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URL  作者: 和まと
第一章
8/10

1-7

 澄みきった青が地平線の向こう側まで空を満たし、夏の厳しさの名残りもない太陽が、柔らかな光と暖かさを地上へ降り注ぐ日だった。

 涼やかな風が吹き抜ける。

 一歩、足を踏み出す度に靴底が灰色のコンクリートを叩いた。

 頭上には何の障害物もなく、日の光を一身に受け入れられた。

 森都の中に位置する、ビル群の一つ──その、屋上に。

 俺は、訪れていた。

「今日は、少しあったかいな」

 周りを囲むようにして設置された背の高いフェンスの上に、彼は居た。色素の薄い髪が、時折吹く緩やかな風に悪戯に揺らされている。

 それに誘われるように彼の傍へ歩み寄り、斜線が交差する金網に指をかけた。

 そして、言葉を返す。

「そうだな」

「最近天気悪かったから、晴れてよかった」

「あぁ……まぁ、俺は雨も好きだけどな。あまり外出する人間が居なくて、外が静かになる」

「あははっ、夕也らしい」

 楽しげな笑い声が降ってくると同時に、それまで空を仰いでいた頭が、こちらを向いた。

「──夕也」

 深い栗色の双眸が、俺を見下ろす。

 そうして、胸の奥底から沸々と溢れ出す感情。

 この瞳に、ずっと会いたかった。

「久しぶり」

 ひどく穏やかな、声音。以前と何一つ変わらない、優しい微笑み。

「うん、久しぶり──光一」

 懐かしく、また愛しさすら感じる彼──瀬野光一の再会の挨拶を受け、俺も微笑を口元に乗せると、ゆっくりと息を吐き出した。

「それにしても、よく分かったなー」

 嫌味でも小馬鹿にした感もなく、ただ驚いた様子で光一は率直に感想を零す。

 二人の間に流れる、和やかな空気。

 それは、もう二度と体感出来ないと思っていたもの──。

「実さんのブレスレット、残ってたから」

「ああ、それでか」

「……実さんの部屋に行ったら、保険証だけなかった」

 本当は、信じたくなかった。

 奥歯を噛み締め、顔を俯かせる。

 喉から漏れる声が震えないように、と必死に己自身を叱咤した。

「凡その焼死体は、歯形から身元が特定される──お前、それが分かってて、歯医者に行く実さんに自分の保険証を貸しただろ」

「…………」

「だいぶ前に、実さん歯が痛いって騒いでたときあったよな……その時か?」

「うん、当たり」

 くすり、と喉奥で笑い、光一は頷く。

 その返事に、俺は全身の血が沸騰したかの如く、体の内側が熱を持った。

「ブレスレットと保険証、それだけで分かるなんてすげぇな」

「……あとは、半ば勘だ」

「勘、ねぇ」

 素っ気なく返す俺の態度にか、それとも答えにか──光一はふと可笑しそうに含み笑いを落とす。

 それを注意するでもなく、俺は視線を真正面へ固定したまま、上方に腰かける幼なじみへ問いを投げた。

「あの時から……あの時には、もうARICEなんかと関わってて……実さんも殺すって、決めてたのか?」

「…………」

 降っていた笑い声が止む。

 冷たい沈黙の蚊帳が、俺たちの周りに下りたようだった。

 日差しは暖かいはずなのに……なぜか、俺は体の芯から冷えていっているような気分だった。

 爪先が冷たく、痛い。そこだけ、まるで血が抜き取られたようだ。

 だが、答えなどとうに予想がついていた。

「──ああ」

 やっぱり。

 諦めにも絶望にも似た気持ちで、嘆息する。

 分かっている、分かっていた、光一が、そうだということくらい。

「…………人殺し」

 爪が掌に食い込むほどに握り締め、光一を睨み上げる。

 ポツリと唇を割って敵意が、憎悪が零れるとともに、溢れ出す感情の波が再び壁を破って俺の心の中を荒々しく駆け巡った。

 感情に、思考が支配される。

「人殺し、人殺し──ッ! 最低だ、お前!」

 遊び人でおちゃらけてて、人を巻き込むことが好きだったけれど、優しく接してくれた、実さん。

 俺と光一が仲違いしたとき、クラスメイトよりも誰よりも、一番に心配してくれた。

「あんなに優しくて、実さんはお前をずっと本当に、家族みたいに、想ってくれていたのにッ!」

 お前は違ったのか、光一──。殺すために、自分の身代わりにするためだけに、ずっと傍に居て。利用しようと、接していた。

 牙を剥き出し叫ぶ俺をよそに、光一は「あぁ」と何かを思い出したように声を漏らすと、嘲りを潜めて笑いだした。

「実さんね、ちょうどよかったよ。背格好似てたし、ちょっと悩みがあるんです、みたいな素振り見せたら、簡単に俺のこと信じてくれてさ。殺すの楽だったな」

「……っ!」

「夕也はそれが聞きたくて、俺を呼び出したのか?」

 こてり、と。

 首が傾げられ、光一の笑顔が向けられる。

 昔は、この笑顔を見ただけで何故か心が落ち着いて。どうしようもなく、好きだった。

 それが今は、ただその微笑みも心を騒ぎ立てる要因の一つにしかならない。

 ザワリ、と背筋を得体の知れない何かの感情が走り抜けた。

 ──ああもう、彼は、ちがう。

「なぁ、何人、殺した──?」

 目の前が絶望で黒く塗り上げられる。

 視界の中に映る景色が、よく見えない。

 ざあっ、と耳の横を掠めていく風の音が煩かった。

 光一は、再び黙し──応えない。

 それが、どこまでも俺には残酷だった。

「例の通り魔──お前だろ?」

 日が傾ぐ。夜は、闇はまだ遠いはずが、俺には何故か世界が暗く見えた。

 沈黙。

 それが、光一の答えだと思った。

 途端、肩に重くのし掛かる現実。

 今まで積み上げ、培ってきたものが、足元からガラガラと崩れ落ちていくような気分だった。

 俺は、今まで何を信じて。何を期待して、ここまで来たのだろうか。

「本当に、勘だったよ」

 息の詰まるような空気をただただ打ち破りたく、俺は胸を突き動かす感情のままに口を開く。

「実さんと光一……どっちが生きているのか、最後まで本当に分からなかった」

 ブレスレットと保険証──これだけでは、まだはっきりと誰が犯人などと特定出来なかった。

 実さんか光一。

 或いは、どちらも死んでしまっていたのかもしれなかった。

「でも、俺はお前だって、分かった」

 瞳を眇め、光一を見上げる。

 何かを考えるように正面を見据えた光一の表情はこちらからは窺えなかったが、声は届いている、と俺は構わず話続けた。

 そう、分かった、分かって、しまったのだ。

「理由なんて、ない。ただ、分かったよ。お前が犯人だって。お前が──」

 近江から聞いた通り魔の目撃情報が脳内で再生される。

 茶髪に、身長は170~175㎝の痩型の男。

 黒峰から助けてくれた時に、光一が言ってくれた事と全然違うもの。

 そしてそれは、今現在、俺の視線の先に居る人物と、酷似していた。

「お前が、実さんを殺して、何人もの人を襲った、通り魔なんだろ」

 やはり、答えは降って来ない。

 しかし、それまで掛けていた腰を上げ、俺と逆側──フェンスの向こうへ降り立つと、光一は顔を向けた。

 色素の薄い髪、鳶色の瞳、薄い唇、血色の良い肌──俺の記憶の中にある姿と、何ら変わってはいなかった。

 そうして、光一は柔らかく笑む。

「やっぱり、夕也はすごいな」

「……幼なじみだったから、分かるよ」

 僅か数十㎝の幅しかない、足場。

 その上に、光一は立っていた。

 一歩、足を踏み外せば、その体は間違いなく眼下に広がる──ビルとビルの谷間を縫うようにして走る、森都の道路上へ吸い込まれ、叩きつけられるだろう。

 死の気配が、すぐ光一の傍にある。

 ──それが、今の俺と光一の位置だった。

「…………っ」

 堪らず、唇を噛む。

 涙は、流さない。

 ここへ来る前に、そう誓ってきたのだから。

「本当に、お前は変わったんだな……いや、変わってた! 俺が気づかないうちに、ずっと、傍に……誰よりも傍に、居たはずだったのに! お前は、変わってた!」

 いつからだったのか──それは、分からない。

 だが、俺に違和感を悟らせない程度に確かに、光一は変わっていた。

 もう、同じ場所に、隣に、立てないほどに。

「実さんを殺した、お前を殺してやりたいよッ! あんなに優しい人が死んで、なんで、お前が生きてるんだよ……!」

 吐き気がした。

 人を殺した人間が、何食わぬ顔で息をしていて、生活をしていて──どうして、何の罪もないあの優しい人が、死ななきゃならない?

 実さんはもう、今、この時を、時間を、過ごせないというのに!

「今度こそ……本当に、心の底からっ、お前に消えてほしいって思った……!」

「まーた夕也の癇癪か。昔から変わらないな、お前は」

「……っ! 変わったのは、光一のほうだろっ!」

 どこか小馬鹿にした、光一の態度に一気に頭の天辺に血が上る。

 胸ポケットから携帯を取り出すと、素早くボタンを押した。

「今、刑事があの扉の向こうに居る。黒峰──も」

「ふうん」

「俺は、もうお前を友達とも、幼なじみとも思わない。お前は、ただの最低な犯罪者だ」

 光一に──自分に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。

「電話を掛けたら、それが合図。すぐ此処に来てくれるよう、頼んどいた──俺は、お前を警察に渡すよ、光一」

「…………」

「友達なんて関係ない。もうお前は、他人だ。俺は、憎しみから、この胸を焼きつくす殺意から、お前を警察に、法に引き渡す! 殺しはしない。お前みたいな屑を殺して、俺は一生を棒に振る気はない」

 まるで、宣誓だった。

 そうしてそれが、俺の答えだった。

 光一と、敵対する。

 幼なじみも、友達も、家族にも似た感情さえ捨て、俺は光一を睨み付けた。

 近江と黒峰に頼んだ時点で、決意したのだ。

 光一を止め、彼を法の下で裁く、と──。

 真っ直ぐに光一を見つめ、告げれば、視線の先にあった顔は途端噴出した。

「そっか。だから、此処に俺を呼び出したのか」

「……あぁ」

「別に、俺は構わないけど。呼べば? 待たせてんだろ」

 逃げ場はない。

 暗にそう示唆しているにも関わらず、光一の顔から笑みが消えることはない。

 その事実が、俺の胸の奥をざわつかせた。

 どうして?

「こうなることぐらいは予想してたって。そうじゃなかったら、夕也からメール貰ってここにくるはずないだろ」

「……覚悟、して来たんだと思ってたよ」

 光一の言う通りだ。

 携帯電話が見つからない──そう近江から聞いた時、俺は真っ先に犯人が持ち去ったのだと気づいた。

 それは、携帯に何かしら犯人へ繋がる手がかりがあったからだと。

 だが、光一自身が犯人と気づいた瞬間、俺はよく分からなくなった。

 ──持ち去った目的。

 何を考え、携帯を持っていったのかは分からないが、光一自身が所持しているのなら連絡がつくのではないかと感じたのだ。

 そうして、俺はメールを送信し──

 光一は、此処へ来た。

「警察に、捕まってもいいから……光一は此処に来たんじゃないのか?」

「んー、警察はちょっと困るかもなぁ」

「じゃあ、なんで此処に……」

 何故、此処に来た?

 質問に無言を返し、ふいに光一はフェンスの向こうを歩き始めた。

 その様子に、俺も慌てて光一に続くようにフェンス沿いに足を進める。

「夕也と、話がしたかったからかな」

「俺と?」

 風が凪ぐ。

 金網をなぞっていた指に、知らず力が込められた。

 光一の声が、誰よりも近くなる。

「そう。実さんが死んで、殺されて。お前が、どんな顔してるのか気になった」

「……っ!」

 髪が逆立つようだった。

 ギリッ、と奥歯を噛み締め、眦が裂けんばかりに眼を見開く。

 全身から、怒気が満ち溢れた。

 対し、光一はひどく落ち着いた──静かな声音で、話を続ける。

「夕也は俺が変わった、なんて言ったけれど。人は生きている限り、変わり続ける。それは、当たり前のことだろ」

「人を殺すほどにまで変わってもか?」

「それを止めることなんて、誰にも出来ない」

 嘲りを含んだ笑みを浮かべ、俺を見る光一の双眸の奥には、深い闇が潜んでいた。

 知らない──こんな笑い方をする光一なんて、俺は知らない。

「消したい、死んでほしい、殺したい。そんな気持ちを抱いたこと、誰にだって一度はあるだろ? 俺はそれに忠実に生きた。本能に生きた。それを止めることなんて出来ないはずだ。だって、俺の考えていることなんて誰も分からない。それは、誰にも──夕也にだって!」

「光、一……」

「俺を知らないくせに、分からないくせに、簡単に変わったなんて言うなよ、夕也。人を傷つけるようには、殺すようには見えなかった? いや、見えていないだけだ。内面を推し量るなんて芸当、誰一人として出来ないんだよ。何を考えて、何を見て、生きているかなんて本人しか分からないんだ。それは勿論、死んでからも!」

 高らかに、光一は叫ぶ。

 それは長年、内に秘めていた心情を吐き出すように。誰かに、世界に、演説するかのように。

 そこに込められた思いに、倫理や高潔さなど到底感じられない。

 だと言うのに、何故かその叫びは、ひどく俺の心を打った。

 ──誰よりも傍に居て、誰よりも理解している。

 光一に抱いていた思い上がりを、指摘されたようだった。

「人が人を殺したって、人なんだ、夕也」

 ふいに光一は立ち止まり、金網に指をかける。

 そうして俺の顔を覗き込むと、笑んだ。

 柔らかな、光一の笑顔。

「食事して眠って、息をして、生きる。人を殺したって、それだけは何一つ変わらない」

「……光一」

「お前と会っていなかった一ヶ月、俺も勿論そうして生きていた。テレビや雑誌を見て、ご飯を食べて、眠って。実さんを殺しても、俺は生きていたんだ」

 ギッ、と金属の網が擦れ合い、悲鳴を上げる。

 力を込める指先が、知らず震えた。

 生きていた、生きている、人を殺した人間が……。

 目 の 前 に 。

「お前も同じだよ、夕也。昔と変わっていないし、変わってる。いい意味でも、悪い意味でも」

「…………っでも、俺は人は傷つけない! 殺さない!」

「どうだか。言ったろ? 気持ちなんて、本人にしか分からない」

「……っ」

 冷めた光一の言葉が、容赦なく俺をなぶる。

 きつく下唇を噛むと、舌先に鉄の味が広がった。

 光一の口を、殴ってでも閉じさせたかった。

「俺は、お前と同じ位置まで堕ちない。絶対に」

 自分に、何かに言い聞かせるかの如く、光一にはっきりと言い放つ。

 と、刹那、それまで影を帯びていた光一の表情が緩み──優しい、幼なじみの顔が覗いた。

「……変わらないな、そこは」

 少し、呆れたような困ったような微笑み。

 それはいつも、しょうがない、と俺を許してくれる時の笑顔だった。

「俺は、どこまで変わり続けたんだろうな」

 俺が口を開くより早く。一瞬にして微笑は泡沫の如く消え去り、光一に先刻の影が覆う。

「夕也が昔のままで、何一つ変わっていなかったなら、それはそれでいいんだろうな」

「光、一……?」

「夕也、俺はもう泣けないよ。俺の身体の中にあった涙を流すための機能は、きっともう壊れてる。実さんを殺しても、知らない誰かを殺しても、泣けなかった」

「……っ!」

 静かな、自白だった。

 淡々と発される光一の声には、悲哀さなど感じられないというのに。

 何故か、それは俺の胸に悲しく響いた。

 しかし次の瞬間、鼓膜を打った明らかに“気色の変わった”声に、俺はギクリと身を強張らせる。

「そして、今はただお前の苦しむ顔が見たい」

 すぐ目と鼻の先に、赤い瞳があった。

 真っ赤な、双眸。

 ぞわり、と恐怖が背筋を駆けた。

 以前体感したことのある、緊張感。胸元をぐるぐると渦巻く不快感。

 それは、確かに光一のはずなのに。

 光一ではない誰かが、そこに在るようだった。

「っぁ……!」

 悲鳴が、喉で押し潰される。

 声が出ない。

 全身が震える。

 光一から、確かに──殺意が、俺へ向けられた。

 光一の指先が、金網から外される。

 同時に、頭の中で警鐘が鳴り響き、誰かが囁いた。

 コ ロ サ レ ル 。

 途端、目の前が黒一色に染め上げられる。

 信じていた幼なじみの面影は、もうそこになかった。

 足下から、突き上げられる衝動。

 恐怖嫌悪不安憎悪拒否──様々な感情が脳内を千々に飛び交う中、半ば無意識のうちに、俺は携帯のボタンを押した。

 唇の合間から漏れる小さな息とともに、助けて、とか細い悲鳴が落ちた。

 一歩、光一から距離を置くように後退る。

 と、

「久長っ!」

 刹那、二人の間に流れる空気を打ち破るように、バンッ、とけたたましい音をたて、扉が開かれた。

 戸の向こうから険しい顔つきをした近江と黒峰が飛び込んでくる。

 二人の突き刺さるような眼差しを受け、光一は軽く吐息すると、一度瞳を閉じた。

 そして──


「バイバイ、ユウ」


 顔を上げ、俺に向けて光一は笑った。

 懐かしい、呼び名。

 あたたかい笑顔。

 瞬時、何故か、いくつもの記憶の底から蘇るあの日の光一の笑み。

『どこに?』

 ──どこに、帰るの?

 赤く染まる景色。悲痛さを秘めた声。孤独に押し潰されてしまいそうな、頼りない背中。

 別れを、告げられたはずなのに……。

 確かに、俺にはそう聞こえた。


 ──助けて、と。


「……ぁ」

 何か、俺が言葉を発するより早く。

 光一の体が後ろに傾ぎ。刹那、細い体躯が宙に舞った。

 深い、ビルの谷間。そこへ、音もなく光一の姿が飲み込まれていく。

 すべてが、スローモーションに見えた。

「コウ──ッ!」

 過去に──彼を呼んでいた名が口から零れ落ち、堪らず、手を伸ばす。

 しかし、その手は無情にも冷たい網に阻まれ……幼なじみへ、届くことはなかった。

 無機質な建造物の群は、ただ黙してそれを見つめ──数拍遅れ、地上から鈍い音が届くと同時に、甲高い悲鳴が上がった。

 一気に、下が騒がしくなる。

 そして、脳裏を過る一つの単語。

 ──死。

 光一が、しんだ……?

「あ、あぁ、ぁあ゛ぁぁあ゛──っ!!」

 言葉にならない声が、喉奥から漏れ出る。

 金網に寄り掛かるように指をかけ、冷たいコンクリートの上に膝をつく。

 立っていられなかった。

 体全体にのし掛かる喪失感に、一人では耐えられなかった。

「っ、救急車呼ぶぞ」

 背後で素早く近江が動く気配がする。

 その声に反応出来ず、溢れ出す涙を止められずに居ると、緩慢な動作で黒峰が歩み寄ってきた。

「自殺か」

「光、一……光一、こうい、ち、こういち!」

 力なく首を左右に振り、ただ喚く。

 眼下を見下ろすことが恐ろしく、視線は膝に注がれたままであった。

 一人言染みた黒峰の台詞に答える余裕など、なかった。

 目の前で起きたことが、信じられない。

 ──光一が、飛び降りた。

「ああ゛、あぁぁあ゛っ!」

 悲痛な叫びが、木霊した。


 □ □ □


 ──よく、覚えていないんです。話の内容──話が繋がっているように思えて、実はちぐはぐだったようにも思えて……。

 ──……ARICEを使用していたらしいからな。正しい思考が働かないのも仕方ねぇ。お前も、今日は大変だったな。もう家に帰って、ゆっくり寝ろ。……話は、また後日でいい。

 まともに話が出来る精神状態にない俺を気遣って、近江は早めに解放してくれた。

 その、警察署からの帰り道。隣を歩く人物──黒峰の気配を感じながら、俺はゆっくりと歩を進めていた。

「……なんで、黒峰さんがついてくるんですか」

「近江に頼まれたんだよ。お前を送ってけってな」

「…………そうですか」

 俺が変なことをしないように、と考えての配慮だろうか。

 俺が、光一の後を追って……責任を感じて、死なないようにと。

 ぼう、とした面持ちで、それでも足は止まることなく、その働きを果たしていた。

 辺りはすっかり闇に包まれ、所々ポツポツとあたたかい明かりが漏れ始めていた。

「……即死、だったんですよね」

「……あぁ」

「黒峰さん、別に送ってくれなくてもいいですよ。死のうなんて、思いませんから……」

 喪失感は、大きい。

 けれど、生きていけないほどではない。

 光一と、離別すると決意しての行動だったのだから。

 未だ赤みの引かない、腫れぼったい瞳のまま黒峰を見れば、ふいに隣の影がその場に立ち止まる。

 どうしたのか、とそちらを振り向くと、暗闇の中でも輝きを失うことのない白銀の光が、眼球を刺激した。

「──やっぱ、泣くんだな」

「え……」

「前も……アイツが殺されたと思っていた時も、お前は泣いてた」

 波の立たない湖面のような、静をイメージさせる表情で、黒峰は語る。

 真っ直ぐに──俺の心情を探るような双眸が向けられ、内心ドキリと心臓が跳ねた。

「ARICEの流出経路……これからだんだん分かっていくんだろうが。俺としては喜ばしいことだけどな……お前は違うんだろ?」

「…………」

「俺にはただの憎い敵だったが──アイツ、瀬野光一も人間だって、お前を見てて分かった」

 喋り、黒峰はそのまま俺の横を通りすぎる。

 先にある電灯──そこに設置された自販機の前で止まると、黒峰は無造作に小銭を入れ、ボタンを押した。

「ほら」

「あ」

 取出口から缶を取ると、一本、こちらに放る。

 それを慌てて受け取ると、掌にじんわりとした温もりが走った。

「…………コーンポタージュ」

「寒ぃからな」

 ピタリ。鼻の頭を赤くしつつ、頬に缶を当て黒峰はその温かさを確かめる。

 それを受け、俺も缶を握る手に力を込めた。

 吐き出される息が白く染まり、冷えた外気が肌を刺す──唯一、温かさを与えてくれる物は黒峰が渡してくれた缶ジュースだけであった。

 そして、記憶の海から呼び起こされる、懐かしい声──。

 ──待たせて悪かったって。はい、これ。

 低く、耳に良い声音。苦笑にも似たはにかんだ笑顔。優しい手つき。

 ……もう、世界中どこを捜しても会えないものだ。

「…………っ」

 きつく下唇を噛み、半ば自暴自棄気味にプルタブを引く。

 そうして中身を一気に流し込むと、俺は鼻声混じりに低く唸った。

「…………まずい」

 久しぶりに飲んだコーンポタージュは、しょっぱい味がした。


 □ □ □


 店内に流れる優雅なクラシックの曲が鼓膜を揺るがし、時折聞こえてくる空調の音が同じリズムをとっているような錯覚をしてしまう。

 この店──“forest”は、地下に位置しているにも関わらず、不思議と不快感を感じさせずむしろ清潔感を漂わせていた。

 相も変わらず暗い室内は照明の明かりを頼りに物の輪郭をなぞり、そして相も変わらず客の姿は少なかった。

 落ち着いた内装に比べ、店主の服装が店の雰囲気とミスマッチであることも、いつも通りだ。

 濡れたような光を放つ木目調のカウンターテーブルに腰掛け、グラスを片手にこの店の数少ない利用者である──黒峰はぼんやりと考え込む。

「……二日か」

 瀬野光一が飛び降り自殺をし、世間を騒がせてから二日が経過した。

 マスコミは未だに何かと騒ぎ立てているが、それもやがて止むだろう。

 所詮、人間の興味など一瞬だ。

 どこか達観した意見を一人ぼやき、グラスの中身を煽る。

 返答は特に期待していなかったのだが、隣に座していた近江は、その呟きに言葉を返した。

「……あぁ、二日経ったか」

「何か分かったか?」

「いいや……何一つ掴めなかった」

 力なく首を振る近江に、黒峰も短く息を吐いた。

 近江の話では、瀬野光一から辿り着いたARICEの製造元と思わしき所は既に潰れ、ほぼ機能していないらしく、また流出ルートも謎のままらしい。

 結局、ARICEの存在すらあやふやなままで、真相は分からずじまいだった。

「真実は、墓場まで持ってかれちまったって感じだな」

 瀬野光一──漸く掴んだたった一人の手がかりだったが。

 逃げられた、と忌々しげに黒峰は口端を歪めた。

 あのとき……光一と夕也が対峙したときに、無理にでも止めていればよかったと黒峰は思った。

 だが、口を挟まない──それを条件に、同行を許されたのだ。

「アイツは、なんで俺まで連れていこうと思ったんだ?」

 久長夕也。

 瀬野光一の存在に真っ先に気づき、近江に知らせた人物。

 ビルの屋上へ呼び出したことも、彼の意思だったらしい。

 話をし、自首させる──それが目的だったらしいのだが、尚のこと黒峰は自分が呼ばれたことが不思議でならなかった。

 刑事の近江は分かる。しかし、自分は何故?

 もし瀬野光一が危害を加えるようなことがあれば、と戦力としてのつもりだったのだろうか?

 しかし、自首をすすめるつもりだったのならば、瀬野光一を殺すつもりでいた自分が暴走するとは不安に思っていなかったわけではあるまい──久長自身、その事実は身をもって知っていたはずだ。

 黒峰は、どうしてもそれだけが解せなかった。

 と、一人難しい顔つきになっていると、ふいに近江が口を開いた。

「お前と、会わせたかったらしい」

「は?」

「謝らせたかったのかは分からねぇが……どうしても、瀬野光一をお前に会わせたかったんだとよ」

「なんで……」

 謝らせたかった──?

 更に訳が分からなかった。

 謝罪を口にしたところで、許すつもりなど黒峰には毛頭なく……久長とて、それを察することくらい出来ただろうに。

「さあな。ただ、お前もただの“人”なんだと分かったから……ARICEに執着する理由を知っちまったから、警察へ渡す前に会わせたかったらしい」

「…………」

 ──人。

 それは、黒峰が久長へ告げたことと全く同じ──瀬野光一へ感じた印象と同じものだった。

 そう。瀬野光一も人だったのだ。

 彼のために、泣く人間が居る。

 人を殺したとしても、それだけは変わらない事実。

「…………俺もアイツと同じ立場だったってことか」

 自嘲混じりの吐息とともに呟く。

 隣から怪訝げな眼差しが送られてきたが、それに片手を上げて何でもないと返し、黒峰は近江へ向き直った。

「ARICEってのは、自分にも殺人衝動が起こるもんなのか? 瀬野、症状が出てたんだろ」

 最後に見た久長の目撃証言に、黒峰は抱いていた疑問を投げ掛ける。

 と、途端顔をしかめると近江はぶっきらぼうに「知るか」と吐き捨てた。

「只でさえ詳しいことが分かってねぇのに、そこまでは分かんねぇよ……んな衝動まで起きるかどうかは、お前が一番よく知ってるんじゃねぇの?」

「阿呆か……まあ、確かにそんな衝動が起きるなら、俺は死ぬだろうな」

 人を殺す衝動──もしそれが自分自身にすら適用されるのならば、間違いなく己を迷いなく殺すだろうと黒峰は笑う。

 もし本当にそうなるのなら、初めてこの薬も悪くないと思えた。

「──これで、本当に終わりのような気がしてきた」

 ARICE──まさしく幽霊を探すような気持ちだったが、瀬野光一の死により、長年胸に抱いていた大きなしこりが、ふっ、と消えたような気分だった。

 証拠は何一つ残ってはいない。

 しかし、それを考えるなら瀬野光一は証拠を一つ残らず消して、死んだということではないだろうか。

 ARICEを、消して。

 感慨深く息を吐き、黒峰は苦笑混じりの笑みを口元に浮かべた。

 それに、近江も一つ首を縦に振る。

「だな……まあ、今日は飲もうぜ。俺の奢りだ」

「また金欠に悩んでも知らねぇからな」

「ぐっ……か、可愛いげのない奴だな。そこは黙って素直に奢られとけ」

「なら、素直に奢られる態度になれるくらい、出世してくれよ」

「がぁーっ、腹立つ! おま、次奢ってくれなんて頼んでも、奢ってやんねぇからな!」

 拗ねたように唇を尖らせ、酒に口をつける近江に、黒峰は微笑を落とす。

 これでは、どちらが年上か分からない。

(ま、感謝はしてるけどな)

 決して音として近江に発することのない言葉を胸中で呟き、黒峰は瞳を伏せた。

 きっと、彼はこんなことを言いながらも奢ってくれるのだろう。

 何度会い、どんなに迷惑をかけても変わらない近江景綱の人の良いバカなところを、黒峰は好いていた。

 いつもの他愛ないやり取りに、少し、空気が柔らかさを帯びた時だった。

 ふいに、軽快なメロディーなどではなく、初期設定のままの電子音が鳴り響く。見れば、近江の携帯が自己を主張するように光を点らせていた。

「電話か?」

「おう、ちょっと悪ぃな」

 一言、黒峰に断りを入れてから近江は携帯に出る。

 仕事か何かだろうか。ならば、今日は近江に奢ってもらうのは無理かもしれない。

 ぼんやりと、そんな事を考えていた。

 しかし次の瞬間、電話先と二、三言葉を交わしていた近江の表情が強張り、声の質が変わる。

 ただならぬ近江の様子に、黒峰も目付きを鋭くした。

 と、次いで携帯を切った近江がふいにこちらを振り返り、青白い顔色のまま、静かに口を開いた。

「瀬野光一の、死体が消えたらしい」


 第一章 完

次章でようやくヒロインが登場します。

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