私の名前は
夜中に街へ繰り出したら思いつきました。
人生の分岐点のようで、やたら話がながくなります。
「最中さん、おはよう!」
「おはよう、小鳥。『さん』はいらないのに」
最中さんは私の挨拶に笑顔で返してくれる。
私はそれだけで胸がいっぱいになった。
嗚呼、最中さんが私を名前で呼んでくれる……!
いろんなところがむずむずと疼く。
これはやはり、恋なのだろうか。
「こ、小鳥?」
「ふぇ? な、なんですか最中さん」
私はだらしなく垂れていた涎を拭きながら返事をする。
「いや、トリップしてたみたいだけど……」
お昼休みになると、最中さんはいつもお兄さんのいる教室へ行く。
私はついて行かない。
ううん、ついて行けない。
だって、大嫌いな先輩にお使いを頼まれているから。
「ミヤ、遅かったじゃん」
私たち以外誰もいない屋上での先輩の第一声は、それだった。
「すいません、いつものパンが最後の一個で、それを巡って言い争いに……」
私がそう言って頭を下げかけると、先輩は手を振ってそれを止めた。
「いいよ、そう言うの。で、パンは?」
私は高鳴る心臓を押さえつけながら、ビニール袋を漁る。
今日はちゃんとやったつもりだ。怒られることなんてないはずだ。
「えっと、パンと、野菜ジュースです」
「なんだ、ちゃんとあるじゃん」
私は先輩の笑顔を見て、隠れて溜め息を吐いた。
私は美術部に所属している。
独特の画法で、中学生の時に何度も入賞している。
青春学園に入学した時に、美術部の先生に覗いていってくれと言われ、散らかった雰囲気が気に入ったのでそのまま入部した。
だが、どうしてか、私に絡んでくる美術部の先輩が現れた。
「ミヤー、これ捨てといて」
「あ、はい」
私は先輩からゴミを受け取る。先輩は軽く伸びながら出口へ向かう。
「あ、明日も同じものね」
去り際に先輩はそう言い捨てた。
大きな音を立てて、ドアが閉まる。
「…………はぁ」
知らず知らずのうちに溜め息が出ていた。
手に持つビニール袋はいやに軽く、ポケットの中も悲しいくらい軽かった。
「嫌だなぁ……」
重い腰を下ろし、空を見上げる。
まるで私のせいかのように、五月の空は霞んだ青だった。
「だけど、こうでもしないと筆貸してもらえないしなぁ」
言いながら、とても虚しくなる。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうか。
涙が零れかける。
涙を拭こうと顔に手を伸ばした瞬間だった。
「ふわぁ……。ぁふ……、やれやれ、よく寝たぜ」
そんな声が、頭の上から聞こえてきた。
声のした方を見ると、給水タンクの影で寝ている男子生徒がいた。寝ぼけ眼で髪も乱れている。制服に皺はより、どうも授業をサボってここに来ているような感じがした。
「ん? ああ、お早う」
「え、……おはようございます」
突然話しかけられ、思わず返事をしてしまった。
すると、男子生徒は大声で笑いだした。
「馬鹿だなお前、今は昼休みだからこんにちはだろ?」
「むっ」
イラっとした。
「まあ冗談は置いておいてだな」
あ、冗談だったんだ。
私は呆れ半分にそう思った。
「よっと」
男子生徒は脇のビニール袋を手に取ると、二メートルを超える高さをものともせずに、颯爽と飛び降りてきた。
結構背は高かった。170は超えているだろうか。
彼は私の顔を見ると、眠そうな顔のまま喋り出した。
「そんなことより、何か悩み事でもあるなら聞くぞ」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
しばらくして、ようやく私が言われた言葉の意味を理解する。
「……はぁ?」
口から出てきたのは、とても間抜けな声だった。
「いや、別に悩みなんて……」
言いかけて、止まる。
悩みなんてない。
その一言が口に出せない。
何故だろう。
何故なのか。
「期待の絵描きさんがそんな顔してたらいけないだろ」
カシッ、と男子生徒は缶コーヒーのプルタブを引きながら言う。ブラックコーヒーだった。
いや、そんなことよりも。
「あの、別に私は――」
「悩んでませんってか。ならさっきの溜め息はなんなんだろうな」
男子生徒は、私の言葉に重ねるようにしていった。
男子生徒はコーヒーに口を付けずに、私を見る。
「宮本小鳥のファンなんだよな、俺」
「え……どうして……?」
私が問うと、男子生徒はコーヒーを口に含みながら答えた。
「どうして名前を知ってるかってぇと、美術展かな?」
「美術展?」
もしかして、中学の頃の作品だろうか。
あの作品はちょっと新しい分野に手を伸ばしてみた雰囲気があるので、少し恥ずかしい感じがする。
「ああ。小学生展の『猫』」
「そっち!?」
声を荒げて叫んでしまった。何故そんな黒歴史を掘り返してくるのだろうか。
「まあ、つまり幼いころからお前のファンなわけで、ファンの一人としてはお前が悩んでいるのは少し心配なんだわ」
先程と打って変わって真剣な眼差しでそう言ってくる。
「え、っと……」
見つめられると照れてしまい、上手く顔を見れない。
恐る恐る男子生徒の顔を窺う。
「嫌な話かもしれないけど、いい?」
「別に良いぞ。それで宮前小鳥が楽になるならな、死んでもいい」
顔が熱くになるのがわかった。
「えっと、美術部の先輩に使いっ走りをさせられているんです」
私はぽつりぽつりと話し始めた。
男子生徒が頷くのを確認して話を続ける。
「北条法子って言う、2年生なんですけど……」
「んえ? 法子ちゃん?」
突然男子生徒は素っ頓狂な声を上げた。
「……はい?」
法子『ちゃん』?
「……知ってるんですか?」
「ん、まあ、去年はよく世話してたからな」
そっかーこいつに憑りついたか……、と呟きながら、男子生徒は居心地悪そうに目を逸らした。
何故妖怪の類の様な扱いを受けているのだろうか、先輩。
……わからなくもないけど。
「いやすまんな、法子ちゃんは悪気があってお前にちょっかい出してるわけじゃないんだ」
突然、男子生徒は言った。
少し驚いてしまう。
「どういう……」
「法子ちゃんは社会で生きていけない程度にコミュニケーション能力が足りてないから、法子ちゃんのそれは愛情表現と言うか、構ってほしいって言うサインだと思ってやってくれ」
「えー……」
突然何を言い出すかと思えば、なんてわけのわからないことを言い出すのだろうか。
と言うより、申し訳なさそうにしている所から、この男子生徒に全ての原因があるように思えてならない。
とりあえず、頭の中で情報を整理してみた結果。
「……つまり、先輩は私がす、好きだと?」
「いや、それはないわ」
真顔で返された
「なっ! 今の酷くないですか!? 人が折角恥ずかしい想いしながら言ったのに!」
私は声を荒げて抗議するが、男子生徒は苦笑いを浮かべて首を振った。
「いやいや、法子ちゃんがお前のこと好きだったら、多分時間も場所も関係無く会いに来ると思うぞ。それはお前も嫌だろ?」
「むぐ……それは、そうですけど……」
そこまで言ってハッとする。
「まさか――」
「付き合ってない。そもそも俺は彼女なんていない」
何故この人は私の台詞に先回りして言葉を重ねるのだろうか。
「じゃあなんで先輩に詳しいんですか?」
「それは俺が法子ちゃんに憑りつかれてたからだな、うん」
頑張って平静を保とうとしている表情で頷かれた。
私は男子生徒を鼻で笑う。
「本当にそれだけですかねえ……?」
すると、男子生徒は呆れたような、舐め腐ったような表情でこちらを見つめてきた。
「……クラス替わって離れ離れになったからお前に憑りついたんだろ」
「…………」
言われてみればその通りだった。
「い、いや、距離を置いて気を引こうと言う……!」
「いつの間に法子ちゃんが俺に片思いだって前提になってんだよ」
「そ、そうかもしれないでしょう!?」
「あー、はいはい。なきにしもあらずですねー」
私が身体全体を使って精一杯表現すると、男子生徒は手をぷらぷらさせながら適当に流した。
私が心の中の不満を表現するために、スカートの端を掴みながら上目遣いで唸っていると、男子生徒は鼻で笑った。
何かがキレた。
「うみゃー! ムカツクッ!」
「むかつくむかつくむかつく~~っ!」
私は男子生徒の胸板を全力で殴りながら叫ぶが、男子生徒は物ともせずに話を始めた。
「まあとにかく、お前が元気になったみたいで良かったよ」
「んぇ?」
私が殴るのをやめると、男子生徒は踵を返す。
「あっ」
「昼休みも終わるし、帰ろうぜ」
何故かその場から動けない私を放って、男子生徒はドアノブに手を掛ける。
そして、思い出したように立ち止まり、肩越しにこちらを見ながら言葉を投げかけてきた。
「法子ちゃんには、俺が会いたがっていたって伝えてくれ」
錆びた音を立てながら、ドアは閉められた。
数秒後、昼休み終了のチャイムが聞こえる。
「……伝えておいて、って」
私は空を見上げながら呟いた。
「…………名前知らないし」
視線の先には、嫌になるくらい透き通るような青が広がっていた。
「遅いぞミヤ。また遅刻だ」
不満そうに目を瞑りながら先輩は言った。
私は息を何度か吸って、返事をする。
「あの、ブラックコーヒーを飲む男子生徒が先輩に会いたいって――」
「わかった」
言い終わる前に、先輩は屋上から去っていった。
錆びたドアの音が屋上に響く。
「…………ん?」
今のでわかったのですかとかそういう事より、やけに嬉しそうな表情ではなかったでしょうか北条先輩?
それから数日が過ぎた。
「おはよう、最中!」
「おはよう、小鳥。今日も早いね」
いつも通りの、いや、いつも以上に楽しい日常がやってきた。
絵を好きなだけ描ける。
最中に会える。
なんて楽しい日常だろうか。
「……ねえ小鳥」
「ん、なに?」
私は最中の言葉に笑顔で振り向く。
「……もしかして、誰か好きな人ができた?」
「…………え?」
どきりと胸が高鳴った。