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三章

「クソッ……!」

 息を切らせながら毒づく。もうどのくらい走り回ったか覚えていない。足が棒のよう、なんてもんじゃない。下半身が鉄塊にでもなったかのようだ。

 足を止めて、荒い息を整える。真夜中の冷たい空気が、湯気が立ちそうなくらい汗だくな俺をゆっくり冷ましていった。

 あかりは何処にもいなかった。

 あかりのアパート、実家、ラーメンあら井、ショッピングモール、学校。

 思いつくところを片っ端から探してみたけれど、どこにも彼女を見つけることはできなかった。

 ケータイを取り出し、素早く電話帳を開く。当然かけるのはあかりのケータイだ。

 暫くして、トゥルルル、と呼び出し音がする。だけど、それだけだ。

 夕方からこの時間まで、もう何回もあかりに電話をかけている。勿論、一度も電話に出てはくれない。ただ延々となるコール音を聞きながら、佇むだけだった。

「あかり……お願いだから、出てくれよっ……!」

 二十コールほど待ってみたが、相手が電話に出る様子はない。苛立ちを抑えるように発信を切る。

 大見得張って、啖呵を切ってきたというのに、この体たらくだ。情けなさで、苛立ちが加速する。

 その時、ポケットに入れていた自分のケータイが能天気な着信音を鳴らした。慌てて画面を見る。三佐和さんからの着信だった。

「見つかった?」

 開口一番に首尾を聞いてくる。すみません、とだけ言うと、それだけで察してくれたのか「そっか」と電話の向こうで小さく呟いた。

「あと、探してない場所は?」

「少なくとも、今思いつくところは全部探しました」

 三佐和さんに答えながら、胸の中には良くない想像が次第に膨らんでいく。

 どこかで事故に遭っているんじゃないのか、とか。衝動的に身を投げたりしてはいないか、とか。

「とにかく、落ち着いて。彼女の行きそうなところとか、行きたがってたところとか、良く思い出して」

 三佐和さんも同じ考えに至ったんだろう。不安を払うかのように強気だけど優しげに言う。

「行きそうなところ、行きたいところ……」

 必死で考えるが、全く浮かんでこない。あれだけ毎日あかりの要望を聞いていたのに、なぜこんな時に限って何も出てこないんだ。

 あかりと二人で行った場所。

 ショッピングモールも映画館も、こんな時間じゃもうやってないだろう。ウチの店もそうだ。他にあかりと行った場所といえば――――


 ――“先輩”

 ――“私、次は朝焼けが見たい。今日の夕日に負けないくらい、とびっきりのやつ”


 ……あっ。

 思いついた時には、既に確信に近いものを感じていた。足は勝手に、目的地へと動きだしていた。

「新井君? どうしたの?」

「すみません、またかけます!」

 言い放って、一方的に電話を切る。乱暴にケータイをポケットに突っ込むと、疲労困憊な脚を何とか振り上げて、全力で駆け出す。駆け出すが、思うように走れない。当然だ。探し始めたのが夕方。今はもう日付だってとっくに変わっている。

 それだけの間、駆けずり回っていたと思うと、我ながら無茶しているもんだと感心する。

 だけど、まだだ。まだ俺は、止まれない。

 あかりを見つけるまで、俺は止まるわけにはいかない。理屈じゃない。言葉にできない熱いモノが、そこにはあった。

「あかりっ……!」

 彼女の名前をもう一度だけ口にして、二人で夕陽を見たあの丘を目指し、俺は夜の町を懸命に駆けた。


「はぁ、はぁ、はああぁ……」

 丘を登り切った時には、呼吸にヒューヒューといった細い音が混じるようになっていた。体力の限界なんてとうの昔に過ぎている。もう無理だった。頂上にたどり着くと同時に、倒れこむ。

 荒く息をしながら軽く辺りを見渡すが、探している人影は見つからない。

 ここじゃ、なかったのか……?

 目に映った星空は、吸い込まれそうなくらい綺麗な藍色だった。空気は張り詰めたように澄んでいて、東の空が少し明るい。夜明けが、近かった。

 大の字になって寝転がっていると、不意に人の気配を感じた。おもむろに起き上がり、気配がした方に振り返る。

「……康さん?」

 ああ。

 薄暗い夜明け前でも、俺は不思議とその姿をはっきり見ることができた。

 あの冬の日より少しだけ伸びた茶色いショートボブの髪に、くりっとした大きめの瞳、俺の胸程までしかない低めの身長。

 探していた少女――あかりが、そこにいた。

「なに、してるの?」

 あかりの声は、少しだけかれていた。きっと泣き腫らしたんだろう、目と鼻が赤くなっている。酷い有様だった。

「なに、て、そりゃあ」

 でも、それはお互い様だ。こっちも走り回ったせいで、汗臭いし、まともに立っていられないし、喉がカラカラで上手く喋れない。せっかくあかりを見つけることができたのに、こんな時に限っていつもこうだ。

 だけど、伝えなければ。そのために、俺はここまで来たんだ。

「あかりを、追って」

「……なんで?」

 あかりは、俺から目をそらさず、不安そうに尋ねてきた。その萎れた様な様子を見るだけで、夕方の一件をまだ引きずっているのが分かった。努めて優しく話しかける。

「あんな急に飛び出していったら、そりゃ心配するさ」

「でも……」

「でも、じゃない。ほら、帰るよ」

 そっとあかりの前に手を出す。

「……だめだよ、康さ……先輩」

 だけど、あかりは俺の手を取らなかった。そして呼び方が『康さん』から『先輩』へと再び戻る。

「別に康さんで構わないのに」

「これは、先輩と距離を置くっていう、私なりのけじめ。その意思表示。……そのくらい、察してよ」

 分かっている。でも、納得なんて、できない。

「距離なんて別に置かなくていいよ」

「駄目だよ。だってこのままだと私、先輩のお荷物にしかならないもん」

「そんなことは――」

「あるよ。だって私、どれだけ先輩に迷惑かけてたか、分かってなかった。きっと心のどこかで、やっぱりやってもらって当然、優しくしてもらって当然、って多分思ってた」

 この場所であかりの独白を聞くのは二度目か。

 以前は、過度に尽くそうとする俺に対するものだった。だけど今は、尽くしてもらう自分に対するもの。あの時とは、話の内容が全く違う。

「先輩がまさか、倒れるまで追い詰められているなんて知らなかったから。……違う。そこまで私が追いつめてるなんて、思わなかった」

「俺が倒れたのはあかりのせいじゃないよ! あれはバイトがキツかったのも原因で……」

「確かに、体の疲れはそうかもしれない。でも、心の疲れは、やっぱり私のせいだよ……あの羽生さんって人が言ってたように」

「三佐和さんが大げさに言い過ぎただけだよ。本人も反省してるって」

 あかりは視線をそらし、俺から背を向けるように白み始めた彼方を見つめた。

「先輩。もういいよ、無理しなくて。先輩が不器用だけど優しいのも、自分が辛くても必死で私を笑顔にしようとしてくれるのも、それは素直に嬉しい。だけど、そんな無理してる先輩を見ると、私、居た堪れないよ」

 吐き出すような言葉は、純度百パーセントあかりの本音で。

 その声は、強がって張り詰めた心が最後の一線だけは超えまいとしているかのように、震えていた。

「先輩に、私のこと忘れちゃったように過ごされるのは耐えらんないくらい嫌。でも、私の為に無理して傷ついちゃうのは、もっと嫌なの。自分でもどうしようもないわがままだって分かってる。もう、自分が嫌になってしょうがないよ」

 感情の溢流は止まらない。きっと、今回の事はきっかけに過ぎなかったんだろう。以前からあかりは、自分の中にある矛盾に悩まされていたに違いない。

「もう嫌、嫌嫌嫌! こんなことで悩んでる自分にもイライラするし、結局何もできない自分にも我慢できない! 私もう疲れちゃったよ、何もかもが嫌!」

 気にしてほしい。でも気にしてほしくない。

 大事にされたい。でも大事にされたくない。

 俺達の歪んでしまった関係が、今まさに形を持って、ここにあった。

 あかりが言い切ったのを待って、俺は静かに言う。

「それでも俺は、あかりのそばにいるよ。あかりの力になりたいから」

 それでも。たとえ、あかりがどうあろうと、三佐和さんが何を言おうと。

 俺の気持ちは、揺るがなかった。

「……どうして」

 あかりは、語気を荒くしたかと思えば、急に抑揚のない声で話し出した。この不安定さが、今のあかりの気持ちを物語っていた。

「どうして先輩は、私のこと、そんなに気にかけてくれるの?」

 そう。結局は、そこなのだ。

 あかりは、ずっとそこを気にしてきた。プライベートを削って、倒れるくらい頑張って。何故そうまでして自分に尽くすのか、あかりはずっと理由を欲していた。

 自分でも、正直なんでここまでやるのかは分かっていなかった。答えを見つけ出せずにいた。

 だけど、それもこれまで。

 今から自分が何を言おうとしているのか、想像するだけで体中の血が沸騰したように熱い。さっきとは別の理由で息が荒くなる。自分を落ち着かせようと大きく深呼吸して、俺は、自分なりに出した答えを、あかりに言った。

「俺が、あかりの事を、好きだからだよ」

 一瞬だけ、強い風が吹いた。朝風が火照った頬を撫でる。

「………………。嘘」

 張り詰めた沈黙の後、あかりは絞り出すように言った。空気が冷たいのは、この時間帯のせいか、それとも別の何かのせいか。

「嘘、だよ。それも世界で一番残酷な、嘘。酷いよ先輩、こんなのってないよ……!」

「本当だよ」

「嘘!」

 俺の言葉は、あかりには届かない。それは、そうだろう。

 あの夜。二人の関係が大きく変わってしまった、事故の前。

 あかりは、遠回しに俺に告白してきた。これは勘違いや自意識過剰なんかじゃないと思う。

 でも俺はそれを受けるでもなく、ましてや断るでもなく、あまつさえ答えるでもなく、目の前のあかりから、逃げた。

 答えるのが怖くて。自信がなくて。結果、俺はあかりを深く傷付けてしまった。

「自分でも、今更何言ってんのって感じなのは、分かってる。でも、俺、やっと答えが出せたんだ。……遅くなって、ごめん」

「……」

 あかりは、何も言わない。ただ俯いて俺の言葉を、足かけ二か月かかって出した答えを、聞き入れる。

「だけど、信じてほしい。これが俺の、本当の気持ちだから」

「……先輩」

 顔を上げたあかりは、明らかに困惑していた。一瞬だけ俺を見て、だけどすぐに目をそらす。

「本当に、今更だよ。今更そんなこと言われても、私、信じらんない」

「分かってる」

 俺は、あかりの気持ちを、確かに一度裏切った。だから、その償いをしなければならない。

「信じてもらえるように、努力する。今まで通りバイトも頑張るし、今まで以上にあかりの力になる。約束する」

 それが、今の自分にできる、精一杯の誠意の果たし方だった。

「だから、あかり」

 もう迷わない。胸を張って。前を向いて。

「好きだ」

 もう一度、気持ちを、言葉にした。

 段々と朝日が顔を出し、二人の影が伸びてくる。影が伸びきったとき、暫く黙っていたあかりは、ようやく口を開いた。

「先輩、そんなに頑張ったらまた倒れちゃうよ」

「あかりが愛してるって言ってくれれば、あと百年は不眠不休でも余裕だよ」

「結構すぐ嫉妬するよ、私。あの三佐和さんって人のこととか」

「可愛い嫉妬なら大歓迎だけど」

「私、お荷物にしかならないよ」

「俺を癒せるのはあかりしかいないよ」

「私、重いよ」

「痛感してる。だけど、必ず支える。信じてくれ」

「……もうっ」

 再び顔を上げたあかりは、笑顔で、泣いていた。

 顔をくしゃくしゃにして、元々赤かった瞳を更に真っ赤にして。

 後から後から流れてくる大粒の涙を拭おうともせずに、

「しょうが、ない、から、信じて、あげるっ。もう、康さんってば、本当に、馬鹿なんだから」

 そう言って、俺の胸に飛び込んできた。

「あかりっ……」

 胸の中の彼女を、強く強く抱きしめ、小さく、キスをする。

 もう間違えない。もう、離さない。

 やっと通じ合った二人の不器用な、抱擁。

 他に誰もいない丘の上で、夜明けのあかりに照らされながら、俺はもう一度だけ、その唇にキスをした。

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