一 拙速
阪元探偵社のエージェント、深山祐耶のデビュー回です。
街の中心の高層ビル街に、夕暮れが迫っていた。
事務所の自動ドアを開けて入ってきた人物は、社長室のほうを一瞥しただけで、再びまっすぐに事務室内を歩き、通り抜け、奥の応接セットへとほぼ走るような速さで到達した。
応接セットには、長身の黒髪のエージェントが煙草を咥えてふんぞり返るように座っていた。
彼は、煙草を唇の端に咥えたままで楽しそうに相手を見上げ、言った。
「こんばんは、深山さん。」
相手は軽い微笑みをその異国的な顔に浮かべて、酒井を見下ろした。
「凌介、ひどいな。祐耶と呼んでよ。ほんのしばらく会ってないだけで、そんなによそよそしいの?」
「あーあ、もう、全然相変わらずやんか。社長とそっくりのそのしゃべり方、声、顔そして・・・・」
「僕が何を言われたら怒るか、全部覚えているみたいだね。」
深山祐耶は、腕組みをして顔を少し傾け、酒井を睨みつけた。
二人は、顔を見合わせ、しばらくして笑い出した。
「祐耶お前、ずいぶん髪のびたなあ。恭子さんくらいあるやん。」
「伸ばしてみたんだ。似合うでしょ?」
深山はその金茶色の緩く波打つ髪を、耳にかけた。女性のセミロングくらいの長さがある。
「お兄さんと差別化はかろうとしてるな。」
「よくわかったね。」
「ああいう兄持ったら弟は大変なんやな。苗字を変えても、外見が一緒やもんな。いっそ俺みたいな黒髪に染めたらええやん。」
「・・・・そろそろ、本題に入ってもいい?」
河合茂が土日夜間限定で登録して警護員をしている、大森パトロール社の事務所では、波多野営業部長が腕組みをして少し難しい顔をしていた。
事務室に入った茂は、応接室から話し声がするので、自席で作業をしていた先輩警護員の山添に訊いてみた。
山添は、そのスポーツ好きらしい日焼けした顔に、童顔によく似合う愛らしい微笑みを浮かべて茂のほうを見る。
「こんばんは、山添さん。高原さんから今日仕事の後ご飯でも食べようって言われてるんですが、応接室にいるの、高原さんですか?」
「晶生と怜と波多野さんですよ。なんだか、仕事を受けるかどうかで揉めてるみたいです。」
「そうなんですか。」
平日昼間は別の会社でサラリーマンをしている茂とは異なり、茂の先輩警護員である山添崇も高原晶生も葛城怜も、フルタイムで仕事をしている。勤務時間が長いだけではなく、そのスキルも経験値ももちろん茂よりずっと上であり、その分ありとあらゆる仕事が依頼される。警察や探偵社の領域であるような事柄を除けば、大森パトロール社が身辺警護の仕事を断ることは、人員不足の場合を除いてあまりないことだ。
応接室のソファーの背もたれに深くもたれて、波多野は少しため息をつき、再び口を開いた。
「水木学さんは、殺人罪で服役していた。」
「はい。」
「つまりこれは所謂”出所後警護”だが、普通でもこれは難易度が高い。」
「はい。」
「そして、被害者のご遺族に加え、明らかに、暴力団関係者が水木さんを狙っていると思われる。まったく特徴の異なる襲撃者による未遂事件が複数回発生している。もう警察の領域と言ってもいい。」
「そうかもしれませんね。」
「もちろん水木さんから警察へ被害届は出してある。だが、どうしても、ある日までは死ぬわけにいかない、と、警護を依頼してこられたものだ。」
「・・・・・」
高原と葛城は、波多野のほうを見たままじっと座っている。
「透を・・・月ヶ瀬をご指名だったのは、もちろん奴の評判を聞いてのことだ。そして月ヶ瀬は、俺を説得して、依頼を受けることにした。・・・・だがあいつはああいうことがあって、警護業務は当分できなくなった。俺は、結局この仕事は断ったんだが・・・」
「他の会社に一度は依頼したものの、やはりうちに戻ってこられたんですね。」
「そうだ。何があったかは知らんがね。とにかくあと一か月の間でいい、とおっしゃっている。なぜかは分からないんだがね。」
「私では、月ヶ瀬の代理にはなりませんか?」
葛城は、その、男性とは思えない線の細い美貌を、少し曇らせながら上司の顔を見た。
波多野はため息を繰り返す。
「そういうわけじゃないが・・・。警護員の中から、月ヶ瀬の代わりに怜を指名してこられたのは、クライアントの同僚として潜伏型の警護をしてほしいからだ。水木さんは絵画モデルをしておられるが、その美しさで有名だから。それも、三村さんタイプじゃなく、月ヶ瀬とか怜みたいな、中性的な感じのキレイな人だ。」
「大森パトロール社で実力と美貌の両方が完璧な警護員は、怜と月ヶ瀬しかいないですからね。」
高原もため息をついた。
しばらくの沈黙の後、高原が言った。
「波多野さん、俺が怜につきます。」
「・・・・・」
「俺たちのふたり態勢なら、心配ではないでしょう?」
「晶生、俺はお前の意見を聞きたかっただけで、手伝いを頼むとは言ってないぞ。」
「そうですが・・・」
「それに、時間がなさすぎるんだ。明後日の土曜から○○県の美術関係の会合で、画壇の先生たちが××ホテルに集まり、創作や展示や懇談の芸祐会が二泊三日の日程で行われる。そこで、水木さんはモデルとしての仕事を再開される。一か月先どころか、そこが一番危険な期間なんだが、そこを逃すと、仕事に復帰するチャンスがなくなるんだそうだ。」
「前科のある人間を、そんな顧客から受け入れてもらえる機会はそうそうないでしょうね。スポンサーがいるんですか?」
「業界でも有名な収集家、東海林陸也氏の推薦だそうだ。」
深山は酒井の向かいのソファーにその細い体を沈めた。阪元探偵社社長の阪元航平との違いは、兄より一回り体が華奢なことと、それから、目がエメラルドの色ではなく濃い茶色であることだ。
「僕は兄に、下げたくもない頭を下げて、復帰させてもらった。どうしてか、わかってる?」
「恭子さんは、チームに武闘派がもう一人おってもええからとかおっしゃってたけど。」
「まあ、そういうことだけど、それは凌介、お前のせいなんだからね。」
「うるさいなあ」
「死にかけたでしょ?この間。」
「終わった案件の話をするな。」
「知ってるよ、お前がそうなった理由。」
「うるさいって言ってるやろ」
「・・・・ためらったよね、凌介。お前をふたりがかりで殺そうとした人間たちを、返り討ちにする、ただそれだけのことを。」
「・・・・」
「誰一人気づかなかったかもしれないけど。僕には、わかる。同じ、”殺し”専門の出身だもの。・・・お前、そんな甘い奴じゃなかったじゃない。以前は・・・。」
「祐耶、黙れ。」
「いや、黙らない。」
背筋を伸ばして、目の前の友人を深山は睨むように見た。
酒井は煙草を灰皿へ押し付けながら目を逸らす。
深山祐耶は言葉を続ける。
「お前がおかしくなってきたのは、あの警備会社とのニアミスが増えてきたころからだよね。案件の記録は全部読んだけど、誰のせいなの?河合、高原、葛城、山添、月ヶ瀬・・・・」
「あのなあ」
「実力的には、高原っていう奴が一番ぬきんでてそうだけど。」
「あいつには、興味はない。」
「じゃあ、一番なんだか意外なことをする、河合って警護員?」
「もういいから、席で待っとけ。もうすぐ恭子さんが来はる。改めてきちんと挨拶せいよ。」
不満そうな顔で、肩につく長さの金茶の波打つ髪をかき上げ、深山はソファーから立ち上がった。
応接室から葛城が出てきて、茂を見つけて手招きした。
茂が入ると、波多野が入口に近い空いている席に座るよう促す。葛城も高原の隣に再び座る。
「茂、今週の土曜日から来週月曜までの三日間、空けてくれ。」
空いているか、ではなく、波多野は空けてくれと言った。
「はい。大丈夫です。」
「怜との仕事だ・・・・。急遽だが、引き受けたいと思う。そして、お前はペアから外れる。」
「え?」
「晶生が怜と組む。で、お前は周回警護につく。」
「わかりました。」
葛城が茂のほうを見て微笑む。
「茂さん、今回の案件は少し危ないので、サブ警護員は茂さんから晶生に替わってもらいました。でも、茂さんも参加してもらえますから、わかってくださいね。」
「も、もちろんです!」
茂は、葛城を日頃独占しているような自分が恵まれすぎていると感じているが、葛城が自分をほかの警護員と比べて特別扱いしてくれていると思うと、やはり嬉しい。
しかし、大森パトロール社の誇る敏腕警護員の葛城に加えて、それを超える実力を持つ高原が参加するというのは、どういう案件なのか。
波多野が、相変わらずまったく似合わないメタルフレームのメガネをかけ直し、資料の写しが入った封筒を茂に渡す。
「できれば金曜夜から現地へ入ってくれ。詳しいことは怜から説明がある。が、俺からは二点厳命しておく。周回警護の範囲から出るな。例外なしだ。つまり絶対に襲撃圏内に入るな。それから・・・非常事態になったら警察へ連絡することを自分の唯一最大の役目と肝に銘じろ。」
「はい。」
「怜か晶生から指示があったときはもちろん、二人になにかあったと・・・お前が判断したときもだ。」
「・・・はい。」
波多野が応接室を出て行った後、葛城はやや申し訳なさそうな顔で後輩警護員を見た。
「脅かされてびっくりしてますね。すみません、茂さん。」
高原はソファーの背もたれにもたれ、すらりとした長身にふさわしい長い脚を前に伸ばす。そして、波多野の百倍はよく似合っているメガネの奥の知的な目に、いつもの愛嬌を湛えて高原も茂のほうを見た。
「ごめんな、河合。俺たちのせいで、ちょっと訳のわからないことになっちゃってさ。」
「え・・?」
「正直、警護業務の大原則を守るなら、今回の案件は、受けない理由が最低でも三つある。時間がない、つまり情報が十分でないこと、クライアントと十分な意思疎通ができていないこと、それから・・・」
ため息をついた高原の代わりに、葛城が言った。
「私たちの最大の動機が、私的な事柄・・・仲間の警護員が受けるはずだった仕事を遂行したいことである・・ことです。」
茂はようやく意味がわかり、先輩たちの顔を順に見て、頷いた。
「・・・月ヶ瀬さんが受けようとしていた案件なんですね。」
「そうです。」
「波多野さんにほぼ無理やり頼んだ。」
「そうなんですね。」
「俺たちも、条件をつけられたよ。この二泊三日間の警護で、どんなに些細な事故でも、もしも起こったら、残りの日程はキャンセルすること。」
「はい。」
高原は立ち上がった。葛城と茂も後に続く。
「今日の食事はまた日を改めよう。」
「はい、これから俺も家で予習します。」
「そうだな。明日の金曜夕方、事務所で。時間はまた連絡する。現地は車で三時間てとこだが・・お前は、事務所のオートバイを使え。」
「はい。」
茂は二人の先輩警護員に挨拶して、事務所から出て行った。
続いて高原と葛城が帰宅した後、自分も帰ろうとした山添は、携帯電話のコール音に呼び止められた。
夜から夜中と言ってよい時間帯になり、扉から明りの漏れるカンファレンスルームで、吉田恭子はテーブルに向かって考え事をしながら頬杖をついていた。
阪元探偵社の事務所は何カ所かあるが、本部的な機能を持つこの高層ビルの一室は、一般の調査部門と、そして「本体部門」が同居している唯一の事務所である。出入りする人間は、一般の調査部門の所属の者も含め、本体部門の業務に関わる者だけである。したがって、平穏とは言い難い状況にある人間が穏やかではない様子で行き来することは特に珍しくはないが、夜中の静けさを破って入ってきた人間の様子は吉田を振り向かせるに足る勢いだった。
「あまり大きな足音を立てないでね。階下には残業している会社さんもいるんだから。」
鼈甲色のメガネの奥の、深い湖のような目を少し険しくしながら、吉田は部屋へ入ってきた深山をたしなめた。
金茶色の波打つ髪を肩の上でなびかせ、足を止めた深山は、この探偵社の社長とそっくりの異国的な顔を、楽しそうに紅潮させていた。
「すみません、吉田さん。こんなに早く希望が叶うなんて、嬉しくて。」
「座りなさい。」
「はい。」
吉田は手元の携帯端末にいくつかのファイルを開いていた。隣の紙ファイルからもいくつか取り出す。
「同じものを送信してあるけど、目を通した?」
「ひととおり。」
「社長の許可が下りたのは、条件付きよ。」
「はい。」
「ここにある日程で、襲撃機会は三回以内。時間も厳密に守ること。」
「はい。」
「非常に急にあなたが加わったわけだから、全日程を担当できないことは、わかるわね。」
「大丈夫です。その日僕がしくじっても、翌日からもとの担当エージェントが引き継いでくれるわけですね。」
「そうよ。・・・そのかわり、貴方が担当する日は、他のエージェントは絶対に手出ししないと約束してくれてる。」
吉田は、新たに自分のチームの一員となったばかりの、目の前の青年の顔をちらりと一瞥し、特段の感情も現れない顔で再び書類に目を落とした。
「ありがとうございます。・・・大森パトロール社は、担当は三人で確定なんですね。」
「ええ。」
携帯端末に、それぞれのプロフィールを表示させた吉田に、深山はその形のよい唇の両端を上げて微笑んだ。
「全部、内容は頭に入ってます。河合茂、高原晶生、葛城怜。過去の案件も繰り返し読んでましたから、実物にお目にかかれるのがすごく楽しみです。」
「会えるかどうかは、わからないけれどね。おそらく河合は距離をかなりおくでしょうし・・・高原も近くにいるけど襲撃がない限り目立たない場所にいるでしょう。」
「この、ターゲットよりもキレイな葛城さんは、モデル仲間に扮するんですね。」
「そう。襲撃のとき、葛城を排除することが、最低限必要なことになる。」
終始、嬉しさを隠そうとしない部下を見ながら、吉田がため息をつく。
「深山。」
「はい。」
「勢い余って暴走しないように。ご遺族がストップをかける時間のことを忘れないでね。通信機器は常時オンにしておくこと。」
「大丈夫です。無理なお願いにも関わらず、機会を頂き感謝しています。」
「久々の仕事だから、注意を怠らずに。遂行できなくても構わないのだから。自分の身のことを第一に考えなさい。」
「ありがとうございます。でも僕は、できればそんなふうに・・・優しい言葉は、かけてほしくないです。」
「・・・・あなたが社長に頭を下げてまで戻ってきたのは、酒井のことが原因なんだと思うけれど、仕事に公私混同はしないでね。」
「それはわかっています。でも・・・・凌介の目を覚ましてやりたいのは事実です。」
「・・・・・」
「殺しをすることをことさらに避けると、仕事の範囲はだんだん狭まっていきます。あの会社の、どの警護員が原因なのかわかりませんが、いずれにしても僕には関係ありません。」
「その酒井のことなんだけど。」
「はい。」
「今回、酒井をあなたにつけるわ。」
「・・・凌介の助けなんかいりません。」
「これは命令よ。」
「・・・・」
吉田は抗議の表情で沈黙した部下を、一瞬見ただけで、再び端末の別のファイルを開き、資料の詳細の説明を始めた。
事務所に戻ってきた波多野を、一人残っていた山添が自席から立ち上がって出迎えた。
「すまんな、崇。待たせた。」
「電話で、まだ帰るなと言われたので待ってましたが・・・晶生や怜がいるとできないお話なんですね?」
「まあできなくもないが、できればあいつらのいない所で話したくてな。」
波多野は自席から大型封筒を取り出し、打ち合わせコーナーに山添を来させ自分も部下に向き合って座る。
「崇、今別の警護案件の準備中なのに申し訳ないが、あいつらの、万一のときの救援を頼みたい。」
「え・・・・・」
「明日、現地に先乗りできるか?」
「はい、それは大丈夫ですが・・・。今回の案件、そこまで危険なんですか?」
「客観的には、晶生と怜が組めば、あとは非常時の連絡要員として茂をつければ十分すぎるほど十分な内容だと思う。あいつらも、崇の援助まではいらないと言うだろう。」
「はい。」
「だが、あの二人は、月ヶ瀬のことで、頭に血が上っている。」
「・・・・・」
「まあ、本人たちも自覚しているからこそ、連絡要員にあと一人を・・・茂をつけることに合意したわけだが。」
「はい。」
「上司として、この案件をやらせるべきじゃないと思うだろうな。」
「・・・」
「その通りだ。だが、この仕事を避けてもまた別の仕事がある。もっと危険な仕事もいくらでも来る。気持ちの整理ができるまで待っていたら永遠に仕事はできない。」
「・・はい。」
山添が頷き、波多野はソファーの背にもたれた。
封筒から資料一式を取り出し、示す。
「あいつらに渡したものと同じだ。目を通しておいてくれ。・・・それから・・・」
中から小型の封筒を取り出した。
「これは、一枚だけもらった、ホテルのマスターキーだ。客室はもちろん、スタッフ用エリアも含め、全ての扉が開けられる。」
「・・・・なんだか、責任重大ですね・・・」
「今回、お前が一番精神的に大丈夫そうだからな。」
「酷いですねー、波多野さん。それって、俺の頭が単純だってことじゃないですか。」
「まあそう言うな。考えすぎないほうがうまくいくことは、世の中多いぞ。」
「まあいいです。資料は全部目を通しておきます。・・・必ず、あいつらは守ります。」
「ありがとう。」
立ち上がり、出て行こうとした山添を、波多野が呼び止めた。
山添が振り返る。
「崇。お前は、あいつらの先輩だ。」
「え・・・?」
「何年もの間、大切な仲間の死を抱えて、仕事をしてきた。そして今も、な。」
「・・・・」
「仲間のことで苦しむことについては・・・晶生や怜よりも、お前はずっと先輩だ。後輩たちを、みてやってくれ。頼む。」
「・・・・はい。」