記憶音
小高い丘に立つ多くの墓石。
そして、無数のそれらの一つの前に、背中から春の太陽の光と温かい風を受け、腰を屈めている人影があった。
「……フローラ・リゼッティア」
その人影は石に刻まれた墓の主の名を呼んだ。
「アレン・レヴァラントは帰ってきました」
焦げ茶の髪を風で揺らし、深いブルーの瞳が細められる。
大人へと成長しつつ、まだ幼さの残る顔。その顔には笑顔がなく、表情は堅く、悲しみが浮かんでいた。
「ごめん……君に会いに来る時は笑って会おうって決めたのに」
アレンはそっと墓石に刻まれた名を撫でた。
「君は昔言ったよね。『憎むなんて言葉は使ってはいけない』と。じゃあ、復讐という言葉はいいかい?」
アレンの顔が苦痛で歪む。
「屁理屈だね……でも、あいつを許すことはできないよ」
そして、「分かっているだろ」とでも言うように力なく笑った。
それからどれくらい時間が経ったか分からない。アレンの他にも来ていた老婦人が身動き一つせずに立っている彼を心配して声をかけた。
「大丈夫?」
老婦人はアレンの肩に触れ、顔を覗き込んだ。アレンはその声に我に返ると、眼前でじっと見詰めてくる老婦人に慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ…私の孫も生きていればあなたと同じくらいの年でして。でも、体の弱い子だから病で死んでしまって……今日は孫の命日なんです。だから、あなたをほっておけなくて」
「……すみません」
アレンは喉が詰まる思いをして老婦人に謝った。彼女はアレンの返事に目を丸くすると、優しく微笑み、しわの入った手をアレンの頭に乗せた。
「謝る必要はないわ。そんなあなたに大切にされているなんて幸せ者ね」
老婦人はアレンの前の墓に年と共に濁ってしまった瞳を向ける。
「……フローラ」
老婦人の言葉にアレンも最愛の人が眠る場所を見詰め、無意識の内にその人の名前を呼んだ。アレンがフローラと過ごした時間が蘇り、気持ち悪くなる。フローラが笑っている姿を思い出し、足に力がなくなって膝が地につく。目に焼き付いてしまったフローラの最後が見え、どうしようもない感情が溢れる。
不意にアレンの目許に老婦人の手が触れた。
「まだ若いのに……大きな悲しみを背負っているのですね」
その時、アレンは自分の頬を伝うそれに気付いて老婦人から顔を背ける。
「おや…涙というものは必要です。泣かなくてはいつか自分が壊れてしまいますよ」
「…………いえ」
アレンは下を向きながらもできるだけ失礼のないように返す。老婦人はそんな彼に気分を悪くせず、彼から手を離した。
「泣きなさい。壊れてしまわないように。あなたにとってフローラさんが大切なように、フローラさんもあなたが大切だと思います。…………生きなさい」
『生きなさい』
その一言がアレンの頭の中を木霊した。
そして、彼は老婦人の気配が完全になくなると、泣いた。
声もあげずに……。
「『儚き命こそ、その輝きはなにものにも侵されない』ですね」
アレンはフローラの口癖を言うと、目尻に残っていた滴を乱暴に拭って立ち上がった。
見れば、めそめそしている間に太陽が沈みかけていた。
もう大丈夫だろう?アレン。
アレンは小さく頷く。
もう、俯く時じゃない。
「帰らないと」
神に祈りを捧げて頂いた手向けの花の存在を思い出したアレンは、それをポケットから取り出した。しかし、それは茎を湿らせて力を失っていた。
「こんなので……ごめん」
他の花に代えたいが、代えればフローラは命を粗末にするなと怒るだろう。腰を屈めてフローラに花を手向けると、アレンは立ち上がって彼女に背を向けた。
「そうだ、フローラ。リアトゼルスの教会の取り壊しの件、辞めになったから」
君が愛したものは俺が守るから。