のキーパーソンは東海林さんやから。あのおっさんだけマークしてればその心配はないやろ。ただ・・・」

「?」

「別に、うち以外の人間が先にやったとして、何の問題もない。」

「・・・・」

「あいつ、勇み足せんかったらええけどな。」

「・・・・」

「悪い、お前を不安にさせるつもりやない。それに、この案件を担当してるチームは、めちゃめちゃマニアックに関係者を調査してる。準備は芸が細かいで。もちろん、イベント事務局内にも人は送り込んである。」



 午後二時からの制作会が始まっても、水木のポージングの正確さは午前中とまったく変わらず、茂は、さすがプロの絵画モデルだと感銘を受けていた。茂の担当は室外だが、高原は時折立ち位置を交代してくれた。室内は襲撃圏内といえるが、芸祐会登録メンバーしかいないため、室外と比較しリスクはむしろ低いともいえる、そのことを考えてのことだろう。

 細切れの休憩時間を挟みながら、三時間同じポーズをとる。今回は着衣だが、仕事によってはヌードのこともあるらしい。

 じっと動かない水木を見ていると、茂のほうが体が強張り、疲労する気さえする。

 部屋の壁際では、葛城がモデル事務所の見習いモデルたちに混じって、じっと立って水木を見つめ、さらにさりげなく周囲にくまなく神経を配っているのが見える。モデルたちは皆美しいが、葛城はもしも無防備に立っていたらたちまち際立って注目を集めてしまうだろう。髪で顔を覆い伊達メガネをかけており、目立ちすぎずうまく溶け込んでいる。

 制作会が終わり、なぜかへとへとになった茂に、インカムのヘッドフォンから葛城の声が入った。

「お疲れ様でした、茂さん。モデル事務所さんから、今日はこの後クライアントは自室で過ごすので、ここで予定より早く本日の警護は終了とのことです。水木さんは、お疲れなのですぐお休みになるそうです。」

「そうですよね。

「我々も部屋へ戻りましょう。食事は部屋でしましょうか。」

「なんか俺も妙に腹が減ったよ。」

 高原の声も入ってきた。

 三人はホテルの部屋へと戻る。イベントで部屋がほぼ埋まった後で直前に部屋を確保したため、シングルルーム三部屋という取り方ができず、ツインルームにエキストラベッドを入れてもらっている。

 茂は電話で夕食のために三人分のルームサービスを頼んだ。

 部屋の丸テーブルを囲みながら、葛城が食事の手を止めて茂の顔を見る。

「茂さん・・・なにか気になることがありますか?」

「今日、モデルさんたちの近くにいた、体の大きい中年男性・・・あれが、東海林陸也さんですよね。」

「そうですよ。」

「部屋にいる人間の中で、モデルさんを除いては、唯一絵を描いてないので、すぐに出て行かれるのかと思ったんですが、最初から最後までおられましたね。」

「収集家で、画家さんたちの制作現場をきっちりご覧になることでも有名のようです。モデルも費用を負担して画家へ無料で提供することも多く、今回の水木さんもそうですし。」

「・・・・・」

「そうですね、私も少し気になりました・・・。クライアントが、恐らく大切なスポンサーなのに、東海林さんを避けていますね。」

「はい。」

 再び考え込む茂を、葛城は見ていたが、立ち上がってバルコニーへ向かう大きな窓のほうを見た。

「クライアントをめぐる人間関係は、かなり複雑そうです。今回、準備の時間が本当に少なかったので、なおのことですね・・・いったいどのくらい、我々が知らないことがあるのか、想像すると怖いです。」

「・・・はい。」

「でも、どれだけの種類の人々がどれだけの数の意図をもってクライアントを襲撃するとしても・・・」

「我々がすることは、ひとつ。」

「そうです。」

 葛城はにっこりして振り返った。

 再びテーブルにつく。

「あ、これ、あげます。」

 無料サービスでついてきた小さなケーキの皿を、茂のほうへ差し出す。

「そうですね、葛城さんって甘いもの苦手なんですよね。」

「河合、俺のもやるぞ。」

 高原がにやにやしながら茂のほうを見ていた。

「そういえば以前、高原さんに賞味期限が当日中の高級和菓子を八つもいただいたことがありましたねー。」

「はははは、あれはすまなかった」

 三人は顔を見合わせて笑った。

「俺、先シャワー使うぞ」

「どうぞ」



 翌日の日曜日は、あまり良い天気ではなかったがなんとか雨が落ちてくることはなさそうな空だった。

 イベント事務局側が用意したバスに、十数名の画家と四人の絵画モデル、そしてモデル仲間に扮した葛城が乗り、ホテル前の車寄せから出発する。

 高原は先導のスタッフ用ワンボックスカーに乗り、さらに茂はオートバイで距離をあけて一番後ろから追走する。

 スキー場が近い避暑地の、メインストリートのある中心街へバスが到着し、美術館へ向かうグループ、自由行動のグループなどに分かれバスを降りていく。

 水木はやはり東海林とは違うグループに入り、数人の画家たちと共に近くの大きな土産物店へと徒歩で向かう。日曜午前という時間帯のため、人通りはかなり多い。

 葛城は水木にぴったりついている。

 メインストリートの歩道をしばらく直進し、大型店舗へ向かって道路を横断しようとしたとき、葛城と茂の通信機器のヘッドフォンに高原の声が入った。

「怜、向かいから来るカップル、男性のほう、念のため気をつけろ」

「えっ」

 小柄な女性を連れ、帽子を被った旅行客らしい男性に、特に不審な点はなく、そのまま水木と傍の葛城とすれ違った。

 葛城は男性が脇を過ぎる間も念のためにその男性を視界に入れ続ける。

 そしていきなり、葛城の目の前から男性の姿が消えた。

「・・・・!」

「怜!逆側!」

 高原の鋭い声が葛城と茂の耳に届くのと、葛城が身を翻して水木の向こう側へ身を滑り込ませたのはほぼ同時だった。

 渡ろうとしていた信号が、赤に変わった。

 男の手につかまれた細い銀色のものは一旦猛スピードで水木へ向かって突き出されたが、葛城が順手につかんだその男の手と、葛城の指の間から僅かに滑り出た刃先部分とに分かれて、水木の体へ達する前に止まっていた。

「君が葛城さんか。確かに、敏腕だね。頭もいい。」

 男は、帽子から顔にかかる金茶色の波打つ髪の間から、静かな凶暴さのよぎる目で葛城の顔を至近距離から見つめている。

「あなたは、どこの誰です?」

 嘲るように深山はその異国的な両目を細めた。

「・・・でも、君は、感情が顔に出る人だね。わかりやすい。」

 信号が青に変わった。

 ナイフが素早く二度目に閃いたとき、高原は既に葛城を追い越し襲撃者を追っていた。しかしその姿は幻のように人混みに紛れていた。

 葛城は水木の腕をつかんだまま、肩で息をして男が消えたほうを見ている。

 高原の表情も、ほぼ同じだった。

 茂は後ろから二人の先輩警護員を見て、息をのんでいた。

 あまりにも一瞬の出来事で全貌は分からなかったが、確かなことは、この人通りの中、白昼堂々とした襲撃未遂が、二人の前で周囲の人間たちに一切気づかれることなく行われたことだった。

 高原が葛城を振り返る。

「怪我はないか?」

「大丈夫。二度目の襲撃は逃げるためだけのものだった。」

「そうだな。」



 その後はまったく異変なく午前中のスケジュールは完了したが、茂は昨日にも増して疲労してホテルへ戻った。路上での堂々とした、なおかつ無声映画のように密やかな襲撃未遂事件以降、茂も神経を数倍に尖らせて周回警護にあたったからである。

 ホテルで行われる午後の展示会とワークショップのうち、展示会に水木はモデル仲間とともに顔を出す必要があった。

 少人数の主催者による展示会のテープカットが行われ、ホテル宴会場で既存の作品や前日の制作会でつくられた素描が展示され、イベント参加者だけではなく一般の観光客にも無料で公開されている。モデルを務めた人間たちは会場のあちこちに分かれて立ち、絵画と同じ衣装をつけ、興を添えている。

 インカムから高原の声が葛城と茂のヘッドフォンに入る。

「これも東海林さんのご提案とのことだけど、なんだか怪しいご趣味だ。」

「そうだね。」

 二人が極力普段通りの様子で話すよう努めていても、その様子も声も明らかに午前中のことを考えている。茂はさらに神経をとがらせ、会場入り口でスタッフに紛れながら目を配る。

 会場スタッフ二人が東海林となにか話していたが、やがて、水木の隣にいる葛城と、部屋の反対側にいる別の絵画モデルの傍にいる見習いモデルのところへ、それぞれ歩み寄った。

 葛城はしばらく話した後、頷く。

「どうした?」

 高原の声。葛城が答える。

「隣で普段着のモデルがいるのもなんだから、先輩と同じ衣装を羽織るようにって。」

「・・・・・」

 スタッフ用入口から奥へ入り再び戻ってきたスタッフ二名が、部屋の反対側にいる別の絵画モデルについている見習いモデルに十八世紀の欧州貴族風のマントを、そして水木の隣にいる葛城には水木とそっくり同じ、十五世紀の修道僧風の長い漆黒のマントを、持って近づく。

 葛城は上着を脱ぐよう言われているようだったがもちろん断り、頭からマントをかけ首のところで軽く結ぶだけにしてもらっていた。

 会場は、衣装をつけたモデルたち全員が作り出す妖艶な雰囲気で、すっかり満たされたようになった。確かに、効果的だ。

「あれなんだか動きづらそうですね。」

「大丈夫、袖は通していない。」

 茂は高原との会話が終わるか終らないうちに、あっと息をのんだ。

 葛城が、小さくしかし素早く、茂のいる一般用入口へと歩いてくるスタッフの一人のほうを、つまり茂のほうを、振り返った。

 その動きは、緊急事態時の警護員のものだった。

「どうした、怜?」

「茂さん、その髪を後ろで縛った制服のスタッフ、追えますか?」

「はい!」

「無理はしないで。顔と名札を確認するだけでもいいです」

 そして茂はさらに驚くこととなった。今の今、脇をすり抜けたその人物が、茂が振り返る一秒ほどの間に、最初からそこにいなかったかのようにその姿を消していた。



 展示会と懇親会とのあいだ、水木が部屋で休息している短い時間、同様に休憩時間となった警護員たちは部屋でしばらく沈黙していた。

 葛城はテーブルに置いた紙片に再び目を落とした。

 小さなピンがささったそれは、ありふれたメッセージカードだったが、メッセージの内容は不遜なものだった。

 そこには、葛城たちの準備不足は致命的だから早めに仕事を放棄するように、との助言が短く慇懃な言葉で書かれていた。

「午前中の襲撃犯とは、違う人間だった。顔を見せないようにしていたけど。」

 葛城の声は暗い。

 高原は椅子の背にもたれ、ため息をつく。

「だが、同じ仲間だな。」

 メッセージの末尾は次の言葉で終わっていた。「・・・顔に感情が出やすい、葛城さんへ。」

「これを、葛城さんの衣装を着せるときに・・・・」

「はい、その場で私の上着にピンで留めました。」

「怜が気付くのが遅かったんじゃなく、手さばきが恐ろしくうまかった。もう一人の、部屋の反対側にいた見習いモデルも同じことをされていて、そして後で着替えたときまで気づかなかったそうだ。メッセージの内容は他愛もないものだったけどね。」

 茂は二人の顔を見比べ、恐る恐る尋ねる。

「単独犯じゃないことを、わざわざ知らせてきているんでしょうか・・・・どうして・・・・」

「どうしてだろうね。」

 高原が答えないことに、茂はどきりとした。分かっているけれど言う必要はない、と明快に言っている気がした。

 葛城が立ち上がる。

「次は懇親会会場前でクライアントは先生方とあと東海林さんと、十五分後に待ち合わせですから・・・。十分後にクライアントの部屋ですね。ちょっと外の空気を吸ってきます。」

 本当にかなり酸素が必要そうな顔で、葛城は部屋を出て行った。

 テーブルに置いたインカムセットを、茂は耳にかけながら、立ち上がる。

「河合。」

 高原が茂を呼び止めた。

 茂は、まだテーブルに向かう椅子に座っている高原の脇を通り抜けかけたが、その場で立ち止まった。

「はい。」

 座ったまま、高原は目の前に立つ後輩警護員を見上げた。

「河合、お前、ここにいろ。」

「え?」

「この後は、怜と俺だけで対応する。お前はここで待っていてほしい。インカムから指示はする。」

「・・・どういうことですか?」

「昼間の襲撃者は、街中のメインストリートで堂々と警護員の隣のターゲットを狙った。お前もよく分かっていると思うが、ナイフを使った至近距離での襲撃は、殺人の技術としてこれ以上のものはない。」

「はい。」

「そして徹頭徹尾その技術が完璧だということを示しただけじゃない。・・・・襲撃犯は、ターゲットを殺す気は始めからなかった。あのときはね。あの、一回目の襲撃は、俺たちの力量を測ることだけが、目的だった。」

「・・・はい。」

 賑やかなメインストリートで、堂々と。なんのしかけもない。そよ風のような、身のこなしだけで。そういう技術を持つ人間が、働くような集団が、どういうものか、茂にももちろん想像はついた。

「そして二回目は、ターゲットについて自分たちは綿密に調査した上で臨んでいる、という、警告だ。目的を必ず達成するが、周囲に無駄な影響は及ぼしたくない、そういうポリシーを持つ連中だ」

「はい・・・」

 茂の声はほぼ聞き取れないほどに、震えていた。

「それでも邪魔をするならば・・・・、という、警告だ。予告というべきかな。わかるか?」

「はい。」

「自分たちが完璧ではないことを承知の上で、最善の準備をし、対策をとり、そして最後は徹底して遂行する。つまり、プロということだよ。」

「わかります」

「今回、俺たちは、クライアントとの意思疎通が決定的に足りてないんだ。」

「・・・・・」

「三回目に、本気で来る。」

「・・・・」

「無駄な犠牲を出したくないのは、こちらも同じだ。」

「俺は、邪魔なんですか。」

「そうだ。」

 茂の顔が悲しそうに曇り、高原は一瞬目をそらした。

「これは・・・命令なんですか。」

「波多野さんには俺から話しておく。お前はよくやってくれた。」

「せめて、同じ現場にいさせてください。」

「頼む、河合。」

 高原は、自分も立ち上がり、両手で茂の両肩をつかむように持った。茂は高原のメガネの奥の知的な両目が、刺すような光を自分に向けているのを、そしてその表情がおそらく今の自分のさらに数倍もかなしそうであるのを、見た。

 茂は両目を閉じる。

 高原の左手の指先が茂の右頬にそっと触れる。茂が涙をこぼすのではないかと、思ったかのようだった。

 しかし再び目を開けた茂の表情は、むしろ静かな抗議の色を帯びていた。

「波多野さんは・・・高原さんと葛城さんに、無事に仕事を終えてほしいと、それだけを願っておられます。」

「・・・・」

「そして、俺のことを、信頼してくださった。お二人の手伝いを、なにか、できると信じて、任せてくださいました。」

「・・・・」

「前に一度俺は、高原さんのおっしゃるとおりに、警護を途中で降りると決めたことがあります。」

「そうだな。」

「でも、今回は、そのときとは状況が違います。大森パトロール社の警護員として、上司の波多野さんの意志は、業務の継続です。高原さんのお言葉とは、異なっています。」

「・・・そうかもしれない。」

「お願いします。俺を、いつまでも、新人扱いしないでください。甘やかさないでください。・・・そして・・・・」

 茂の両目に、ついに涙がにじんできた。

「・・・そして、・・・」

「・・・月ヶ瀬のこと、思い出しているんだね、河合。頼む、泣くなよ。」

「・・・・・」

「ありがとう、河合。」

 高原の左手指先が茂の右頬を離れ、肩を過ぎ、茂の右の二の腕をつかんだ。

 同時に、高原の右手の手刀が、茂の上体の急所に正確に当て身を決めた。

 苦悶の表情で膝を折り、倒れ込んだ茂を高原が両手で抱きとめる。

「高原さん・・・」

「河合、ごめんな。」

 高原は、自分の腕の中で意識朦朧となっていく後輩警護員を、慈愛と罪悪感の入り混じった表情で見下ろしていた。




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