序章
ライブの熱気は、最高潮に達していた。
観客は狭いライブハウス内で腕を振り上げながら叫ぶように歓声をあげ、周りの人とぶつかるのもお構いなしに飛び跳ねている。
オーディエンスの熱気に応えるように、荒々しく唸る木目調のギター。
そのギターを弾く小柄な少女に、俺は目を釘付けにされていた。その演奏に心奪われていた。
そして、轟音と歓声が響くライブハウスで、俺は一人、静かに涙を流していた。
「お待たせしました! 先輩っ」
「お疲れ様。じゃ、帰ろっか」
まだライブの熱気と余韻が残る、夜のライブハウス前。あれだけ熱く燃え上がったライブ後でも、五分もすればたちまち体は冷えてくる。
そんな中待ち合わせて、さっきまでステージ上でギターを暴れるように演奏していた少女――落合あかりと一緒に、二月の寒空の下、息を白く染めながら歩き出した。
彼女はついさっきまで息を切らせ、汗だくになりながら演奏していた。しかも今はその演奏に使ったギターを背負っているにもかかわらず、足取りは驚くくらいに軽かった。小柄な体で跳ねるように歩くその度に、茶色いショートボブの髪がふわふわと踊った。
「……どうでした? 私たちの、今日のライブ」
少し前を歩いていたあかりが、振り返りながらおずおずと聞いてくる。
わざと少しだけ勿体ぶって「んー」とか「そうだねー」なんて言ってみると、眉をハの字に曲げて顔色を白くしたり青くしたりと、その不安で緊張した様子がステージで堂々と演奏していた同一人物には見えなくて、妙に可笑しかった。眺めている分には面白かったけど、流石に可哀想になってきたので「正直言って」と前置きし、
「かっこよかった。感動して、ちょっと泣いちゃった」
と、ド直球に伝えてみた。
「マ、マジすか!? うわ、うわぁ。なんか面と向かって言われるとすっごい照れる!」
今度は青くなっていた顔を赤くして、満面の笑みで興奮気味にまくし立てた。
「ギター、あんなに上手いなんて思わなかった」
俺が言うと、「でしょう?」とあかりはおどける様に胸を張って見せた。
「目指すはプロのギタリスト、です! 暇さえあれば、ずーっとギター触ってますから。ほら、これ証拠です」
触ってみてください、と自慢げに左手を広げて見せてくる。
躊躇いがちに指先へ触れると、華奢な女の子には似つかわしくない、硬く厚ぼったい感触があった。
察したのか、女の子っぽくはないんですけどね、とあかりの笑顔に少しだけ寂しさが混じる。
「でも、かっこいいよ、こういうの。うん。すごくかっこいい」
咄嗟に上手いフォローが思いつかず、感じたまま感想を言う。我ながら薄っぺらいなあと思ったが、あかりはそれでも嬉しそうだった。
「なんていうか、その。あ、ありがとうございます。……なんか恥ずかしいなあ。先輩それお世辞で言ってません?」
「んなわけないよ。本音だって」
「どうだかなあ」
そう言いつつ、あかりの顔は締りなく緩んでいた。
「私、自分のライブに人を誘ったの初めてだったんです。今までなんだか恥ずかしくて……。だから、そう言ってもらえると、余計に嬉しくて」
「そりゃあ光栄」
とは言いつつ、内心かなり意外に思う。
――“先輩、ライブ観に来ませんか”
彼女にそう誘われたのは、つい昨日のことだった。
あかりとは、高校からの先輩後輩という間柄だ。と言っても、学校で話した記憶は殆どない。俺が高校三年の時、あかりがたまたま同じバイト先に入ってきて、話す内に同じ高校の生徒だとわかった。当時は部活も何もしていなかったので、後輩の知り合いなんて、あかりくらいしか居なかった。そのまま二年間、お互い高校卒業してからも、同じバイトを続けていて、現在に至っている、という感じだった。
といっても、別に二人で遊ぶようなこともなく、所謂『顔見知り』程度の関係を何年も続けていた。
と、俺は思っていた。
だから、驚いた。正直驚いた。
今まであかりから二人で出かけよう、なんて誘われることもなかったし、まして自分のライブを見に来ないかと誘われるなんて思ってもみなかった。というかバンドを組んでいたなんて昨日初めて知った。
ふと、数年来の知り合いなのに、そういえばあかりの趣味とか全然聞いたことないな、と思った。大学で知り合いに「君は他人に無関心だね。性格の根っこの部分で」と指摘されたのを思い出し、なんだかいたたまれない気持ちになる。
考えがダウナーな方向に向かい始めたので、意識を現実へと戻す。
時計を見ると、夜の十時をまわっている。辺りはすっかり暗くなっていた。
「先輩、何かすみません。帰り、送ってもらっちゃって」
帰りは元々、二人で一緒に帰ろうと事前にメールでやり取りして決めていた。どちらから言い出したのかは覚えていない。でも、電車で帰るあかりの為に、駅まで送るよ、とかメールに書いたような気はする。
「いいって。駅まででしょ? 俺も帰り道だし、ほら、世の中物騒だし、女の子の一人歩きは危険だし」
額面通りの意味しかないのに、なんだか少し言い訳臭くなった。
「あ、一応女の子としてみてくれてるんだ。へえー。ふーん。ほおー」
「何さ」
「べっつにー。えっへへへっ」
だらしない、にへらっ、とした顔であかりは笑った。
「いやほら、今日も寒いから。この寒空の下、ライブの片づけが終わるまで待っててくれた優しい先輩にあったかい缶コーヒーでもおごってくれるかなって」
気恥ずかしくなって、慌てて冗談を挟む。といっても、二月の夜は刺すような寒さで、カイロ代わりに缶コーヒーが欲しいというのも本音だった。
「そこは後輩におごってあげるんじゃないんですか」
「ちょっと何言ってるか分かんない」
「酷っ」
適当にふざけあいながら最寄りの駅を目指して歩く。
「そういえば、今日、よかったの?」
ふと、あかりに聞いてみる。
「? 何がですか?」
「ライブの後とかって、メンバーで打ち上げがあったりするんじゃないの? 他にも今日の出来についての反省会とか。そういうの、大丈夫なのかなって」
ああ、と小さくうなずいて「大丈夫です」とあかりは言った。
「バンドの打ち上げって、お酒飲んだりするんですよ。メンバーに未成年だっているのに。私も未成年ですけど。そういうの、何となーく、嫌で」
先輩を口実に逃げてきちゃいました、と小さく舌を出し、上目使いで微笑んだ。
不意打ちで来たその表情に、思わずドキッとさせられる。
ひいき目無しに、あかりは可愛い方だと思う。そう、美人というより、可愛いという言葉がしっくりくる。くりっとした大きめの瞳と耳が隠れる程度で切り揃えた茶色い髪に、俺の胸程までしかない低めの身長。そして子供のように愛嬌のある、笑顔。これだけ兼ね備えている娘は、そうそう居ないんじゃないだろうか。
実際、高校時代はかなりモテていた。学年が違っても耳に入るくらい噂になっていたんだから、それはもうかなりのモノだったんだろう。
そんなあかりに頬を赤くして微笑まれたら、こっちだって赤くなる。
照れくさくなって「そっか」と気のないふりをして視線を外す。
あかりも少し恥ずかしかったのか無口になり、暫く二人で黙々と歩き続けた。
やがて、駅前の大きな交差点に差しかかる。
「ね、先輩。……康さん」
信号待ちをしていると、あかりは突然真面目な口調で話し始めた。表情は硬い。今までのくすぐる様な笑顔が嘘のようだ。
「康さんって今、彼女とか、います?」
「……どうしたの、突然」
康、なんて名前で呼ばれたのは久しぶりだ。
「いいからっ。気になったんです。で? いるんですか? いないんですか?」
「……いないけど」
何となく、予感がした。この会話の流れは、もしかして。
「そっか。……そうなんだ、いないんだ」
確かめるように、何度も小さく呟いている。冬の夜風が、彼女の茶色いショートボブを揺らした。
「じゃあ」
あかりは言葉を区切って、大きく息を吸い込む。
「康さんは、今、好きな人っていますか?」
聞いて、言葉に詰まった。
その展開は、まさに今自分が考えたものと同じ。予感的中。
そのはずなのに、俺は二の句が継げないでいた。
だって、こんな展開。こんなシチュエーション。
たとえ妄想はしたとしても、現実に起こるなんて、思わなかったから。
「……」
「どう、なんです?」
あかりは俺の顔を覗き込むように、じっと見つめている。頬が少し赤い。声が震えている。緊張しているのが、こっちにも伝わってくる。でも、俺だって同じだ。緊張しているし、動揺だってしている。
風が冷たい。体が芯から冷えてくる。でも、心臓は五月蝿いくらいに高鳴って、顔は焼けた鉄板みたいに熱くなっている。
どのくらい時間が経ったかわからない。暫くしてから、ようやく俺は口を開いた。
「……あかり」
「はい……」
あかりは、まっすぐ俺を見ている。
「……」
俺も、正面から見つめ返して、
「信号、青になった。行こうか」
「は? ……え、ちょ、康さ……先輩!?」
話を逸らした。
気が付けば、信号はとっくに青へと変わっていた。あっけにとられるあかり。そうだろう。核心を迫ったらスルリと躱されたんだから。
あかりは、俺に好意を持ってくれている。そして多分、俺も。ただし、自分の気持ちが男女のそれであるという確信を俺は未だ持てていなかった。そりゃそうだ。昨日まであかりがバンド組んでることすら知らなかったくらいなんだから。
確信が持てずに、返事はできない。してはいけない。それは相手に失礼だ、誠意がないだろう、そうだろう。そんな言い訳じみた考えが一瞬のうちに頭の中で駆け抜けた。
……俺のヘタレ。二十歳にもなって、大した恋愛経験のない自分を呪わずにはいられなかった。
ばつが悪くて、あかりの顔を見ていられない。信号が変わったばかりの横断歩道を足早に渡ろうとした。
その瞬間だった。
不意に、右側から強い光に照らされる。それが車のヘッドライトだと気付き光の方を向いた時、既に乗用車はブレーキとクラクションの甲高い音を響かせながら俺のすぐ真横まで来ていた。
あまりに急な出来事に、俺は体が硬直してしまっていた。
迫る車。ヘッドライトの光。クラクション。視野の端で駆けるあかり。すべてが一瞬のうちに起こり、思考が追い付かない。辛うじて頭の隅で思えたことは、ああ、これが交通事故というものか、という素っ気ない感想だった。
「――先輩!」
ブレーキ音に交じって、あかりの声が聞こえた。気が、した。
ドン、と車が人を撥ねる音が、夜中の交差点に、響いた。
結論から言うと、俺のけがは極々軽微、多少擦り剥いた程度で済んでいた。
というのも、そのはず。車に轢かれるその瞬間、すんでの所であかりが俺を突き飛ばしてくれた。
おかげでこの通り、車に轢かれることは回避された。俺は。
そう。俺は、だ。
俺を突き飛ばしたことで、代わりに車の動線上に出たあかりは、そのまま俺の代わりに車に撥ね飛ばされた。
すぐに病院へ搬送されたこともあって、一命は取り留めたらしい。今はまだ安静が必要ということで、明日まで面会はできない、ということらしい。
以上の話を、全て夜勤で巡回中の看護師さんから聞いた。事故の後、気絶していた俺は、気が付いたら病院のベッド上で天井を眺めていた。
目を覚ました後は大分混乱したが、説明を受けた今は、それなりに落ち着いてきた。時計を見る。ライブハウスを出てから、一時間半しか経っていなかった。
それにしても、よかった。とりあえず、生きている。あかりも、俺も。
安心したら、なんだか体の力が抜けた。
看護師さんに今日はもう帰ってもいいか聞くと、大した怪我ではなかったが、念のため、という理由で俺も一晩だけ入院することになっていると教えてくれた。まあ確かに、事故後暫く経ってから痛みが出たり具合が悪くなるって話も聞いたことがある。とりあえず、言われた通りに一晩泊まっていくことにした。
翌日、あかりの病室を訪ねた。
四人部屋の右奥、窓際のベッドであかりはボーっと外を見ていた。
怪我は、明らかに俺よりも重症だった。左足に仰々しくギプスを付けているし、腕も頭も包帯でぐるぐるだ。
「あかり」
声をかける。
「先輩……」
あかりは横になったまま、のろのろと気怠い表情でこっちを向いた。
ありがとう。助かった。あかりは大丈夫か。
伝えたいことは沢山あるのに、何となく会話の糸口が見つからず押し黙っていると、あかりの方からボソボソと話し出してきた。
「先輩。怪我は、どうですか?」
「俺は大丈夫。全然大したことない。あかりが守ってくれたから。本当にありがとう、あかり」
小さく、そうですか、と呟いてあかりは視線を逸らした。
あかりの声を聴けて、少しホッとした。そして、同時に小さな違和感を覚えた。
なんだか、いつもより元気がない気がする。いや、事故で入院しているんだから、元気いっぱいな訳は勿論ないんだけれども。
なんというか、会話の温度が低いというか。
いつもは春の日差しのように突き抜けた明るさが、今は秋の夜に吹く風みたいに冷たく、乾いている。うまく言えないけれど、そう感じた。
「あかりは、その。……怪我の方、どうだって?」
話しかけ辛い雰囲気のあかりに、意を決して聞いてみた。
あかりは何も言わなかった。暫く最初と同じようにボーっと外を見て、たっぷり一分は過ぎた後に、ゆっくりと、話しだした。
「左足は、ただの骨折だ、って。一か月もすればギプスはとれるって、先生が」
「そっか」
「でも」
まるで俺には口を挟ませないと言うかのように、あかりは矢継ぎ早に続ける。
「右腕」
「右腕?」
「動かないんです」
いつのまにか、あかりの視線は俺をとらえている。黒目がちな瞳は光を失って、より一層深い色に見えた。顔には諦めにも似た皮肉な笑みをうかべて、淡々と話す。
「動かないんです、右腕。全然。少しも。目が覚めてからずっと動かそうとしてるけど、少しも動いてくれないんです。つねっても痛くないし、手を洗っても冷たいとも思わない。まるで、右腕だけゴム製の偽物になっちゃったような、そんな感じなんです」
自分の体温が、サーッと音を立てて下がったような気がした。背中に、嫌な汗が流れる。
あかりはボソボソと話し続ける。その表情には、絶望が浮かんでいた。そしてきっと、俺の顔にも同じものが浮かんでいる。
あかりは「先輩」と呟き、
「右腕、動かないんです」と繰り返した。暫くの間、何回も、何回も繰り返した。
壊れたラジオのよう、という表現を、俺は初めて体感した。




